第一章
旧石器時代
第二章
縄文時代
第三章
弥生時代
第四章
ヤマト政権の成立と発展
第二章 縄文時代 – 土器革命と定住社会の胎動
旧石器時代が終わりを告げ、最終氷期の終焉に伴う温暖化という大きな環境変動の中で、日本列島には新たな文化の時代が花開きます。それが、世界史的に見ても稀有な、1万年以上にわたって続いた**「縄文時代」**です。本章では、土器の発明という技術革新を契機とし、狩猟・漁撈・採集を基盤としながらも、定住化を進展させ、豊かで複雑な精神世界を育んだ、この魅力あふれる縄文時代の全体像を多角的に探求してまいります。縄文文化は、その後の弥生文化、さらには現代にまで繋がる日本文化の重要な基層を形成したと考えられており、その実像を理解することは日本史学習の根幹をなすものと言えるでしょう。
この長大な縄文時代を理解するために、本章ではまず、時代の定義や「縄文」という名称の由来、そして1万数千年に及ぶその時間的な射程を確認します。次に、縄文文化が展開した舞台である完新世の自然環境、特に温暖化に伴う縄文海進や植生の変化が、人々の生活にどのような影響を与えたのかを見ていきます。続いて、土器型式学に基づいた縄文時代の時間的な変遷(編年)を追い、草創期から晩期までの6つの時期区分における文化の移り変わりを概観します。そして、縄文時代を象徴する土器そのものに焦点を当て、その技術、形態・文様の変化、そして生活にもたらした意義を深く掘り下げます。さらに、狩猟・漁撈・採集といった多様な生業活動の具体的な姿と、近年注目される**「縄文農耕」論争についても触れます。また、人々の暮らしの場であった集落がどのように発展し、定住生活が本格化していったのか、特に三内丸山遺跡に代表される大規模集落の存在意義も考察します。加えて、土偶や石棒、環状列石や墓制などを通して、縄文人の豊かな精神世界**を探り、交易ネットワークによって列島規模で結ばれていた社会の広がりにも目を向けます。最後に、縄文人自身の身体的特徴や、最新のDNA分析が明らかにしつつあるその系統と現代日本人との繋がりについても解説します。
早慶をはじめとする難関大学の入試においては、縄文時代は極めて重要な出題範囲です。各時期の年代、文化の特徴、代表的な遺跡・遺物に関する正確な知識はもちろんのこと、**環境変動との関わり、技術革新の意義、社会の複雑性、精神文化の多様性、地域性、そして近年の研究動向(年代観の見直し、DNA分析など)**といった多岐にわたるテーマについて、深く理解し、多角的に考察する能力が求められます。
本章を通じて、縄文時代を単なる「原始時代」としてではなく、自然と共生しながら高度な技術と複雑な社会、そして豊かな精神性を育んだ、ダイナミックで魅力的な時代として捉え直し、その全体像と歴史的な意義についての理解を深めていただくことを願っています。
1. 縄文時代の定義と射程:1万年以上にわたる文化
旧石器時代が終わりを告げ、日本列島には新たな文化の時代が到来します。それが、1万年以上にわたって独自の文化を花開かせた「縄文時代」です。本章では、この長大で魅力あふれる縄文時代を理解するための第一歩として、その**時代区分の定義、名称の由来、そして時間的な長さ(射程)**に焦点を当てます。縄文時代は、土器の使用開始に象徴される技術革新のみならず、定住生活の進展、高度な狩猟・漁撈・採集技術、そして豊かな精神文化の展開など、日本文化の基層を形作る上で極めて重要な時代です。
「縄文」という時代の名称は、この時代を特徴づける**「縄文土器」に由来します。1877年にE.S.モースが発見した大森貝塚**出土の土器に見られた縄目模様(Cord Marked)が語源となり、日本の考古学研究の黎明期に定着しました。しかし現在では、縄文時代は単に土器の有無だけでなく、旧石器時代とは異なる、より複雑で豊かな文化内容を持つ時代として認識されています。
早慶をはじめとする難関大学の入試においても、縄文時代は日本史の基礎として非常に重要視されます。その定義、時代区分の画期(開始と終焉)、各時期の文化的な特徴、代表的な遺跡や遺物について正確に理解することはもちろん、近年の研究成果(特に年代観の見直しなど)を踏まえ、縄文文化の多様性や独自性を多角的に考察する能力が求められます。したがって、まず時代の基本的な枠組みをしっかりと把握することが、深い学びへの出発点となります。
本章では、以下の点を中心に解説を進めます。
- 「縄文時代」名称の由来: 縄文土器と、その命名に関わるE.S.モース、大森貝塚。
- 縄文時代の概念規定: 土器使用に加え、定住化、生業技術、精神文化、磨製石器など、複合的な文化段階としての理解。
- 縄文時代の開始時期: 約1万6500年前とされる根拠(AMS年代測定、大平山元Ⅰ遺跡など)。
- 縄文時代の終焉時期: 弥生文化の開始(紀元前10世紀頃)と、その地域差(続縄文文化など)。
- 縄文時代の長大さ: 1万数千年に及ぶ期間とその意義。
これらの基本的な定義と時間的な枠組みを理解することは、縄文時代という長く複雑な時代を読み解き、その多様な文化や社会のあり方を学んでいく上での確かな道標となるでしょう。本章を通じて、縄文時代への知的な扉を開き、続く各章での具体的な学習へと進むための基礎を固めていただければ幸いです。
1.1. 時代名称の由来と概念規定
**縄文時代(じょうもんじだい)は、日本列島の先史時代における時代区分であり、その名称はこの時代に特徴的な縄文土器(じょうもんどき)に由来する。縄文土器は粘土を成形・焼成した容器で、表面に縄目(なわめ)**を回転させて付けたような文様(縄文)が施されることが多いことから名付けられた。
この「縄文土器」名称は、明治時代に来日した米国の動物学者エドワード・S・モースが、1877年(明治10年)に**大森貝塚(おおもりかいづか、東京都大田区・品川区)**を発見・発掘した際、出土土器を「Cord Marked Pottery」(縄印土器)と報告したことに始まる。その後、日本の研究者により「縄文式土器」あるいは「縄文土器」という訳語が定着した。
現在では、縄文時代は単に縄文土器が使われた時代というだけでなく、旧石器時代に続く、以下のような特徴を持つ文化段階として理解されている。
- 土器の使用: 食料の煮沸・貯蔵を可能にし、食生活・生活様式に大きな変化をもたらした。
- 定住生活の進展: 狩猟・漁撈・採集を基盤としつつ、食料基盤安定化に伴い、一箇所に長期間居住する定住生活が広まった(ただし完全定住ではなく季節移動等も伴う)。
- 狩猟・漁撈・採集の高度化: 弓矢発明・普及、骨角器(釣針、銛等)発達、植物食アク抜き・貯蔵技術など、生業技術が高度化。
- 精神文化の発展: 土偶、石棒、環状列石などに代表される、豊かで複雑な精神文化・祭祀儀礼が展開。
- 磨製石器の普及: 石斧、石皿、磨石など、多様な磨製石器が広く使用された。
1.2. 長大な期間:開始と終焉をめぐる議論
縄文時代は、その期間の長さで世界史的に見ても特異である。
- 開始時期: 近年の放射性炭素(¹⁴C)年代測定法、特に高精度AMS法の導入により、土器出現年代が大幅に遡ることが判明。青森県大平山元Ⅰ(おおだいやまもといち)遺跡出土土器片付着炭化物や、長崎県泉福寺(せんぷくじ)洞窟出土豆粒文土器などの年代測定結果から、縄文時代の開始は約1万6500年前頃と考えられる。これは最終氷期最寒冷期を過ぎ、気候が温暖化へ向かい始めた時期にあたる。
- 終焉時期: 縄文時代の終わりは、次代弥生時代の開始、すなわち水稲耕作と金属器使用が本格的に始まる時期とされる。この時期もAMS年代測定成果により、従来の紀元前4~3世紀頃から大きく遡り、紀元前10世紀頃に北部九州で弥生文化が始まったとする見解が有力。ただし、弥生文化受容は地域差が大きく、北海道では続縄文文化、南西諸島では貝塚時代後期と呼ばれる縄文的文化要素を保持した文化が長く続いた。従って、縄文時代の終焉は地域により異なり、東北北部などでは紀元前後頃まで続いたと考えられる。
このように、縄文時代は約1万6500年前から紀元前10世紀(地域により紀元前後)頃まで、実に1万数千年にわたって続いた長大な時代であり、その間に気候変動や技術革新、社会変化などを経験しながら多様な地域文化が展開した。
2. 縄文文化を育んだ自然環境:完新世への移行
前章で概観したように、1万年以上にわたって続いた縄文時代は、日本列島独自の豊かな文化を育みました。その文化形成の背景を理解するためには、縄文人たちが生きた「舞台」、すなわち当時の自然環境を知ることが不可欠です。本章では、旧石器時代の終わりから縄文時代にかけて起こった地球規模の環境変動、特に地質年代区分でいう**「完新世」**への移行に伴う日本列島の自然環境の変化に焦点を当てます。この時期の環境変化は、人々の生活様式や文化のあり方に極めて大きな影響を与えました。
最終氷期の終焉によってもたらされた急激な温暖化は、日本列島の景観を一変させました。氷床の融解による海水準の大幅な上昇(縄文海進)、寒冷な気候に適した針葉樹林から温暖な広葉樹林への植生の変化、そしてマンモスやナウマンゾウといった大型動物相からシカやイノシシなどの中小型動物相への転換など、その変化は多岐にわたります。これらの劇的な環境変動は、縄文文化の形成、例えば土器の使用開始、定住化の進展、弓矢の発明、貝塚の形成などと深く関わっています。
早慶をはじめとする難関大学の入試においても、縄文時代の自然環境、特に縄文海進や植生の変化が、当時の人々の生業活動(狩猟・漁撈・採集)、居住形態、さらには精神文化にどのような影響を与えたのかを具体的に理解し、考察する能力が求められます。したがって、環境と文化の相互作用という視点を持つことが、縄文時代を深く学ぶ上で重要となります。
本章では、以下の点を中心に解説を進めます。
- 最終氷期の終焉と温暖化: 地球規模の気候変動が日本列島にもたらした影響。
- 縄文海進: 海水準上昇による地形変化(複雑な海岸線、内湾形成)、海洋資源への影響、そして貝塚形成との関連。
- 植生の変化: 針葉樹林から広葉樹林(落葉・照葉)への移行と、豊かな森林資源(特に堅果類)の利用可能性。
- 動物相の変化: 大型獣の減少と中小型獣の増加、そして狩猟技術(弓矢・石鏃)の変化。
これらの完新世における自然環境の具体的な姿を理解することは、縄文時代の人々がどのように環境に適応し、独自の技術や文化を発展させていったのかを探るための基礎となります。本章を通じて、縄文文化を育んだ豊かな自然の恵みと、時には厳しさも併せ持つ環境基盤についての知識を深め、縄文人の営みへの想像力を広げていただければ幸いです。
2.1. 最終氷期の終焉と急激な温暖化
約1万数千年前に最終氷期が終わりを迎えると、地球規模で急激な温暖化が進行。日本列島周辺でも年平均気温が数度上昇し、氷床・氷河が融解し始めた。この温暖化は、植生、動物相、海水準にドラスティックな変化をもたらし、旧石器時代人の生活様式を大きく変えることになる。
2.2. 縄文海進:海水準上昇と地形変化
温暖化に伴う氷床融解により大量の水が海洋に供給され、世界的に海水準が上昇した。この完新世の海水準上昇は、日本列島では特に**縄文海進(じょうもんかいしん)**と呼ばれる。
- ピーク時期と規模: 縄文海進は縄文時代早期から始まり、**縄文前期末~中期初頭(約6000年前)**にピークを迎えた。この時期の海水面は、現在より数メートル(地域により5m以上)高かったと推定される。
- 地形への影響: 海水準上昇により当時の海岸線は現在より内陸に入り込み、谷地形には海水が深く侵入して**複雑なリアス式海岸や内湾(入り江)**が形成された。現在の関東平野などの低地の多くは当時海の底だった。
- 資源への影響: この地形変化は、魚介類や海藻類が豊富な遠浅の海や干潟、内湾といった環境を拡大させ、縄文時代の漁撈活動発展を促す大きな要因となった。
- 貝塚の形成: 縄文海進で豊かになった海洋資源を利用した結果、当時の海岸線付近(現在の内陸部含む)には、食後の貝殻や魚骨、動物骨、土器片などが捨てられた**貝塚(かいづか)**が多数形成された。貝塚は、縄文人の食生活、生業活動、当時の自然環境(古環境)を知る貴重な情報を持つ「タイムカプセル」である。大森貝塚(東京)、加曽利(かそり)貝塚(千葉、特別史跡)、**夏島(なつしま)貝塚(神奈川)**などが有名。
縄文時代中期以降、気候がやや寒冷化に転じると、海水準は徐々に低下(縄文海退)し、海岸線は現在の位置に近づいていった。
2.3. 植生の変化:豊かな森林資源の時代へ
温暖化は日本列島の植生を大きく変化させた。
- 針葉樹林の後退: 氷期に広がったトウヒ、モミなどの針葉樹林は、より寒冷な高地や北海道へと後退。
- 広葉樹林の拡大: 代わって温暖気候に適した落葉広葉樹林(東日本中心)と照葉樹林(西日本中心)が列島の大部分を覆うようになった。
- 落葉広葉樹林: ブナ、ミズナラ、クリ、クルミ、トチなど。食料となる**堅果類(ドングリ類、クリ、クルミ、トチなど)**を豊富に実らせた。特に堅果類は栄養価高く貯蔵も可能で、縄文人の重要食料源となった。
- 照葉樹林: カシ類(シイ、カシ)、クスノキなど。こちらも食料となる実(シイの実など)を提供。
このように縄文時代の日本列島は豊かな森林に覆われ、多様な植物資源が利用可能となり、採集活動の重要性を高め、食料基盤安定化に繋がった。
2.4. 動物相の変化:狩猟対象の転換
植生変化に伴い動物相も変化した。
- 大型獣の減少・絶滅: 氷期に生息したマンモス、ナウマンゾウ、オオツノジカ等の大型哺乳類は、温暖化による環境変化や狩猟圧などにより、縄文時代初め頃までに絶滅または大陸へ移動。
- 中小型獣の増加: 代わって森林環境に適応したニホンジカやイノシシといった俊敏な中小型哺乳類が主な狩猟対象となった。
- 狩猟技術の変化: これらの速い動物を効率的に捕獲するため、旧石器時代の槍中心から、遠距離から獲物を仕留められる**弓矢(ゆみや)が発明され急速に普及。矢の先端には石鏃(せきぞく)**と呼ばれる打製石器が取り付けられた。
このように縄文時代人は、氷期から完新世への環境変化に巧みに適応し、新たに利用可能となった森林・海洋資源や変化した動物相に対応した新技術(土器、弓矢等)を発展させ、豊かな文化を築き上げた。
3. 縄文時代の編年:6つの時期区分と指標
前章までで縄文時代の定義や、その文化を育んだ自然環境について見てまいりましたが、1万数千年という長大な縄文時代は、決して一様ではありませんでした。気候の変動、技術の革新、社会の変化などを背景に、その文化は時代とともに、また地域ごとに多様な様相を見せながら展開していきます。本章では、この縄文時代の時間的な変遷(編年)に焦点を当て、その長大な期間を草創期、早期、前期、中期、後期、晩期という6つの時期に区分し、それぞれの時代の特徴を解説してまいります。
縄文時代の編年研究の基礎となっているのは、この時代を象徴する遺物である**「縄文土器」です。土器の形状や文様は、時代や地域によって驚くほど多様に変化するため、その移り変わりを体系的に捉える「土器型式学」**は、縄文時代の時間軸を明らかにする上で最も重要な手法となっています。もちろん、遺跡の地層の重なり(層位学)や、放射性炭素年代測定法(特にAMS法)による科学的な年代決定も、編年の精度を高める上で欠かせません。
早慶をはじめとする難関大学の入試においては、縄文時代の各時期の名称、おおよその年代、指標となる代表的な土器型式、そしてその時代の生活様式、社会、精神文化などの特徴を正確に把握し、理解していることが強く求められます。特に、文化が頂点に達したとされる中期や、弥生文化への移行が見られる晩期などの特徴的な時期、さらにはAMS年代測定法による年代観の大幅な見直し(開始期・終焉期)については、重点的に学習する必要があります。
本章では、以下の点を中心に解説を進めます。
- 編年の基礎: 縄文時代研究の根幹をなす土器型式学の考え方。
- 縄文時代6時期区分: 草創期から晩期までの各時期について、その年代、指標となる土器の特徴(文様、器形)、石器、生業、居住、精神文化、代表的な遺跡。
- 各時期のハイライト: 土器出現(草創期)、定住化と弓矢(早期)、漁撈活発化(前期)、文化の最盛期(中期、三内丸山遺跡など)、環状列石(後期)、亀ヶ岡文化と弥生への移行(晩期)。
- 年代観の見直し: AMS年代測定法がもたらしたインパクトと、新しい年代観の重要性。
これらの各時期の特徴を学ぶことを通して、縄文文化のダイナミックな変化の流れを掴むことができます。単に知識を記憶するだけでなく、なぜその時期に特定の文化現象が見られるのか、環境変動や技術、社会とどう関わっているのかを考えながら読み進めることで、縄文時代への理解がより一層深まるでしょう。本章を通じて、縄文文化の豊かさと多様性を時間軸の中で捉え、確かな知識基盤を築いていただければ幸いです。
3.1. 編年研究の基礎:土器型式学
縄文土器は時代・地域で形・文様が多様に変化するため、縄文時代の時間的移り変わり(編年)を知る最重要指標となる。考古学では、特定時期・地域に共通する土器特徴(形態、文様、製作技法等)を抽出し、**型式(けいしき)として設定。遺跡地層の上下関係(層位学)や他遺跡比較、放射性炭素年代測定等を組み合わせ、各土器型式の時間的前後関係や存続期間を明らかにし、時代を区分する。この土器型式学(どきけいしきがく)**は縄文時代研究の基礎である。
3.2. 草創期(そうそうき、約1万6500~1万1500年前)
- 特徴: 縄文時代最早期、旧石器から移行する過渡期。土器出現するが数少なく地域限定的。
- 土器:
- 世界最古級: 大平山元Ⅰ遺跡(青森)約1万6500年前無文土器、泉福寺洞窟(長崎)・福井洞窟(長崎)約1万6000年前隆線文(りゅうせんもん)土器(粘土紐貼付文様)、豆粒文(とうりゅうもん)土器(粘土粒貼付文様)など。シベリア・アムール川流域土器との関連も指摘。
- 形態・文様:多くは丸底または尖底(砲弾形)深鉢形。文様は無文か、上記隆線文、豆粒文、**爪形文(つめがたもん)**など比較的単純。
- 石器: 旧石器終末期から続く細石刃や、新たに有舌尖頭器なども使用。磨製石斧も継続。
- 生活: 基本的に旧石器的な狩猟・採集中心の移動生活と考えられるが、土器使用開始により食料煮沸(特に堅果類アク抜きか)が可能となり食料利用幅拡大の可能性。定住化への第一歩とも。
- 代表遺跡: 大平山元Ⅰ遺跡(青森)、泉福寺洞窟(長崎)、福井洞窟(長崎)、上黒岩岩陰遺跡(愛媛)、橋立岩陰遺跡(埼玉)。
3.3. 早期(そうき、約1万1500~7200年前)
- 特徴: 気候安定温暖化、縄文海進本格化。定住化進展、人口増加開始。弓矢発明・普及、狩猟対象が中小型獣へ移行。貝塚出現開始。
- 土器:
- 縄文の出現: 棒に縄を巻き付け転がした本来の縄文が施されるように。撚糸文(よりいともん)、押圧縄文など多様な施文技法。
- 貝殻条痕文(かいがらじょうこんもん): 二枚貝縁で引っ掻いたような文様。
- 形態:尖底・丸底深鉢中心だが、次第に**平底(ひらぞこ)**土器も増加し安定性増す。
- 代表型式:井草(いぐさ)式(関東)、夏島(なつしま)式(関東)、押型文(おしがたもん)土器(中部~関東)、紫(むらさき)式(九州)。
- 石器: 石鏃(弓矢先端)が普遍的に。打製・磨製石斧、石匙、石錐、石皿・磨石等も使用。
- その他: 骨角器(釣針、銛、縫い針等)発達。犬飼育開始、埋葬例も(狩猟補助、伴侶、食料?)。竪穴住居普及、定住的集落形成。
- 代表遺跡: 夏島貝塚(神奈川、モース以前発見貝塚)、鳥浜(とりはま)貝塚(福井、大量丸木舟・漆器出土)、尖石(とがりいし)遺跡(長野)、桑田(くわだ)遺跡(岡山)。
3.4. 前期(ぜんき、約7200~5500年前)
- 特徴: 縄文海進ピーク、気候温暖・安定。海岸線内陸化、漁撈活発化。定住一層安定、集落規模拡大。
- 土器:
- 文様:縄文に加え、沈線文(ヘラ等で線引き)、竹管文(竹管押し付け)など、より複雑で装飾的な文様発達。
- 器形:平底土器一般化。深鉢に加え、浅鉢、壺(貯蔵用か)、注口(ちゅうこう)土器(液体用か)など用途に応じた器種分化進む。
- 地域性:地域特徴明確化。東北北部~北海道南部では口縁部から胴部へ直線的な円筒(えんとう)土器文化圏形成。
- 代表型式:諸磯(もろいそ)式(関東)、黒浜(くろはま)式(関東)、関山(せきやま)式(中部)、北白川(きたしらかわ)式(近畿)、円筒下層(えんとうかそう)式(東北・北海道)。
- 生活: 漁撈活動比重増し貝塚大規模化。植物食利用も安定、集落は長期化・大規模化傾向。
- 代表遺跡: 加曽利貝塚(千葉、前期~晩期巨大貝塚)、称名寺(しょうみょうじ)貝塚(神奈川)、姥山(うばやま)貝塚(千葉、住居跡群と貝塚)、興津(おきつ)遺跡(福井、前期大規模集落)。
3.5. 中期(ちゅうき、約5500~4700年前)
- 特徴: 縄文文化最盛期。人口ピーク、集落大規模化・複雑化。土器製作技術は芸術的頂点、祭祀活動も活発化。
- 土器:
- 造形美の極致: 立体的でダイナミック、極めて装飾性の高い土器が各地で製作。特に信濃川流域の火焔(かえん)型土器・王冠(おうかん)型土器は燃え上がる炎や鶏冠を思わせる複雑装飾で縄文土器の芸術性・造形力を象徴(実用より祭祀用説有力)。
- 器種:深鉢、浅鉢、壺に加え、香炉形土器、異形注口土器、有孔鍔付(ゆうこうつばつき)土器、釣手(つりて)土器など、儀礼用と考えられる特殊器種も豊富。
- 地域性:地域様式が最も顕著な時期。
- 代表型式:勝坂(かつさか)式(中部・関東)、阿玉台(あたまだい)式(関東)、加曽利E(かそりいー)式(関東)、大木(だいぎ)式(東北)、船橋(ふなばし)式(近畿)。
- 生活: 大規模集落出現。代表例が三内丸山(さんないまるやま)遺跡(青森)。数百棟住居跡、大型掘立柱建物、計画的墓地などが見られ、高度社会組織と豊かな文化、広域交易網の存在を示す。
- 精神文化: 土偶(立体的・写実的増加。「縄文のビーナス」等)や石棒製作も盛ん。
- 代表遺跡: 三内丸山遺跡(青森)、尖石遺跡(長野、「縄文のビーナス」出土棚畑遺跡含む)、釈迦堂(しゃかどう)遺跡(山梨、大量土偶出土)、姥山貝塚(千葉、集団墓地)。
3.6. 後期(こうき、約4700~3400年前)
- 特徴: 気候やや寒冷化、海水準低下。人口やや減少傾向。土器装飾は全体的に簡略化傾向だが精緻技術も発達。精神文化面では環状列石造営開始。
- 土器:
- 磨消縄文(すりけしじょうもん): 縄文施文後ヘラ等で文様描き、縄文一部を磨り消し文様を浮き立たせる精緻技法。東日本で広く見られる。
- 研磨土器: 表面を丁寧に磨き光沢を出した土器。
- 器形:器種さらに多様化、高坏(たかつき)(供膳用か)なども登場。注口土器も継続製作。
- 地域差:地域様式違いは継続。
- 代表型式:称名寺(しょうみょうじ)式(関東)、堀之内(ほりのうち)式(関東)、加曽利B(かそりびー)式(関東)、大洞(おおぼら)式(東北)。
- 精神文化: 北海道・東北北部中心に、**環状列石(ストーンサークル)**と呼ばれる大規模祭祀・墓地遺跡造営開始。**大湯(おおゆ)環状列石(秋田、特別史跡)**などが代表例。抜歯風習も広く行われる。土偶は地域色強まり、ハート形土偶(群馬)やみみずく土偶(埼玉)など作られる。
- 代表遺跡: 大湯環状列石(秋田)、是川(これかわ)遺跡(青森、漆器・木製品多数出土)、加曽利貝塚(千葉)、称名寺貝塚(神奈川)。
3.7. 晩期(ばんき、約3400~2400/2300年前)
- 特徴: 寒冷化さらに進み、生業・居住域にも影響。人口減少し集落も小規模化傾向。地域差より顕著。西日本では水稲耕作伴う弥生文化影響出始め、縄文文化と併存・融合しつつ移行。
- 土器:
- 亀ヶ岡式土器(かめがおかしきどき): 東北北部(亀ヶ岡文化圏)で発達。薄手精巧、極めて複雑文様(雲形文、工字文等)、漆塗りやベンガラ彩色が特徴。祭祀的意味合い強いと考えられる。遮光器(しゃこうき)土偶もこの文化圏代表遺物。
- 西日本: 大陸影響もあり土器簡素化傾向。弥生土器との共存も。
- 代表型式:亀ヶ岡式(東北)、大洞式(東北)、安行(あんぎょう)式(関東)、大歳(おおどし)山式(近畿)、夜臼(ゆうす)式(九州、弥生早期にも区分)。
- 生活・社会: 食料獲得困難化からか、儀礼・呪術への依存度高まった可能性指摘(精巧な亀ヶ岡式土器や遮光器土偶)。西日本は弥生文化受容進む一方、東日本は縄文的生活様式長く維持。
- 墓制: 土器棺墓(どきかんぼ)(大型土器を棺使用)が見られるように。
- 代表遺跡: 亀ヶ岡遺跡(青森)、田小屋野(たごやの)貝塚(青森)、風雨(ふうれ)洞窟(大分、晩期土器・石器)、菜畑(なばたけ)遺跡(佐賀、晩期末水田跡)。
3.8. 年代観の見直し:AMS年代測定法のインパクト
上記各時期年代は主にAMS法による最新研究成果に基づく。従来の¹⁴C年代測定法年代観(例:縄文開始約1万3000年前、弥生開始紀元前4~3世紀)とは数千年単位でずれ。早慶入試ではこの新年代観で問われること多く注意必要。特に縄文開始が旧石器終末期の約1万6500年前まで、弥生開始が縄文晩期の紀元前10世紀頃まで遡ることは重要ポイント。
4. 縄文土器:生活様式を変えたイノベーション
縄文時代を特徴づける最も重要な遺物であり、その時代の名称の由来ともなった**「縄文土器」**。それは単なる入れ物ではなく、当時の人々の生活に革命的な変化をもたらした、人類史における偉大なイノベーションの一つでした。本章では、この縄文土器そのものに焦点を当て、その発明が持つ世界史的な意義、日本列島における早期出現の特徴、製作技術、そして1万年以上の長い期間における形態や文様の変化、さらには土器の使用が人々の暮らしや文化に与えた profound な影響について詳しく解説してまいります。
粘土を成形し焼き固めるという土器製作技術は、食料の調理(特に煮沸)や貯蔵を可能にし、それまでの食生活や資源利用のあり方を根本から変えました。世界的には農耕の開始と関連して出現することが多い土器ですが、日本列島では**狩猟採集段階で、世界的に見ても極めて早い時期(約1万6500年前)**に土器が出現したという、際立った特徴を持っています。この事実は、縄文文化の独自性を考える上で非常に重要な点です。
早慶をはじめとする難関大学の入試においても、縄文土器に関する知識は、縄文時代理解の根幹として極めて重要です。問われるのは、土器の製作工程、時代ごとの器形や文様の変化(代表的な型式や文様名を含む)、地域性、そして土器使用がもたらした「煮沸革命」をはじめとする生活・社会への影響など、多岐にわたります。これらの知識を正確に把握し、土器という「モノ」を通して縄文人の営みや文化の変遷を考察する能力が求められます。
本章では、以下の点を中心に解説を進めます。
- 土器発明の意義と日本の特徴: 世界史における土器の位置づけと、日本列島での早期出現の背景。
- 縄文土器の製作技術: 粘土の選択・調整から成形(輪積み法など)、文様付け、そして野焼きによる焼成まで。
- 器形の変化と機能分化: 煮炊き用の深鉢から、貯蔵用の壺、盛り付け用の浅鉢、特殊な儀礼用土器など、用途に応じた多様化。
- 文様の変遷と地域性: 草創期の単純な文様から、中期に頂点を迎える装飾性、後・晩期の精緻化や地域ごとの特色まで。
- 土器使用がもたらした革新: 「煮沸革命」による食料利用の拡大、食料貯蔵、定住化の促進、社会文化全体への影響。
縄文土器の形態や文様の変化は、単なるデザインの流行ではなく、当時の人々の技術水準、生活様式、美意識、そして社会や精神世界の反映と捉えることができます。本章を通じて、縄文土器という具体的な遺物から、縄文文化の豊かさとダイナミズムを読み解き、その本質への理解を深めていただければ幸いです。
4.1. 土器発明の世界史的位置づけと日本の特徴
土器は粘土成形・焼成容器で、人類史上、食料調理・貯蔵・運搬に大きな進歩をもたらした重要発明。世界各地で農耕開始や定住化と関連して出現多いが、日本列島では農耕本格化する弥生より1万年以上早く、狩猟採集段階で土器が出現した点が大きな特徴。日本列島出土の約1万6500年前土器は、東アジア(中国南部、ロシア極東)同時代土器と並び世界最古級とされる。
なぜ日本でこれほど早く土器が出現したか理由は明確でないが、豊かな森林資源(特に堅果類)の存在と効率利用の必要性、比較的早期からの定住化傾向などが背景にあると考えられる。
4.2. 製作技術:粘土の選択から焼成まで
縄文土器は基本的に以下の工程で作られた。
- 粘土採集: 良質粘土を選び採集。
- 粘土調整: 粘土に水や混和材(こんわざい)(砂、雲母、繊維、砕土器片等。強度高め、ひび割れ防ぐ)加えよく練る。
- 成形: 主に輪積み(わづみ)法(粘土紐積み上げ)や手捏ね法。大型土器では内側から当て具し外から叩き板で叩き締める**叩き締め(たたきしめ)**技法も使用。
- 文様付け: 表面が乾かないうちに縄、貝殻、棒、ヘラ等で文様施す。
- 乾燥: 成形土器を日陰等で十分乾燥。
- 焼成: 地面窪みや平地で土器周りに薪積み燃やす**野焼き(のやき)**で焼成。焼成温度比較的低く600~800℃程度推定(弥生土器より低い)。そのため吸水性ありやや脆い特徴。
4.3. 器形の変化と機能分化:煮炊き・貯蔵・盛り付け
縄文土器は1万年以上の長い期間の中で、生活様式変化に応じ器形が多様化、用途に応じた機能分化が進んだ。
- 草創期・早期: **深鉢形(ふかばちがた)**中心。底は尖底・丸底多く、地面に刺したり炉灰に安定させたりして煮炊きに使用か。
- 前期以降: **平底(ひらぞこ)**一般化、安定性増す。
- 深鉢: 煮炊き用基本形として継続。
- 浅鉢: 盛り付け用か、物すり潰し等作業用か。
- 壺: 口すぼまり胴張る形態。主に食料(堅果類等)や水貯蔵用か。
- 注口土器: 液体注ぐ口付き。酒等貯蔵・注ぎ分けに使用可能性も。
- 高坏: 脚付き皿状・鉢状土器。後期・晩期に多く、食物盛り付けや供物供えに使用か。
- 香炉形土器: 中期以降の特殊形状土器。用途不明だが儀礼用か。
- その他: 皿、器台、釣手土器、有孔鍔付土器(太鼓革張り用か?)など多様な器種。 この器種分化は、食生活多様化や儀礼発達など縄文社会複雑化を反映している。
4.4. 文様の変遷と地域性:縄文・条痕文から磨消縄文まで
縄文土器最大の特徴は表面の多彩な文様。文様は時代・地域で著しく変化し、縄文時代の編年や文化圏特定に重要手がかり。
- 草創期: 無文、隆線文、豆粒文、爪形文など単純文様。
- 早期: 撚糸文、押圧縄文、回転縄文などの本来縄文出現。貝殻条痕文、**刺突文(しとつもん)**なども。
- 前期: 縄文に加え、沈線文、竹管文などが発達し、文様はより複雑化・組織化。東北北部~北海道南部の円筒土器は縦方向縄文が特徴。
- 中期: 文様装飾性頂点。新潟・長野の火焔型・王冠型土器は粘土紐貼り付け立体装飾の隆帯文が特徴。関東・中部勝坂式等も複雑ダイナミック文様。
- 後期: 全体的には文様簡略化傾向だが、東日本では磨消縄文や研磨といった精緻仕上げ技術発達。
- 晩期: 東北北部亀ヶ岡式土器は極めて複雑細密文様(雲形文、工字文等)、漆塗り・ベンガラ彩色も。西日本は簡素文様土器主流。 これらの文様変化は、装飾流行だけでなく、製作技術発展、社会的背景(儀礼発達等)、地域間交流などを反映していると考えられる。
4.5. 土器使用の意義:「煮沸革命」と食生活・定住への影響
土器の発明・使用は縄文人生活に以下のような大きな変化をもたらした。
- 食料の煮沸・調理: 土器により**煮沸(しゃふつ)**調理可能に。生食不可や硬い植物・肉魚を柔らかく調理可能に。特に堅果類(ドングリ、トチ等)の渋み(アク)抜き容易になり、利用可能食料資源大幅拡大(「煮沸革命」)。スープ・雑炊等調理法も可能に。
- 食料の貯蔵: 壺など土器は採集堅果類や加工食料、水などを安全貯蔵可能にし、食料安定確保と計画利用に貢献。
- 定住化の促進: 煮沸による食料利用拡大と貯蔵技術向上は食料基盤安定させ、定住生活への移行を強力後押し。土器は重く壊れやすいため頻繁移動に不向きで、定住生活と表裏一体。
- 社会・文化への影響: 食料獲得・加工・貯蔵効率化は余暇生み出し、道具製作専門化、祭祀儀礼発達、社会組織複雑化など、縄文文化全体の発展基盤となった。 このように、土器は単なる容器でなく、縄文時代の生活様式、社会構造、文化全体に大きな変革をもたらした極めて重要な発明だった。
5. 多様化する生業:狩猟・漁撈・採集の高度化
縄文時代の人々が、1万年以上にわたり日本列島で安定した生活を営むことができた背景には、変化した自然環境(完新世)に巧みに適応し、多様な食料資源を獲得するための高度な「生業」技術を発展させたことがあります。本章では、縄文文化の基盤を支えた、狩猟・漁撈・採集という三つの柱からなる生業活動の具体的な内容と、旧石器時代からの変化・発展に焦点を当ててまいります。生業の実態を知ることは、縄文人の日々の暮らし、技術力、そして社会のあり方を理解する上で不可欠です。
完新世の温暖な気候と豊かな自然は、縄文人に多様な恵みをもたらしましたが、同時に旧石器時代とは異なる環境への適応も求められました。大型動物に代わる俊敏な中小型動物をいかに効率よく狩るか、縄文海進によって拡大した豊かな海の幸をいかに利用するか、そして森林資源、特に栄養価の高い堅果類をいかに安定的に食料とするか。これらの課題に対し、縄文人は弓矢の発明、多様な漁撈具の開発、植物のアク抜きや貯蔵技術の確立といった創意工夫で応え、食料基盤を多様化・安定化させていきました。
早慶をはじめとする難関大学の入試においても、縄文時代の生業に関する具体的な知識は極めて重要です。弓矢と石鏃、貝塚とその意義、骨角製の漁撈具(釣針・銛)、丸木舟、堅果類のアク抜き・貯蔵(貯蔵穴)、加工用石器(石皿・磨石)など、各活動に関連する技術や遺物、遺跡について正確に理解している必要があります。さらに、これらの生業活動が、当時の自然環境や社会、他の文化要素(土器の使用、定住化など)とどのように関連し合っていたのかを多角的に考察する能力が求められます。
本章では、以下の点を中心に解説を進めます。
- 狩猟活動の高度化: 弓矢の発明・普及による狩猟効率の向上、主要対象の変化(中小型獣へ)、落とし穴猟、犬の利用。
- 漁撈活動の活発化: 縄文海進と貝塚の形成、骨角器(釣針・銛)や漁網(土錘・石錘)など多様な漁撈具の発達、丸木舟による活動範囲の拡大。
- 植物採集と加工・貯蔵: 主要な採集対象(特に堅果類)、アク抜き技術の確立と意義、貯蔵穴を用いた食料保存、加工用石器(石皿・磨石・敲石)の使用。
これらの狩猟・漁撈・採集という生業の各側面が、縄文時代を通じてどのように発展し、相互に補完しあいながら人々の生活を支えていたのかを具体的に見ていくことで、縄文文化の豊かさと安定性の源泉を探ります。本章を通じて、自然と向き合い、知恵と技術を駆使して生きた縄文人の逞しい姿を理解し、その文化基盤についての知識を深めていただければ幸いです。
5.1. 狩猟活動:弓矢の発明と対象の変化
- (1) 弓矢の登場とその威力: 縄文早期の弓矢(ゆみや)発明・普及は狩猟の大きな技術革新。弓は弾力ある木材、矢先端には石鏃(せきぞく)(黒曜石、頁岩等打製)取り付け。形態は時代地域で多様(早期柳葉形、中期有茎、後期・晩期三角形等)。弓矢は、遠距離狙撃、速い中小型動物(シカ、イノシシ等)捕獲に適し、比較的安全な狩猟を可能にし、狩猟効率・成功率を飛躍的に向上させた。
- (2) 狩猟対象と季節性: 主要狩猟対象は大型哺乳類減少に伴いニホンジカ・イノシシ中心に。肉だけでなく毛皮、骨角(骨角器材料)も利用。遺跡動物骨分析から、季節に応じた計画的狩猟活動の存在がうかがえる(例:シカ角での時期判別)。クマ、カモシカ、鳥類等も対象。
- (3) 落とし穴猟と集団狩猟: 旧石器から続く**落とし穴(おとしあな)**猟も広く行われた。多数落とし穴列状配置遺跡(例:中期 中筋遺跡、山梨)は、集団協力による追い込みや大規模罠設置・管理など組織的狩猟を示唆。
- (4) 犬の利用: 縄文早期には犬飼育開始(犬骨、埋葬例)。狩猟補助(狩猟犬)、伴侶、食料(可能性)として利用か。
5.2. 漁撈活動:豊かな海の恵みを利用
縄文海進で拡大した内湾・沿岸部は魚介類の宝庫となり、漁撈活動は食生活の重要柱となった。
- (1) 貝塚: 縄文漁撈活動を伝える**貝塚(かいづか)**は、食後の貝殻大量投棄場所。貝殻の炭酸カルシウムが土壌酸性中和し、動物骨、魚骨、骨角器、人骨、土器片等が良好保存され、縄文生活・文化復元に貴重な情報源。出土貝種(ハマグリ、カキ等)・魚種(マダイ、マグロ等)は食生活多様性示すと共に、古環境復元にも役立つ。
- (2) 漁撈具の発達: 多様な海洋資源獲得のため、様々な漁撈具考案・使用。
- 骨角器(こっかくき): 動物骨角加工道具。釣り針(つりばり)(シカ角製、組合せ式・単式)、銛(もり)(かえし付き、大型魚・海獣用、離頭式も)、ヤス(魚突き具)。
- 漁網(ぎょもう): 植物繊維製網使用か。網用**錘(おもり)である土錘(どすい)・石錘(せきすい)**多数出土し、網漁の広範実施を示唆。
- (3) 丸木舟と外洋航海の可能性: 遺跡から丸木舟(まるきぶね)(一本木くり抜き舟)や櫂が出土(例:鳥浜貝塚)。内湾・河川だけでなく、ある程度の外洋航海にも使用可能性。根拠:伊豆諸島(神津島等)産黒曜石の本州側発見(渡海必要)、外洋性魚類(マグロ等)・海獣骨の貝塚出土。縄文人の航海技術レベルは議論あるが、積極的な海洋進出・資源利用は確実。
5.3. 植物採集と加工:安定した食料基盤
狩猟・漁撈と並び、植物質食料採集・利用も生業の重要柱。特に堅果類は安定カロリー源。
- (1) 主要な採集対象:
- 堅果類: ドングリ類、クリ、クルミ、トチノキの実などが主要対象。秋に大量採集・貯蔵。
- 根茎類: ヤマノイモ、ユリ根等。
- その他: 果実類、山菜類なども季節に応じ採集。
- (2) アク抜き技術の確立と意義: ドングリ・トチの実など**渋み(アク)**が強く生食不可なものを、アク抜き技術発達で利用可能に。
- アク抜き方法(推定): 水さらし、煮沸(土器使用)、灰利用(灰混ぜ煮沸、灰汁浸し)。遺跡から関連土器や施設(水さらし場?)発見例も。
- 意義: アク抜き技術確立は、利用困難だった植物資源を安定食料化し、食料基盤安定化、人口増加、定住化促進に大きく貢献。
- (3) 貯蔵技術の発達: 秋に大量採集した堅果類等を保存するため貯蔵技術も発達。集落内に食料貯蔵用**貯蔵穴(ちょぞうけつ)**多数掘削。地面掘り下げ、内部粘土固めや木板覆い等で湿気・害虫から保護。フラスコ状、袋状など多様。三内丸山遺跡等では数百基が計画的配置。
- (4) 加工具: 植物食加工に以下石器使用。
- 石皿(いしざら): 平らな石窪み上面で磨石使い堅果類すり潰し・粉砕。
- 磨石(すりいし): 石皿とセット使用のすり潰し用石。
- 敲石(たたきいし): 硬い殻持つクリ・クルミ等叩き割り用石。 これら道具存在は、縄文人が植物食を日常的に加工・利用していたことを示す。
6. 縄文農耕論争:栽培の始まりをめぐって
前章では、縄文時代の多様で高度な狩猟・漁撈・採集活動について見てまいりました。伝統的に縄文時代は、これらの獲得活動を基盤とする社会と考えられてきましたが、一方で、近年「縄文人も植物の栽培、あるいは農耕を行っていたのではないか」という**学術的な論争(縄文農耕論争)**が活発に議論されています。本章では、この縄文時代の生業のあり方について、従来のイメージに一石を投じる「縄文農耕」の問題に焦点を当て、その定義、論点、根拠、そして現在の評価について解説してまいります。
ここで議論される「縄文農耕」は、弥生時代以降の水田稲作を中心とした本格的な農耕社会とは性格が異なります。あくまで狩猟・漁撈・採集を主たる生業としつつ、クリやウルシ、マメ類などの特定の有用植物を管理・栽培していた可能性を指します。この論争は、単に食料獲得の方法を探るだけでなく、縄文社会の複雑性、定住生活の安定度、そして次代の弥生農耕社会への移行過程を理解する上で、極めて重要な意味を持っています。
早慶をはじめとする難関大学の入試においても、この縄文農耕論争は注目されるテーマの一つです。論争の存在とその論点、栽培が指摘される具体的な植物名、三内丸山遺跡などの関連遺跡、そして弥生時代の農耕との質的な違いなどを正確に理解しておく必要があります。栽培の有無だけでなく、その規模や社会への影響についての評価が定まっていない点も含め、議論の現状を把握しておくことが重要となります。
本章では、以下の点を中心に解説を進めます。
- 「縄文農耕」の定義と論点: 弥生農耕との違い、栽培の有無・程度・影響・呼称の問題。
- 栽培可能性が指摘される植物: クリ、ウルシ、マメ類、雑穀、エゴマ、ヒョウタン、アサなど。
- 考古学的・科学的証拠: 植物遺存体(種実、花粉等)、土壌分析(プラント・オパール)、DNA分析、遺跡状況など。
- 具体的な遺跡事例: 三内丸山遺跡におけるクリ林管理の可能性など。
- 論争の現状と評価: 限定的な栽培の可能性は高いものの、その規模や影響は未確定という現在の見方。
縄文時代の生業を一面的に捉えるのではなく、植物との関わりの中に「栽培」という要素が含まれていた可能性を探ることは、縄文社会の多様性と奥深さを知る上で欠かせません。本章を通じて、縄文農耕論争という現在進行形の学術議論の内容を理解し、固定観念にとらわれずに歴史像を考察する視点を養っていただければ幸いです。
6.1. 「縄文農耕」とは何か:定義と論点
ここでいう「縄文農耕」は、弥生の水田稲作や畑作中心農耕社会とは異なり、狩猟・漁撈・採集基盤としつつ、特定有用植物を管理(除草、施肥等)したり栽培(播種、植苗等)したりする行為を指す。
論点は主に、①縄文時代に栽培は行われたか、どの程度か? ②栽培植物は何か? ③栽培は食料獲得や社会にどの程度影響したか? ④縄文の「栽培」を「農耕」と呼べるか?(農耕定義問題)にある。
6.2. 栽培が指摘される植物
栽培可能性が指摘される主な植物:
- クリ: 遺跡周辺クリ林の人為的管理維持可能性(花粉・遺伝子分析等)。三内丸山遺跡等。
- ウルシ: 漆器原料。DNA分析等から栽培種存在指摘。鳥浜貝塚等。
- マメ類: ダイズ、アズキ等。炭化種実や圧痕出土。栽培種か野生種か議論あり。
- ヒエ、アワ等雑穀: プラント・オパール分析等から存在指摘されるが、栽培か野生か不明点多い。
- エゴマ、シソ: 油、食用。種実出土。
- ヒョウタン、ウリ類: 容器、食用。種実出土。
- アサ: 繊維(縄、布)原料。
6.3. 考古学的証拠
縄文農耕の証拠:
- 植物遺存体: 炭化種実、花粉、圧痕などの直接証拠。
- 土壌分析: プラント・オパール分析(植物珪酸体分析)など。
- DNA分析: 出土植物遺存体DNA分析で野生/栽培種判別や系統解明。
- 遺跡状況: 特定植物(クリ等)集中林跡、畑と考えられる遺構(畝状遺構等、認定困難)など。
6.4. 遺跡事例:三内丸山遺跡のクリ林管理など
三内丸山遺跡では、遺跡周辺花粉分析や出土クリDNA分析から、人々がクリ林を管理・維持し安定的に収穫していた可能性が高いと指摘。これは単なる採集超えた積極的な植物との関わり(栽培的管理)示唆の重要事例。また鳥浜貝塚では約1万2600年前(草創期)栽培種ウルシ枝が出土。
6.5. 論争の現状と評価:その規模と社会への影響
現在、縄文時代にいくつかの植物(特にクリ、ウルシ、マメ類等)が管理・栽培されていた可能性は多くの研究者に認められている。しかし、それが縄文生業全体でどの程度の位置を占めたか、社会構造にどの程度影響したかは評価未定。
弥生のような主食穀物(イネ)栽培基盤社会とは大きく異なり、あくまで狩猟・漁撈・採集補完の限定的なもの、とする見方が一般的。そのため「農耕」使用に慎重意見多く、「栽培」「管理」等の用語使用が多い。
縄文農耕論争は、縄文社会の多様性・複雑性、弥生文化への移行過程理解で重要研究テーマ。早慶入試では、縄文農耕可能性指摘、具体植物名、関連遺跡名、弥生農耕との性格差の理解必要。
7. 定住生活の本格化と集落の発展
縄文時代の大きな特徴の一つとして、旧石器時代の移動生活から、特定の場所に長期間住み続ける**「定住生活」へと移行・本格化したことが挙げられます。本章では、この定住生活の実現を可能にした要因を探るとともに、縄文人の主たる住まいであった竪穴住居**、そして人々が集まり暮らした**「集落」**がどのように形成され、発展していったのかに焦点を当ててまいります。住居や集落のあり方は、当時の人々の日常生活、社会的な結びつき、さらには世界観を映し出す鏡であり、縄文文化を深く理解する上で欠かせない視点です。
豊かな自然環境、食料獲得技術の高度化(前章参照)、そして土器による食料の調理・貯蔵技術の発展などを背景に、縄文人は次第に移動の少ない生活様式を選択するようになりました。その結果、竪穴住居を主体とする集落が各地に形成され、時代が進むにつれて、広場を中心に住居や墓地、貯蔵施設などが計画的に配置される環状・馬蹄形集落へと発展していきます。さらに、縄文時代中期には、従来の縄文社会のイメージを覆すような、三内丸山遺跡に代表される大規模な拠点集落が出現し、その複雑で高度な社会の存在が明らかになりました。
早慶をはじめとする難関大学の入試においても、縄文時代の定住化と集落に関する知識は極めて重要です。定住化の要因、竪穴住居の構造や炉の変遷、環状・馬蹄形集落の特徴、そして三内丸山遺跡をはじめとする大規模拠点集落の具体的な遺構・遺物とその意義について、正確に理解しておく必要があります。さらに、これらの集落の構造や規模から、当時の社会組織や共同体のあり方、地域間の交流などを考察する能力も求められます。
本章では、以下の点を中心に解説を進めます。
- 定住生活の要因: 食料基盤の安定化、技術革新、社会的要因など、定住を可能にした背景。
- 竪穴住居: 縄文時代の代表的な住居の構造、内部設備(炉など)、時代による変化。
- 集落の構造と立地: 環状・馬蹄形といった計画的な配置、機能的な空間分化、立地選択。
- 大規模拠点集落の出現: 三内丸山遺跡の調査成果が明らかにした、従来の想定を超える縄文社会の高度性(建築技術、社会組織、交易網など)。
- その他の拠点集落: 御所野遺跡、是川遺跡、尖石遺跡など、各地で見られる大規模・拠点集落の例。
住居や集落という「ムラ」の空間構成を読み解くことは、そこに生きた縄文人の日々の営みや社会関係、さらには精神世界にまで迫る手がかりを与えてくれます。本章を通じて、縄文時代の定住生活と集落の具体的な姿を学び、特に三内丸山遺跡などが明らかにした縄文社会の豊かさと複雑性についての認識を深めていただければ幸いです。
7.1. 定住化の要因
- 食料基盤安定: 温暖化による森林・海洋資源豊富化、堅果類アク抜き技術、食料貯蔵技術発達。
- 技術革新: 土器による調理・貯蔵、弓矢による狩猟効率向上。
- 社会的要因: 集団協力(狩猟、資源管理、育児等)必要性、祭祀儀礼共有など。
7.2. 竪穴住居:縄文人の住まいとその変遷
縄文時代の代表的住居形態が竪穴住居(たてあなじゅうきょ)。
- 構造: 地面を円形、方形、隅丸方形等に数十cm~1m程度掘り下げ(竪穴部)、周囲に数本柱立て、梁・垂木組み、樹皮・茅・土等で屋根葺いた半地下式住居。
- 内部: 中央付近に暖房・調理用**炉(ろ)**設置。炉形態も地床炉→石囲炉→埋甕炉へと変化。床に貯蔵穴掘ることも。
- 規模・変遷: 大きさ様々だが一般に直径・一辺4~6m程度多く、数人~十数人家族単位生活か。時代下ると円形→方形・隅丸方形へ平面形変化傾向。大型竪穴住居(集会所等機能か)も存在。
7.3. 集落の構造と立地:環状・馬蹄形配置と水辺への指向
縄文集落は数軒~数十軒の竪穴住居で形成。
- 立地: 水得やすく、狩猟・漁撈・採集に適した台地・丘陵縁辺部、河岸段丘上等に多い。日当たり・水はけも考慮か。
- 集落構造: 特に前期~後期、中央に広場(祭祀・共同作業場か)設け、周囲を**環状(リング状)あるいは馬蹄形(U字状)**に竪穴住居が取り囲む計画的配置が見られるように。広場中心・周辺に墓地(土壙墓群)、貯蔵穴群、貝塚などが配置されること多く、集落全体が居住域、作業・祭祀域、墓域など機能的に分化していたことがうかがえる。
- 例: 環状集落例:御殿山遺跡(東京)、馬蹄形集落例:姥山貝塚(千葉)。 このような計画的集落構造は、縄文社会が一定の秩序と共同体意識を持っていたことを示唆。
7.4. 大規模拠点集落の出現:三内丸山遺跡の衝撃
縄文時代中期には、人口ピーク反映し、長期継続し数百人規模の人々が暮らしたと考えられる大規模拠点集落が出現。代表例が1992年からの本格発掘で注目集めた三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき、青森県青森市、特別史跡)。
- (1) 発見経緯と規模: 野球場建設事前調査で発見、計画中止し遺跡保存・調査活用へ。遺跡は縄文前期中頃~中期末葉(約5900~4200年前)に約1700年間継続した日本最大級縄文集落跡。
- (2) 主要遺構:
- 竪穴住居跡: 500棟以上。長期的定住示す。
- 大型竪穴住居跡: 長さ30m超巨大なものも。集会所、共同作業場、冬期共同住居等可能性。
- 大型掘立柱建物跡: 直径約1m巨大クリ柱用いた六本柱建物跡。高さ15m近く推定。用途は物見櫓、祭殿、シンボルタワー等諸説。
- 掘立柱建物跡: 倉庫、住居等様々用途。
- 貯蔵穴: 数百基以上。食料大量貯蔵示す。
- 墓地(土壙墓): 子供用墓(埋設土器棺含む)と大人用墓が計画的配置。
- 盛土(もりつち): 長期間土器・石器・焼土等捨てられ積み重なった巨大マウンド。廃棄場兼祭祀場可能性。
- 道路跡: 集落内主要動線。
- (3) 出土遺物に見る多様な活動と交流:
- 膨大な縄文土器(円筒土器等)、石器。
- 土偶、岩版(顔等描かれた板状石製品)、石棒など精神文化示す遺物。
- 骨角器(釣針、銛、装身具等)。
- 木製品(漆塗り弓、容器、**「縄文ポシェット」**と呼ばれる編みかご等)。
- 漆器(赤漆・黒漆土器、装飾品等)。
- 交易品: 新潟県糸魚川産ヒスイ、北海道産黒曜石、秋田・新潟産等アスファルトなど遠隔地との広範交易示す遺物。
- 動植物遺存体: クリ、クルミ等堅果類、魚骨、動物骨、栽培可能性ヒョウタン・マメ類等。
- (4) 三内丸山遺跡が示す縄文社会像: 発見・調査成果は従来の縄文イメージ(小規模原始的狩猟採集民)を覆し、①高度技術(土木、建築、漆工芸等)、②大規模集落長期維持可能な安定食料基盤と社会組織、③豊かな精神文化と祭祀儀礼、④列島規模広域交易・交流網、などを持ち、縄文社会が予想以上に複雑でダイナミックな社会であったことを明らかにした。
7.5. その他の大規模・拠点集落
三内丸山以外にも、中期~後期に各地域拠点役割果たしたと考えられる大規模集落存在。
- 御所野(ごしょの)遺跡(岩手、世界遺産構成資産): 中期大規模集落。中央広場囲む住居配置、配石遺構(ストーンサークル)、盛土など特徴。
- 是川(これかわ)遺跡(青森、世界遺産構成資産): 晩期中心。低湿地遺跡で漆器、木製品、植物質遺物等極めて良好保存。「合掌土偶」も有名。
- 尖石(とがりいし)遺跡(長野、特別史跡): 中期大規模集落群。「縄文のビーナス」「仮面の女神」出土の棚畑遺跡、中ッ原遺跡含む。 これらの拠点集落存在は、縄文時代にも地域社会中心となる場が存在し、人々が集住し多様な活動を展開していたことを示す。
8. 縄文人の精神世界①:祈りとかたち – 土偶・石棒
安定した生業活動と定住生活を手に入れた縄文人は、自然の恵みや脅威、生命の誕生と死といった事象に対し、どのような思いを抱き、どのような祈りを捧げていたのでしょうか。文字記録を持たない彼らの精神世界を探ることは容易ではありませんが、残された様々な遺物は、その豊かで複雑な内面世界を垣間見る手がかりを与えてくれます。本章では、縄文人の精神文化の中でも、特に彼らが作り出した特徴的な造形物である**「土偶」と「石棒」**に焦点を当て、その「かたち」に込められた意味や祈りを探ってまいります。
縄文時代を通じて製作され、特に中期以降に東日本で数多く見つかる土偶は、その多くが女性をかたどっており、多様な形態を持っています。豊満な乳房や臀部、妊娠したお腹を表現したものが多いことから、生命の誕生や豊穣への祈りが込められていたと考えられていますが、意図的に破壊された状態で見つかることが多いなど、その用途や意味については多くの謎が残されています。一方、主に男性器をかたどったとされる石棒や、石刀・石剣といった石製品は、土偶とは対照的な男性原理を象徴し、豊穣儀礼などで重要な役割を果たしたと考えられています。
早慶をはじめとする難関大学の入試においても、縄文時代の精神文化は重要なテーマです。土偶の形態的な変遷(代表例:「縄文のビーナス」、遮光器土偶など)とその解釈(豊穣祈願説、形代説など)、石棒の特徴や機能に関する知識は必須となります。さらに、これらの遺物が縄文人のどのような世界観や社会、儀礼と結びついていたのかを、考古学的な証拠に基づいて多角的に考察する能力が求められます。
本章では、以下の点を中心に解説を進めます。
- 土偶:
- 時代ごと・地域ごとの多様な形態とその変遷(「縄文のビーナス」、ハート形土偶、遮光器土偶など)。
- 女性像としての解釈と豊穣祈願・地母神信仰との関連。
- 意図的な破壊の謎と「形代説」などの多様な解釈。
- 単一ではない、複合的な機能・意味の可能性。
- 石棒・石刀・石剣:
- 男根を模した形態や石冠などの特徴、材質。
- 男性原理の象徴としての役割と豊穣儀礼との関わり。
- 威信財や祭祀の中心としての機能の可能性。
これらの土偶や石棒といった具体的な「かたち」は、単なる装飾品や道具ではなく、縄文人が抱いていた生命への畏敬、自然への働きかけ、社会的な秩序や願いを表現したメディアであったと考えられます。本章を通じて、これらの遺物が語りかける声に耳を澄まし、縄文人の精神世界の奥深さと豊かさを感じ取り、その文化への理解を一層深めていただければ幸いです。
8.1. 土偶:多様な形態と謎多き意味
土偶は粘土製の人(主に女性)や動物像。縄文時代通じ製作されたが、特に中期以降東日本で多く作られた。
- (1) 形態の変遷と地域差: 形態は時代・地域で大きく変化。
- 草創期・早期: 小型シンプル板状・筒形多い。
- 前期: 東日本で板状発達。山形土偶(山形)等。
- 中期: 立体的・写実的表現現れる。「縄文のビーナス」(長野、国宝):妊婦思わせる豊満体つき、中期代表傑作。
- 後期: 地域色豊かに個性的形態登場。ハート形土偶(群馬)、みみずく土偶(埼玉)、山形土偶(茨城)、「仮面の女神」(長野、国宝)。
- 晩期: 東北北部(亀ヶ岡文化)で特に発達。遮光器土偶(青森):雪眼鏡様巨大目特徴、最も有名。結髪土偶、座像土偶も。 多様形態は地域信仰・美意識、用途の違い等反映か。
- (2) 製作と用途:女性像・豊穣祈願説を中心に: 出土多くが乳房・臀部・妊娠腹部等強調された女性像であることから、古くから地母神信仰と結びつけられ、豊穣(多産・豊作)や安産、子孫繁栄など生命再生・維持に関わる祈りの対象であったとする説が有力。生命生み出す女性力が神格化・崇拝されたか。
- (3) 意図的な破壊:形代説とその解釈: 多くが完全形でなく意図的に破壊された(頭部、腕、脚等欠損)状態で発見。理由諸説:
- 形代(かたしろ)説: 病気・怪我の身代わりとして対応部分壊し、病厄託し祓う儀礼使用説。
- 儀礼的破壊説: 特定祭祀儀礼過程で破壊自体に意味があった説。
- 生産・再生儀礼説: 収穫・狩猟成功祈願や死と再生儀礼で破壊説。 完全形(「縄文のビーナス」等)も存在することから、全土偶が破壊前提でなく、用途で扱われ方異なった可能性も。
- (4) 多様な機能論: 豊穣祈願説・形代説以外にも、精霊・カミ表象、**シャーマン(巫女)**像、子供成長守り神、玩具、集団シンボルなど様々な説提唱。単一機能でなく時代・地域・形態で多様な意味・役割持ったと考えられる。土偶は縄文人の複雑な精神世界垣間見せる謎多き遺物。
8.2. 石棒・石刀・石剣:男性原理と祭祀具
土偶が主に女性原理象徴と考えられるのに対し、**石棒(せきぼう)**は男性原理象徴の祭祀具と考えられる。
- (1) 形態と材質:
- 石棒: 磨かれた棒状石製品。長さ数cm~1m超巨大なものまで様々。多くは**男性器(男根)**をリアルあるいは抽象的に模した形。先端キノコ状膨らみ、表面文様刻印、**石冠(せっかん)と呼ばれる装飾的頭部持つものも。材質は加工しやすく美しい緑泥片岩(りょくでいへんがん)**等多い。中期以降、特に東日本で多く出土。
- 石刀(せきとう): 刀形模した石製品。
- 石剣(せっけん): 剣形模した石製品。弥生の石剣とは異なり儀礼的性格強いか。
- (2) 機能と意味:
- 豊穣儀礼: 男性器象徴から、土偶(女性原理)と対になる男性原理象徴として、**豊穣(豊作、獲物増加)**祈る儀礼使用説が有力。集落広場等で土偶と共に立てられたり、特定儀式で使用か。
- その他機能: 威信財(大型精巧品は指導者権威示す)、墓標・祭祀中心(墓に立てたり祭祀場シンボル使用例)、実用具説(火鑽り棒、棍棒。儀礼的意味合い強い)。 石棒も土偶同様、破壊状態で出土することあり、儀礼的破壊行為示唆。石棒・石刀・石剣は、縄文人の生命観や豊穣祈願、社会秩序等反映した重要祭祀具であったと考えられる。
9. 縄文人の精神世界②:儀礼空間と死生観 – 環状列石・墓制
前章では、土偶や石棒といった「かたち」ある遺物を通して、縄文人の祈りや世界観の一端を探りました。本章ではさらに、彼らが集団として共有していたであろう精神世界、特に死者との向き合い方(死生観)や、それを表現する儀礼空間、社会的な慣習に焦点を当ててまいります。環状列石のような大規模な遺構や、墓のあり方、そして抜歯という身体に残された痕跡は、文字記録のない縄文社会の秩序や思想、宇宙観を読み解く上で、極めて重要な手がかりとなります。
縄文時代後期から晩期にかけて、主に北日本で造営された環状列石(ストーンサークル)は、その壮大な規模と規則的な石の配置から、単なる墓地を超えた、集団的な祭祀儀礼や共同体の結束を確認するための中心的な場所であったと考えられています。また、その配置には天文知識が利用された可能性も指摘されており、縄文人の高度な知性と自然観をうかがわせます。一方、縄文時代の墓制は、屈葬という特徴的な埋葬姿勢や、副葬品が比較的少ないといった点から、彼らの死や来世に対する考え方、そして社会のあり様(比較的平等な社会であった可能性)を示唆します。さらに、広く行われた抜歯の風習は、当時の人々が共有していたであろう通過儀礼や集団のルールといった社会規範の存在を物語っています。
早慶をはじめとする難関大学の入試においても、縄文時代の社会や精神文化を理解する上で、これらのテーマは重要です。環状列石の分布・年代・構造・機能、代表的な遺跡(大湯環状列石など)、縄文時代の多様な墓制(屈葬、土器棺墓など)と副葬品の特徴、そして抜歯の風習とその意味についての正確な知識が求められます。さらに、これらの具体的な事例を通して、縄文人の死生観、社会構造、儀礼のあり方などを多角的に考察する能力が必要とされます。
本章では、以下の点を中心に解説を進めます。
- 環状列石(ストーンサークル): その分布・年代、構造的特徴、共同墓地・祭祀空間としての機能、天文知識との関連、代表例(大湯、伊勢堂岱、小牧野)。
- 縄文時代の墓制: 土壙墓、屈葬、伸展葬、土器棺墓、再葬墓など多様な埋葬方法と、副葬品から推測される社会。
- 抜歯の風習: その広がりと時代、抜歯の意味に関する諸説(通過儀礼、集団表示など)。
- その他の祭祀関連遺物・遺構: 土版・岩版、独鈷石、キノコ形石製品、ウッドサークルなど。
これらの集団的な儀礼空間や、死者や身体に対する慣習を学ぶことを通して、私たちは縄文人の精神世界のさらなる深層に触れることができます。目に見える遺構や痕跡から、目に見えない思想や社会のルールを読み解こうとする考古学のアプローチを理解し、縄文文化の奥深さ、多様性に対する認識を一層深めていただければ幸いです。
9.1. 環状列石(ストーンサークル):集団墓地と祭祀の場
- (1) 分布と年代: 縄文後期(約4700年前~)~晩期(~約2400/2300年前)、北海道・東北北部(秋田、岩手、青森)中心に見られる石造巨大遺構。ストーンサークルとも。
- (2) 構造:
- 配石: 川原石・山石等自然石、加工石を**直径数m~数十m(最大50m超)円形(環状)**に、同心円状複数列、あるいは日時計文字盤状放射状に配置。
- 中央柱・立石: 円環中心や特定場所に大石(立石)や木柱(中央柱)設置されることあり。
- 墓域: 環状列石内外から多数**土壙墓(どこうぼ)**や時に埋設土器棺墓発見され、集団墓地機能持ったことがわかる。
- 祭祀遺物: 土偶、石棒、石刀、装飾玉、精巧土器等共伴出土多く、墓前祭祀や集団儀礼行われた場であったこと示唆。
- 盛土: 周囲に土盛った盛土遺構伴う場合も。
- (3) 機能:共同墓地、集団祭祀、集会所: 単なる墓地でなく複数機能持ったと考えられる。
- 共同墓地: 集落メンバー共同利用墓地。祖先崇拝や集団結束確認の場。
- 祭祀・儀礼の場: 豊穣祈願、祖霊祭祀、通過儀礼など集団安寧・繁栄祈る様々な祭祀儀式行われた場。
- 集会の場: 集団重要決定や情報共有の場機能可能性も。
- (4) 天文知識との関連: 近年、環状列石の石配置が夏至・冬至日の出・日の入り方向や特定星運行と関連か、という天文考古学的研究進む。事実なら縄文人が高度天文知識持ち、カレンダーとして利用し、農耕(縄文農耕)や狩猟漁撈サイクル、祭祀儀礼時期決定に役立てた可能性。
- (5) 代表例:
- 大湯(おおゆ)環状列石(秋田、特別史跡、世界遺産構成資産): 野中堂・万座二環状列石からなる国内最大級。日時計状配石特徴的。
- 伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡(秋田、世界遺産構成資産): 4環状列石近接。板状土偶多数出土。
- 小牧野(こまきの)遺跡(青森、世界遺産構成資産): 直径約55m巨大環状列石。三重石組みと放射状配置石特徴。 環状列石は、縄文後・晩期北日本の高度社会組織、豊か精神文化、自然(宇宙)との深関わり示す壮大モニュメント。
9.2. 墓制:死者との向き合い方
縄文時代の墓制から当時の死生観・社会構造がうかがえる。
- (1) 埋葬方法:
- 土壙墓(どこうぼ): 最も一般的。地面穴掘り遺体埋葬。
- 屈葬(くっそう): 遺体膝肘折り曲げ胎児様姿勢で埋葬。縄文通じ広く見られる。理由:死霊蘇り防止、胎内回帰願望、墓穴小型化など諸説。
- 伸展葬(しんてんそう): 遺体伸ばし埋葬。晩期増加傾向。
- 土器棺墓(どきかんぼ): 大型・複数土器組み合わせ棺として遺体(特に乳幼児)納める。晩期西日本。
- 再葬墓(さいそうぼ): 一度埋葬遺体掘り出し骨洗浄後、再び土器等納め埋葬。後期・晩期関東地方等。複雑葬送儀礼存在示唆。
- (2) 副葬品: 弥生・古墳時代に比べ副葬品少ないか皆無多い。見られる場合も貝製腕輪、ヒスイ・石製玉類(首飾り等)、石鏃、土偶(稀)など個人的装身具や呪術的遺物中心。社会格差示す豪華副葬品ほぼなく、縄文社会比較的平等であったこと示唆か。
- (3) 抜歯:社会的な意味を持つ風習: 縄文(特に中期~晩期)には特定歯(犬歯、切歯等)意図的抜き取る**抜歯(ばっし)**風習広く行われた。
- 抜歯目的・意味(諸説): 成人儀礼(通過儀礼)、婚姻印、集団・身分表示(特定抜き方が集団・役職対応可能性)、喪表現、審美・装飾。
- 方法: 石器等で歯に衝撃・削り等で抜き取ったか。痛みを伴い、強い意志や社会的強制力示唆。
- 地域差・時代差: 抜く歯種類・組合せ、実施年齢・性別には地域・時代で違い。 抜歯は単なる身体加工でなく、縄文社会の年齢、性別、集団帰属、社会的役割等に関わる重要社会規範や儀礼の一環であったと考えられる。
9.3. その他の祭祀遺物・遺構
- 土版・岩版: 粘土・石製板状製品、人面・文様刻印。護符・お守り様呪術的道具か。
- 独鈷石: 両端尖った石製品。用途不明だが祭祀具か。
- キノコ形岩製品: キノコ模した石製品。祭祀用か。
- ウッドサークル: 木柱環状に立てた遺構。環状列石同様祭祀空間可能性(例:チカモリ遺跡、石川)。 これらの遺物・遺構は、縄文人の精神世界が豊かで多様であり、自然・生命・死後世界への独自観念・信仰体系持っていたことを物語る。
10. 交易と交流:列島規模のネットワーク
これまで縄文時代の様々な側面を見てまいりましたが、当時の人々や文化は、決して地域ごとに孤立していたわけではありませんでした。日本列島各地の遺跡からは、その地域では産出しないはずの貴重な資源や製品が数多く発見されており、縄文時代にはすでに列島規模での広域な**「交易」と「交流」のネットワーク**が存在したことを物語っています。本章では、この縄文社会のダイナミズムを示す交易と交流の実態に焦点を当て、どのようなモノが、どのように運ばれ、そしてそれが当時の社会や文化にどのような意味を持っていたのかを探ってまいります。
例えば、新潟県糸魚川流域でしか産出しないヒスイ製の玉が北海道から沖縄まで発見されること、あるいは特定の産地の黒曜石やアスファルトが数百キロメートルも離れた場所で利用されていることなどは、縄文人が驚くほど広範囲に行動し、相互に結びついていたことの動かぬ証拠です。これらの「モノ」の動きを、遺跡の出土状況や科学的な産地分析を通して追跡することで、私たちは縄文社会の複雑性や地域間の関係性、さらには当時の人々の移動能力や価値観までをも垣間見ることができます。
早慶をはじめとする難関大学の入試においても、この縄文時代の交易と交流は重要なテーマです。主要な交易品(特にヒスイ、黒曜石、アスファルト)の産地と流通範囲、交易を支えたと考えられる丸木舟などの輸送手段や航海技術、そして交易が単なる物資交換にとどまらず、情報・技術の伝播、人的交流、社会関係の維持、威信財としての役割など、多岐にわたる社会的・文化的な意義を持っていたことを正確に理解しておく必要があります。モノの動きから縄文社会の構造や動態を読み解く力が問われます。
本章では、以下の点を中心に解説を進めます。
- 主要な交易品とその流通: ヒスイ、黒曜石、アスファルト、サヌカイト、塩、貝製品などを例に、その産地と列島規模での広がり。
- 交易ルートと輸送手段: 陸路と水路(河川・海上交通)、そして長距離輸送を可能にした丸木舟の役割と縄文人の航海技術。
- 交易の多面的な意義: 物資交換だけでなく、情報・技術の伝播、人的交流の促進、社会関係の維持・強化、威信財としての機能など。
遺跡から出土する一つ一つの「モノ」の背後には、それを作り、運び、交換した人々の営みと、彼らをつないだ広大なネットワークが存在します。本章を通じて、縄文時代が決して停滞的・閉鎖的な社会ではなく、列島規模で活発な交流が行われていたダイナミックな世界であったことを理解し、縄文社会の広がりと繋がりについての認識を深めていただければ幸いです。
10.1. 主要な交易品とその産地・流通範囲
特定地域限定産出の貴重資源・製品が遠隔地まで運ばれていたことが、遺跡出土状況や理化学的産地分析で判明。
- ヒスイ(硬玉、翡翠): 美しい緑色硬石。主に玉類(大珠、勾玉等)に加工、装身具・祭祀具として珍重。原産地は新潟県**糸魚川(いといがわ)流域ほぼ限定だが、ヒスイ製品は北海道~沖縄まで列島全域で発見。縄文広域交易象徴。特に三内丸山等東北拠点集落で多く出土、特定集団が交易管理し威信財(いしんざい、社会的地位示す貴重品)**として流通か。
- 黒曜石(こくようせき): 鋭利刃物作れる石材、石器製作に不可欠。産地は北海道白滝、長野霧ヶ峰・和田峠、伊豆諸島神津島、九州腰岳等に偏在。各産地黒曜石は固有化学組成持ち産地同定可能。分析で和田峠産が関東~近畿へ、神津島産が南関東へ運ばれた等判明、産地ごと流通圏存在わかる。
- アスファルト(天然アスファルト): 石油地表滲出固化物。接着剤(矢じり固定、土器補修等)、防水材利用。主産地は秋田・新潟に限られるが、アスファルト塊や付着土器・石器全国各地発見、重要交易品。
- サヌカイト: 近畿・瀬戸内産出石材。打製石器材料として周辺地域流通。
- 塩: 海なし内陸集団には貴重品。沿岸部製塩(製塩土器出土)が内陸へ運ばれたか。
- 貝製品: 南西諸島等産美麗貝(イモガイ、ゴホウラ等)製腕輪等装飾品が遠隔地(九州、本州)へ。
- 土器: 特定地域製土器が他地域へ運ばれることも。中身物資(食料等)交易示唆する場合も。
10.2. 交易ルート:陸路と水路(丸木舟の役割)
物資は人々直接運搬や集団間受渡で、陸路や**水路(河川、湖沼、海上)**通じ運ばれた。特に重量物・かさばる物資長距離輸送には、丸木舟用いた水上交通が重要役割果たしたか。神津島産黒曜石や南西諸島貝製品流通は、縄文人がかなりの航海技術持っていたこと示唆。
10.3. 交易の担い手と社会的な意味
交易は単なる物資交換にとどまらず、
- 情報交換: 遠隔地状況や新技術情報伝達。
- 技術伝播: 土器・石器製作技術等広まり。
- 人的交流: 婚姻等通じ集団間関係構築や遺伝的交流促進。
- 社会関係維持・強化: 贈答・交換通じ集団間友好・同盟関係維持・強化。
- 威信獲得: 遠隔地希少物資(ヒスイ等)所有・分配が指導者権威高める(威信財交易)。 と考えられ、交易ネットワークは縄文社会安定と発展、地域文化多様性生み出す上で重要役割果たした。
11. 縄文人の身体的特徴とDNA
これまでの章で、縄文時代の文化、社会、生業、精神世界など、様々な側面を探求してまいりました。本章では、それらの文化を創造し、担ってきた**「縄文人」そのものに焦点を当て、彼らがどのような身体的な特徴を持ち、どのような遺伝的な系統に連なる人々であったのかを明らかにしていきます。人骨に残された形態学的な情報と、近年の目覚ましい技術進歩によって可能となった古人骨からのDNA分析**という二つのアプローチから、縄文人の実像とそのルーツに迫ります。
縄文人の骨格や歯を調べることは、彼らの体格、顔つき、健康状態、さらには生活習慣(例えば食生活による歯の摩耗など)を知る上で貴重な手がかりとなります。一方で、DNA分析は、縄文人がどこから来て、アジアの他の集団や後の弥生人、そして現代の私たちとどのような関係にあるのか、その遺伝的な系譜を解き明かす強力な手段です。これらの研究は、「日本人とは何か」という根源的な問いにも深く関わっています。
早慶をはじめとする難関大学の入試においても、縄文人の身体的・遺伝的特徴に関する知識は、単なる生物学的な情報としてではなく、彼らの生活様式や社会、そして日本人の形成史を理解する上で重要視されるようになっています。特に、DNA分析によって明らかになった縄文人の独自性、系統(北方起源説や南方系の影響)、そして現代日本人やアイヌ・琉球人との遺伝的な繋がりについては、最新の研究動向として正確に理解しておく必要があります。
本章では、以下の点を中心に解説を進めます。
- 人骨からわかる形態的特徴: 縄文人の平均身長、特徴的な顔貌、歯の状態、骨格など。
- 病気や怪我の痕跡: 人骨に残された情報からうかがえる縄文人の健康状態や生活の厳しさ。
- DNA分析が解き明かす縄文人の系統: 東アジアにおける遺伝的な位置づけ(独自系統)、起源に関する説(北方・南方)、縄文人内部の多様性。
- 現代日本人等との遺伝的関係: 縄文人が現代日本人(本州・アイヌ・琉球)の遺伝的基層の一つを形成していること、弥生時代の渡来人との混血。
縄文人を画一的なイメージで捉えるのではなく、形態的にも遺伝的にも多様性を持ち、複雑な歴史を経て現代に繋がる存在として理解することが重要です。本章を通じて、科学的な分析によって明らかになりつつある縄文人のリアルな姿とそのルーツについての知識を深め、日本列島の人類史に対する認識を新たにしていただければ幸いです。
11.1. 人骨からわかる形態的特徴
多数縄文人骨分析から以下の形態的特徴判明。
- 身長: 平均男性158cm前後、女性148cm前後と現代日本人よりやや小柄。
- 顔貌: 彫り深く、眉間突出し、鼻付根窪み、四角い顔輪郭傾向。寒冷気候適応旧石器人特徴継承とも。
- 歯: 現代人より大きく丈夫。石皿・磨石製粉時の砂粒影響で歯摩耗著しい例多い。
- 骨格: 筋肉発達し頑丈体つきと考えらえる。 これらは平均特徴で地域差・個体差も存在。
11.2. 病気や怪我の痕跡
人骨には当時の病気・怪我痕跡残ることあり。虫歯、歯周病、関節炎、骨折治癒痕等見つかり、健康状態や生活厳しさうかがわせる。一方、骨折治癒例等は仲間による看護・介護存在可能性示唆。
11.3. DNA分析から見た縄文人の系統と多様性
近年の古人骨DNA分析成果は縄文人起源・系統に新知見もたらす。
- 独自の系統: 縄文人は現代東アジア大陸部主要集団とは遺伝的に大きく異なり、かなり古い時代分岐し、日本列島周辺で独自進化遂げた系統と考えられる。
- 北方起源説の補強: 縄文人遺伝子にシベリア等北東アジア古代人との共通性見られ、起源一部が北方にあること示唆。
- 南方系の影響: 一方で縄文人形成には南方系集団影響も存在可能性指摘され、単純単一起源でない複雑成立過程推測。
- 地域差: 核DNA分析から縄文人内部にも地域的遺伝的差異存在わかってきている。
11.4. 現代日本人、アイヌ、琉球人との遺伝的関係
- 現代日本人への寄与: 現代本州日本人は、縄文人と弥生時代以降大陸から渡来した人々遺伝子受け継ぐ混血で形成されたことがDNA分析で判明。縄文人由来遺伝子割合は平均10~20%程度推定。
- アイヌ・琉球人との近縁性: 北海道アイヌ、沖縄(琉球)の人々は本州日本人に比べ縄文人遺伝的要素より色濃く受け継ぐこと判明。地理的隔離等で弥生以降渡来人との混血度合い本州より低かったためか。 DNA分析は、縄文人が決して均一集団でなく、地域的多様性持ち、また現代日本列島住民の遺伝的基層の一つを形成していることを明らかにしている。
12. まとめ:日本文化の基層としての縄文時代
1万数千年という長大な期間にわたって日本列島で展開された縄文文化は、その後の日本文化の基層を形作る上で、極めて重要な意味を持っています。その特質として、まず第一に、氷期から完新世への急激な環境変化に巧みに対応し、多様な動植物資源を利用する柔軟な生業戦略を発展させた高い環境適応力が挙げられます。第二に、世界最古級の土器を発明して煮沸調理や貯蔵を可能にし、弓矢による狩猟効率を高め、多様な骨角器や磨製石器を駆使するなど、生活技術を高度化させた技術革新力も注目されます。第三に、豊かな資源と技術を背景に、狩猟採集社会でありながら長期的な定住生活を実現し、計画的な集落を営んだ点も大きな特徴です。第四に、土偶や石棒、環状列石などに象徴される、複雑で多様な精神文化、独自の死生観や宇宙観を育んだ点も見逃せません。第五に、ヒスイや黒曜石などの交易を通じて、列島規模の広域な交流ネットワークを維持し、物資だけでなく情報や文化も交換していたことが明らかになっています。そして最後に、これらを通じて1万年以上にわたり自然と共生しながら比較的安定した社会を維持した持続可能性は、現代社会にとっても示唆に富む点と言えるでしょう。
このように独自の発展を遂げた縄文文化は、単に過去の遺産にとどまるものではありません。縄文時代に培われた技術、社会組織、精神文化、そしてそこに生きた人々そのものが、続く弥生時代以降の日本文化形成に大きな影響を与えました。弥生時代に大陸から水稲耕作や金属器といった新しい技術や文化がもたらされた際も、縄文時代以来の社会や文化の基盤があったからこそ、それらを受容し、日本列島独自の展開を遂げることができたと考えられます。また、縄文時代に形成された自然観や美意識、地域ごとの文化的多様性は、形を変えながらも現代の日本文化の中に脈々と受け継がれている側面があります。例えば、精緻な漆工芸の技術、食文化におけるアク抜きなどの知恵、あるいは自然への畏敬の念といった精神性など、縄文文化に由来する要素は、現代の私たちの生活や意識の中にも繋がっているのです。
飛躍的な進展を見せる縄文時代研究ですが、文字史料が存在しないため、社会組織の具体的なあり方や精神世界の詳細など、未解明な点も多く残されています。今後の研究においては、AMS年代測定法や古人骨DNA分析といった科学的分析手法のさらなる活用、遺跡の詳細な調査と出土遺物の多角的な分析、気候変動や自然災害といった古環境変動と人間社会の関係性の解明、縄文文化の地域的多様性と列島内外との交流の実態解明、そして縄文時代から弥生時代への移行プロセスのより詳細な検証などが重要な課題となります。縄文時代研究は、日本列島の人類史の原点を探り、人類の文化や社会の普遍性と多様性を理解する上で、今後ますますその重要性を増していくことでしょう。
13. 確認テスト
第1問:一問一答
以下の問いに答えなさい。
- 「縄文時代」という名称の由来となった遺物の種類は何か。
- 1877年に大森貝塚を発見・発掘し、出土した土器を「Cord Marked Pottery」と報告したアメリカの動物学者は誰か。
- 縄文時代の開始年代を約1万6500年前に遡らせる根拠となった、青森県で発見された遺跡名は何か。
- 温暖化に伴う完新世の海水準上昇を、日本列島では特に何と呼ぶか。
- 縄文前期末から中期初頭(約6000年前)に縄文海進がピークを迎えた際、海岸線付近に多く形成された、当時の食生活などを知る上で貴重な遺跡を何というか。
- 俊敏な中小型動物を狩猟するため、縄文時代に発明・普及した遠距離用の武器は何か。
- 縄文土器の形態や文様の変化に基づき、縄文時代の時間的な移り変わり(編年)を明らかにする研究方法を何というか。
- 縄文時代中期に信濃川流域などで作られた、燃え上がる炎のような立体的で複雑な装飾を持つ土器の型式名を2つ挙げなさい。
- 縄文時代後期に東日本で広く見られた、縄文を施した後に文様の一部を磨り消して浮き立たせる土器の技法を何というか。
- 縄文時代晩期に東北北部で発達した、薄手精巧で複雑な文様を持ち、漆塗りや彩色が施されることもある土器の様式(文化)を何というか。
- 土器による煮沸調理が可能になったことで、特に利用が拡大したドングリなどの堅果類に含まれる渋み成分を何というか。
- 秋に大量に採集した堅果類などを保存するために、集落内に掘られた穴を何というか。
- 縄文後期から晩期に北海道・東北北部で造営された、石を円形に配置した大規模な祭祀・墓地遺跡を何というか。
- 縄文時代に広く見られた、遺体の膝や肘を折り曲げて埋葬する方法を何というか。
- 新潟県糸魚川流域をほぼ唯一の原産地とし、縄文時代に玉類などに加工され列島広範囲に流通した貴重な石は何か。
第2問:正誤問題
以下の文について正しければ〇誤っていれば×を記しなさい。
- 縄文時代は、土器の使用に加え、農耕社会への移行、鉄器の使用を特徴とする文化段階である。
- 縄文時代の終焉は、水稲耕作と金属器使用が本格的に始まる弥生時代の開始とされ、日本列島全域でほぼ同時期(紀元前10世紀頃)に起こった。
- 縄文海進の時期、現在の関東平野などの低地の多くは陸地であった。
- 縄文時代の主要な狩猟対象は、旧石器時代から引き続きマンモスやナウマンゾウなどの大型獣であった。
- 縄文土器の焼成は、登り窯を用いた高温焼成(1000℃以上)が一般的であった。
- 土器の使用により食料の煮沸調理が可能になったことは「煮沸革命」と呼ばれ、食料資源の利用拡大に貢献した。
- 縄文時代に栽培が行われた可能性は完全に否定されており、狩猟・漁撈・採集のみが生業であった。
- 三内丸山遺跡の調査成果は、縄文社会が小規模で原始的な狩猟採集社会であったという従来のイメージを裏付けるものであった。
- 縄文時代の土偶は、その多くが男性をかたどったものであり、狩猟の成功を祈るために作られたと考えられている。
- 縄文時代の墓には、弥生・古墳時代と同様に、権力者の墓には豪華な副葬品が納められることが多かった。
- 北海道のアイヌや沖縄(琉球)の人々は、本州の日本人と比較して、縄文人の遺伝的要素をより色濃く受け継いでいることがDNA分析でわかっている。
第3問:選択問題
以下の問いに対し最も適切なものを一つ選びなさい。
- 縄文時代の自然環境の変化に関する記述として正しいものはどれか。
ア.最終氷期の終焉後、気候は寒冷化し針葉樹林が拡大した。
イ.縄文海進により海岸線は単純化し漁撈活動は衰退した。
ウ.東日本を中心に落葉広葉樹林が広がり堅果類などの森林資源が豊富になった。
エ.動物相は大型獣が増加し槍を用いた狩猟が主流となった。 - 縄文土器に関する記述として誤っているものはどれか。
ア.世界的に見ても極めて早い時期(約1万6500年前)に出現した。
イ.製作には粘土紐を積み上げる輪積み法などが用いられた。
ウ.時代が進むにつれて器形は単純化し深鉢形のみとなった。
エ.文様は時代や地域によって大きく変化し編年の指標となる。 - 縄文時代の生業に関する遺物・遺跡とその内容の組み合わせとして適切でないものはどれか。
ア.石鏃 ― 弓矢の先端に取り付け狩猟に使用された。
イ.貝塚 ― 漁撈活動で得られた貝殻などが捨てられ当時の生活を知る手がかりとなる。
ウ.貯蔵穴 ― 収穫した稲籾を保存するために集落内に掘られた。
エ.石皿・磨石 ― 採集した堅果類などをすり潰すために使用された。 - 縄文時代中期を代表する青森県の巨大集落遺跡で、大型掘立柱建物跡や広域交易を示す遺物などが発見された遺跡はどれか。
ア.大森貝塚
イ.加曽利貝塚
ウ.三内丸山遺跡
エ.大湯環状列石 - 縄文人の精神世界を示す遺物や風習に関する記述として正しいものはどれか。
ア.石棒は主に女性器を模したもので安産を祈る儀礼に用いられた。
イ.環状列石は主に西日本で見られ個人の墓として造営された。
ウ.抜歯の風習は一部地域でのみ行われた特殊なものであった。
エ.土偶は意図的に破壊された状態で見つかることが多く形代などの説がある。
第4問:記述問題
- 縄文土器の使用が縄文人の生活にもたらした最も重要な変化(「煮沸革命」)と、それが食生活や定住化に与えた影響について簡潔に説明しなさい。(60字程度)
- 縄文農耕論争とは何か。議論の対象となっている栽培可能性のある植物の例を2つ挙げ、弥生時代の農耕との違いに触れながら説明しなさい。(80字程度)
- 縄文時代中期に造られた「縄文のビーナス」や晩期の「遮光器土偶」に代表される土偶について、その一般的な解釈(何のために作られたと考えられているか)と、用途に関する謎(例:破壊)について説明しなさい。(80字程度)
- 縄文時代の交易について、代表的な交易品とその産地を2つ挙げ、交易が物資交換以外にどのような意義を持っていたと考えられるか述べなさい。(80字程度)
解答例
第1問:一問一答
- 縄文土器
- エドワード・S・モース
- 大平山元Ⅰ(おおだいやまもといち)遺跡
- 縄文海進(じょうもんかいしん)
- 貝塚(かいづか)
- 弓矢(ゆみや)
- 土器型式学(どきけいしきがく)
- 火焔型土器 王冠型土器
- 磨消縄文(すりけしじょうもん)
- 亀ヶ岡式土器(亀ヶ岡文化)
- アク(渋み)
- 貯蔵穴(ちょぞうけつ)
- 環状列石(かんじょうれっせき ストーンサークル)
- 屈葬(くっそう)
- ヒスイ(硬玉 翡翠)
第2問:正誤問題
- ×
- ×
- ×
- ×
- ×
- 〇
- ×
- ×
- ×
- ×
- 〇
第3問:選択問題
- ウ
- ウ
- ウ
- ウ
- エ
第4問:記述問題
- 煮沸調理が可能となりアク抜き等で食料利用が拡大した。食料基盤が安定し定住生活への移行定着を促した。(59字)
- 狩猟採集基盤の縄文時代に栽培が行われたかという論争。クリウルシ等。弥生の稲作中心農耕とは異なり限定的栽培か。(78字)
- 多くが女性像で豊穣や安産を祈るためとされる。しかし意図的に破壊されたものが多く病気平癒の形代などの説もある。(72字)
- 例:糸魚川のヒスイ北海道の黒曜石。物資交換だけでなく情報技術の伝播人的交流社会関係の維持威信財としての機能。(78字)