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早慶日本史 講義 第1講 古代:原始社会と国家の形成

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目次

第一章
旧石器時代

第二章
縄文時代

第三章
弥生時代

第四章
ヤマト政権の成立と発展 

第四章 ヤマト政権の成立と発展 – 古墳時代と東アジア世界

弥生時代後期に列島各地で形成された「クニ」と呼ばれる政治的なまとまりは、やがてより広域的な統合へと向かい、日本列島における最初の統一的な政治権力、すなわち**「ヤマト政権(王権)」が誕生します。本章では、このヤマト政権が成立し、その支配体制を列島各地へと広げ、発展させていく「古墳時代」**(3世紀後半~7世紀初頭頃)に焦点を当ててまいります。巨大な前方後円墳の築造に象徴されるこの時代は、日本古代国家形成への道を本格的に歩み始めた重要な時期であると同時に、激動する東アジア世界との密接な関わりの中で、その性格を形作っていった時代でもありました。

本章の探求は、まず弥生時代から古墳時代への移行期、すなわち古墳時代の曙から始まります。前方後円墳という新たな墓制の出現と、その背景にある初期ヤマト政権の中枢とされる纏向遺跡の謎に迫ります。次に、ヤマト政権(王権)そのものの形成過程と構造を詳しく見ていきます。政権の頂点に立つ大王(おおきみ)の実像、そして大王を支えつつも時には対立した有力豪族(氏族)たちとの関係性(豪族連合政権としての性格)や、政権中枢の移動などを通して、その権力のあり方を探ります。続いて、前方後円墳体制の展開や埴輪の世界といった古墳文化の具体的な様相と、それを支えたヤマト政権の支配体制(氏姓制度、部民制度、国造制、屯倉など)の仕組みと機能について解説します。さらに、当時の東アジアの国際情勢を踏まえ、ヤマト政権が中国王朝や朝鮮半島諸国とどのような対外関係を築き、また影響を受けたのか(倭の五王の遣使、朝鮮半島をめぐる角逐など)を考察します。加えて、古代日本の社会・文化に多大な影響を与えた渡来人の役割と、その「国際化」の側面にも光を当てます。最後に、ヤマト政権が内外の危機に直面し、大きな変質を遂げていく6世紀の動向(磐井の乱、仏教伝来、蘇我氏の台頭、推古朝の改革)を追い、古墳時代の終焉と次の律令国家への展望へと繋げます。

早慶をはじめとする難関大学の入試においては、古墳時代は極めて重要な学習範囲です。前方後円墳、ヤマト政権の構造と支配制度、対外関係、渡来人、6世紀の動乱と改革など、本章で扱う各テーマに関する正確な知識は当然のこととして、それらを相互に関連付け、政治・社会・文化・国際関係といった多角的な視点から、ヤマト政権の成立・発展・変質のプロセスを深く理解し、論理的に考察する能力が強く求められます。考古学的な成果と文献史料(記紀、金石文、中国史書など)を総合的に活用する視点も不可欠です。

本章を通じて、古墳という巨大モニュメントが築かれた時代の政治権力の動き、社会の仕組み、文化の特色、そして東アジア世界とのダイナミックな関わりを学び、日本古代国家が形成されていく壮大な歴史の展開を深く理解するための一助となれば幸いです。

1. 古墳時代の曙:前方後円墳体制の始動

弥生時代後期、列島各地に「クニ」と呼ばれる政治的なまとまりが分立し、時には激しく争う中で、日本社会は新たな統合の時代へと向かいつつありました。3世紀中頃から後半にかけて、畿内(特に奈良盆地)を中心として、それまでの墓とは一線を画す巨大な墳墓、すなわち**「古墳」が突如として出現し、急速に列島各地へ広がっていきます。本章では、この古墳時代の幕開けに焦点を当て、その象徴である前方後円墳の登場と、それを支えた初期ヤマト政権**の成立過程、そして古墳時代全体の時間的な枠組みについて解説してまいります。

古墳時代は、水稲耕作や鉄器の使用、階層化された社会構造など、弥生時代からの連続性の上に成り立っています。しかし、前方後円墳という特定の墳形を持つ巨大古墳が、畿内の大王(ヤマト政権の首長)と連合した各地の有力豪族の共通の墓制として列島規模で採用され、数世紀にわたって築造され続けたという事実は、弥生時代には見られなかった画期的な現象です。これは「前方後円墳体制」とも呼ばれ、多様な地域勢力が畿内を中心とする広域的な政治秩序へと統合されていくプロセスを物語っています。この時代の始まりを解明する鍵となるのが、初期ヤマト政権の中枢(都宮)の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纏向遺跡であり、その性格や『魏志』倭人伝の邪馬台国との関連が注目されています。

早慶をはじめとする難関大学の入試においても、古墳時代の始まりは極めて重要なテーマです。前方後円墳の出現とその意義(箸墓古墳など)、初期ヤマト政権の動向を示す纏向遺跡、そして古墳時代の時期区分(前期・中期・後期・終末期)と各時期を特徴づける古墳形態、埋葬施設、副葬品、埴輪、土器などに関する正確な知識は必須となります。さらに、これらの考古学的な事実に基づいて、ヤマト政権の形成・発展プロセスや当時の政治・社会構造について深く考察する能力が求められます。

本章では、以下の点を中心に解説を進めます。

  • 弥生時代から古墳時代へ: 連続する要素と、前方後円墳体制の出現という画期性。
  • 纏向遺跡: 初期ヤマト政権の中枢候補地としての特徴と意義、邪馬台国との関連。
  • 前方後円墳の出現: 最古級・最大級の箸墓古墳、その形態・構造・規模と、権力象徴・政治秩序表現としての意義。
  • 古墳時代の時期区分: 前期・中期・後期(・終末期)の年代と、各時期を特徴づける指標(古墳、埋葬施設、副葬品、埴輪、土器)の概観。

巨大古墳が雄弁に物語る権力の集中と広域的な政治秩序の形成は、日本古代国家成立への道を本格的に歩み始めたことを示しています。本章を通じて、古墳時代の幕開けを告げる重要な出来事とその意義、そして時代全体の流れを掴むための基礎を固め、このダイナミックな時代の本質に迫る一助となれば幸いです。

1.1. 弥生時代から古墳時代へ:連続性と画期性

弥生時代後期、水稲耕作普及、社会階層化、クニグニ分立・抗争という変動の中、日本列島は新時代への移行期を迎えていた。3世紀中頃~後半、弥生墳丘墓とは一線を画す、特定規格性持つ巨大墳墓、すなわち**古墳(こふん)が畿内(特に奈良盆地)中心に出現し急速に列島各地へ広がる。この古墳が盛んに築造された時代(3世紀後半~7世紀初頭頃)を古墳時代(こふんじだい)**と呼ぶ。

古墳時代の始まりは弥生文化基盤上に成り立っている(連続性)。水稲耕作、鉄器使用、階層化社会構造、地域的政治勢力(クニ)などは弥生から引き継がれた要素。

しかし古墳時代は弥生とは異なる画期性も持つ。最大画期は、**前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)**に代表される特定墳形・規模・構造持つ巨大古墳が、畿内大王(おおきみ、ヤマト政権首長)とその連合に加わった各地有力豪族(首長)の共通墓制(前方後円墳体制)として列島規模で採用され、数世紀築造され続けた点にある。これは弥生時代の多様な地域的クニグニが、畿内ヤマト政権中心の、より広域的な政治秩序へ統合されていくプロセスを象徴している。

1.2. 纏向遺跡:初期ヤマト政権の中枢か?

古墳時代幕開けを考える上で極めて重要なのが奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡。弥生終末期~古墳初頭(3世紀前半~後半)に突如出現した広大遺跡(東西約2km、南北約1.5km)。

  • 特徴: 広大範囲と計画性(自然発生的集落と異なる)、列島各地からの搬入土器大量出土(人々・物資集結示唆)、特殊大型建物群(祭祀・政務・首長居館等中枢機能か)、祭祀遺構(宮殿様区画、多量桃種、特殊土器等)、周辺巨大古墳隣接(箸墓古墳、纏向石塚古墳、矢塚古墳、ホケノ山古墳)。
  • 意義: これらの特徴から、纏向遺跡は各地勢力連合形成した**初期ヤマト政権(王権)**の最初の中枢(都宮)で、政治・経済・祭祀中心であった可能性極めて高いと考えられる。
  • 邪馬台国との関係: 出現時期・特徴(計画性、広域交流、祭祀性、周辺巨大古墳)は『魏志』倭人伝記載邪馬台国(特に畿内説)描写と符合点多く、纏向遺跡=邪馬台国都説が有力視される。ただし確定的証拠なく今後の研究待たれる。

1.3. 前方後円墳の出現とその意義:箸墓古墳を中心に

古墳時代象徴墓制が前方後円墳。円形主丘(後円部)に方形突出部(前方部)接続する鍵穴様形状。

  • 出現: 定型的前方後円墳出現は3世紀中頃~後半とされる。最古級かつ最大級例が纏向遺跡隣接の箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市、墳丘長約280m)
  • 特徴: 巨大規模(墳丘長100m超多、数百mも[例:大仙陵古墳約486m])、規格性(前方部・後円部比率・形状に時代ごとの一定規格性)、高度土木技術(段築、葺石、周濠など、膨大労働力要す)、**埴輪(はにわ)**樹立(墳丘上・周囲に多数)。
  • 意義:
    • 権力象徴: 巨大さと構築労力から被葬者(大王・有力豪族)の絶大権力誇示モニュメント。
    • 政治秩序表現: 前方後円墳という共通墓制が列島各地へ広まったことは、ヤマト政権中心政治秩序(前方後円墳体制)形成と各地豪族のその秩序参加示す。墳丘規模・副葬品質量は政権内序列・地域差反映か。
    • 弥生からの画期: 弥生墳丘墓に比べ規模、規格性、構築技術で格段進歩、古墳時代始まり画する存在。

1.4. 古墳時代の編年:時期区分と指標

古墳時代(3世紀後半~7世紀初頭)は、主に古墳形態(特に前方後円墳形状)、埋葬施設(石室等)、副葬品(特に鏡、武器、馬具、土器)変化に基づき、前期・中期・後期(さらに終末期加える場合も)に区分される。

  • 前期(3世紀後半~4世紀末):
    • 古墳: 定型的前方後円墳出現・確立。墳丘長100~200m級多だが箸墓古墳等巨大なものも。前方部は撥形。
    • 埋葬施設: 遺体納める主体部は竪穴式石室粘土槨主流。基本的に一棺一主体(追葬困難)。
    • 副葬品: 銅鏡(舶載鏡、特に三角縁神獣鏡多数副葬が特徴)、玉類、碧玉製腕飾(鍬形石等)、鉄製武器・工具。全体に呪術的・司祭的性格強いとされる。
    • 埴輪: 円筒埴輪中心。前期後半には朝顔形や家・器財(盾、蓋等)形象埴輪も出現。
    • 土器: 弥生系譜引く土師器(はじき)。祭祀用特殊都月型土器等も見られる。
  • 中期(5世紀):
    • 古墳: 前方後円墳巨大化ピーク。墳丘長300~400m超が河内(大阪府)集中(大仙陵古墳[伝仁徳陵]、誉田御廟山古墳[伝応神陵]等)。前方部幅広く高く発達。複数周濠。
    • 埋葬施設: 竪穴式石室も残るが、石室内に棺台設け長持形石棺等安置する構造主流。
    • 副葬品: 銅鏡減少し、代わって武器・武具(甲冑、刀剣等)や馬具(鞍、鐙、轡等)大量副葬。鉄製農工具も豊富。被葬者武人的・首長的性格強調。騎馬文化導入反映。
    • 埴輪: 円筒埴輪に加え、形象埴輪が多様化・精巧化(家、器財、馬、鶏、水鳥、武装人物、巫女等)。
    • 土器: 土師器に加え、朝鮮半島伝来新技術の須恵器(すえき)(**窖窯(あながま)**高温焼成硬質灰色土器)出現、普及開始。
  • 後期(6世紀):
    • 古墳: 巨大前方後円墳衰退、数十m程度中小規模中心に。前方後円墳自体数も減少し円墳・方墳多数築造。特定地域に多数古墳密集**群集墳(ぐんしゅうふん)**出現(一般有力農民層墓か)。
    • 埋葬施設: 墳丘側面入口持つ横穴式石室全国的普及。玄室・羨道構造。追葬可能で家族墓・氏族墓性格。九州北部には壁画描く装飾古墳も多。
    • 副葬品: 武器・武具・馬具継続だが装飾性強まる。須恵器・土師器等日常土器大量副葬。金銅製冠・耳飾、ガラス玉等装身具、鉄製農工具も豊富。全体に生活的性格強まる。
    • 埴輪: 形象埴輪(特に人物・動物)さらに多様化、群像配置例も。
  • 終末期(7世紀):
    • 古墳: 前方後円墳ほぼ消滅。方墳(例:石舞台古墳[蘇我馬子墓か?])、円墳、天皇陵とされる八角墳(例:舒明天皇陵、天武・持統陵)、上円下方墳(例:武蔵府中熊野神社古墳)など多様墳形出現。
    • 埋葬施設: 横穴式石室継続主流だが構造簡略化や精巧切石使用も。
    • 仏教影響: 仏教伝来・普及伴い、火葬や仏具(舎利容器等)伴う墓出現開始。古墳時代終焉と律令国家移行示す。

この編年は一般的指標で地域差・文化内容差に注意必要。

2. ヤマト政権(王権)の形成と構造

前章で見たように、3世紀中頃から後半にかけて前方後円墳が列島各地に広まったことは、新たな政治秩序の始まりを告げるものでした。その中心にあったのが、後の古代国家の礎となる**「ヤマト政権(王権)」です。本章では、このヤマト政権がどのようにして畿内(特に奈良盆地)に誕生し、どのような構造を持ちながら発展していったのか、その形成過程と権力の仕組み**に焦点を当ててまいります。ヤマト政権の実態を解き明かすことは、古墳時代という時代の本質、そして日本の国家形成の起源を理解する上で不可欠です。

ヤマト政権の成立は、纏向遺跡の出現や箸墓古墳に代表される定型的前方後円墳の築造開始と深く結びついて考えられています。その頂点には**「大王(おおきみ)」と呼ばれる首長が存在しましたが、その実像は『古事記』『日本書紀』といった後世の史書だけでなく、埼玉稲荷山古墳鉄剣銘などに名を残すワカタケル大王(雄略天皇)のように、考古学的な発見(金石文)によっても裏付けられつつあります。しかし、初期のヤマト政権は、大王による専制的な支配ではなく、葛城氏や蘇我氏、物部氏、大伴氏といった有力な豪族(氏族)たちとの連合**によって成り立っていたと考えられており、その権力構造は複雑で流動的でした。政権の中枢や大王墓が築かれる地域が時代とともに移動したことも、そのダイナミズムを物語っています。

早慶をはじめとする難関大学の入試においても、ヤマト政権の形成と構造は古墳時代の中核をなす最重要テーマです。政権の成立時期と場所、大王の実像(特にワカタケル大王と金石文の意義)、豪族連合政権としての性格(臣・連の違いや有力氏族の動向)、そして政権中枢の移動(三輪→佐紀→河内)などについて、正確な知識が求められます。さらに、これらの事実に基づいて、ヤマト政権の権力基盤、統治体制の発展、豪族との関係性などを多角的に考察し、論理的に説明する能力が重要となります。

本章では、以下の点を中心に解説を進めます。

  • ヤマト政権の成立: 時期(3世紀中頃~後半)、発祥地(畿内・三輪山麓)、名称について。
  • 大王(おおきみ)の実像: 『記紀』の記述と考古学的証拠(ワカタケル大王、金石文)から迫る。
  • 豪族連合政権としての性格: 大王家と有力豪族(臣・連)との関係、連合と対立の構造。
  • 政権中枢の移動: 三輪山麓から佐紀、そして河内へと中心地や陵墓群が移動した背景と意味。

ヤマト政権は、誕生当初から完成された国家体制を持っていたわけではなく、様々な勢力との関係の中で徐々にその支配を確立・拡大させていきました。本章を通じて、考古学と文献史学の両面から、この古代王権の形成過程とその構造を具体的に理解し、古墳時代の政治的な展開、そして後の律令国家へと繋がる歴史の大きな流れを把握するための知識基盤を固めていただければ幸いです。

2.1. ヤマト政権の成立:畿内における権力の興隆

  • 成立時期: 3世紀中頃~後半、纏向遺跡中心勢力台頭し箸墓古墳代表定型的前方後円墳築造開始時期がヤマト政権(王権)成立期と考えられる。
  • 発祥地・中枢: 畿内、特に奈良盆地東南部(三輪山麓)が発祥地、初期中枢か。弥生集落存在、三輪山古来信仰対象等が権力形成背景可能性。
  • 「ヤマト」呼称: 当時の自称不明だが後律令国家「大和国」に繋がるため「ヤマト」政権(王権)と呼ぶ。「大和」漢字表記は後世(8世紀)。

2.2. 大王(おおきみ)の実像:『記紀』と考古学的証拠(ワカタケル大王)

ヤマト政権頂点首長は**大王(おおきみ)**と呼ばれた(「天皇」称号は7世紀後半以降)。

  • 『古事記』『日本書紀』記述: 8世紀編纂記紀に初代神武天皇から系譜記載。初期天皇(特に初代~9代)は神話・伝説要素強く実在性疑問。10代崇神天皇(「ハツクニシラススメラミコト」)や11代垂仁天皇以降、徐々に史実性高まるか。しかし特に5世紀以前系譜・治世年は後世潤色多くそのまま史実視不可。陵墓比定も考古学年代観と不一致多。
  • 考古学的証拠:ワカタケル大王: 5世紀後半、大王実像迫る具体的考古学証拠現れる。埼玉県稲荷山(いなりやま)古墳鉄剣銘と熊本県江田船山(えたふなやま)古墳鉄刀銘に共通して「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」に仕えた人物が功績記し剣・刀作らせたこと刻まれる。「獲加多支鹵」は記紀21代雄略天皇(『宋書』倭国伝の倭王武比定)実名「ワカタケル」音写と考えられる。これら**金石文(きんせきぶん)**は、①5世紀後半「大王」称号使用、②ワカタケル大王権力関東~九州広範囲波及、③ヤマト政権支配体制ある程度整備、④文字(漢字)支配層間使用、を示す第一級史料。

2.3. 豪族連合政権としての性格:有力氏族の動向

初期ヤマト政権は大王絶対君主の中央集権専制国家でなく、畿内・周辺有力**豪族(ごうぞく)**たちが大王家中心に連合した性格強いと考えられる。

  • 有力豪族(氏族): 大王家(後天皇家)自身も有力氏族の一つ。周りには葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏等畿内在地豪族(主に**臣(おみ)姓)、および大伴氏、物部氏、中臣氏等特定職掌で大王仕える氏族(主に連(むらじ)**姓)など多数有力氏族存在。
  • 連合と対立: これら豪族は大王支え政権運営深く関与一方、時に互いに、あるいは大王家と権力争う。特に大王家と婚姻関係結ぶこと重要(外戚関係)。葛城氏・蘇我氏は娘を大王后とし勢力伸張。
  • 大王の役割: 大王は有力豪族利害調整し連合体制維持・強化役割。巨大古墳築造、対外戦争遂行、中国王朝遣使等は、大王権威高め豪族連合結束促す重要手段。

2.4. 政権中枢の移動:三輪山麓から佐紀、そして河内へ

ヤマト政権政治中心地や大王墓集中築造地域(陵墓群)は時代と共に畿内内で移動。政権内有力豪族勢力バランス変化や大王家系統交代等反映か。

  • 初期(3世紀後半~4世紀初頭): 奈良盆地東南部三輪山麓地域(纏向遺跡、箸墓古墳等)。
  • 前期後半(4世紀後半): 奈良盆地北部佐紀盾列古墳群地域(五社神古墳、宝来山古墳等)。この時期政権と葛城氏関連指摘。
  • 中期(5世紀): 大阪府南東部河内地方。古市古墳群(誉田御廟山古墳等)と百舌鳥古墳群(大仙陵古墳等)に空前規模巨大前方後円墳集中築造。大王権力絶頂期示すと共に政権中枢河内移動(河内王朝説)、あるいは大和・河内勢力並立・交代可能性示唆。
  • 後期(6世紀): 再び奈良盆地(特に南部)中心となるが巨大古墳築造衰退。 中心地移動はヤマト政権権力構造が単一不変でなく、時代と共に変動するダイナミックなものであったこと示す。

3. 古墳文化の展開とヤマト政権の支配体制

ヤマト政権の成立は、日本列島に新たな政治秩序をもたらしましたが、その支配はどのように具体化され、列島各地へと浸透していったのでしょうか。また、その時代を彩った**「古墳文化」は、どのように展開し、変容していったのでしょうか。本章では、古墳時代の指標である前方後円墳体制の展開と変容**、古墳を飾る埴輪の世界、そしてヤマト政権の支配体制の根幹をなした氏姓制度、部民制度、国造制、屯倉といった政治・社会システムに焦点を当て、古墳時代の文化と社会の具体的な様相を探ってまいります。

古墳時代を通じて、前方後円墳はその形態や規模、埋葬施設、副葬品を大きく変化させながら全国へと広がっていきました。この前方後円墳体制の展開は、ヤマト政権の権力構造の変化や、中央と地方の豪族との関係性を映し出しています。また、古墳の周囲を飾った埴輪は、円筒埴輪から多様な形象埴輪へと発展し、当時の人々の生活、社会、信仰を知る上で貴重な視覚情報を提供してくれます。一方で、ヤマト政権は、氏姓(しせい)制度によって中央・地方の豪族を序列化し、部民(べみん)制度によって専門的な技術者集団や広範な労働力を組織し、国造(くにのみやつこ)制を通じて地方支配のネットワークを広げ、**屯倉(みやけ)**によって経済的・政治的拠点を確保するなど、独自の支配システムを構築・展開していきました。

早慶をはじめとする難関大学の入試においても、古墳時代の文化と支配体制に関する知識は極めて重要です。古墳時代の時期区分(前期・中期・後期)に応じた古墳・埋葬施設・副葬品・埴輪の変化、前方後円墳体制の展開と地域差、埴輪の種類と意義、そして氏姓制度(臣・連、大臣・大連)、部民制度(品部など)、国造制、屯倉といった支配システムの仕組みと機能について、正確に理解しておく必要があります。さらに、これらの文化や制度が相互にどのように関連し、ヤマト政権の支配構造やその変遷を反映しているのかを構造的に理解し、考察する能力が求められます。

本章では、以下の点を中心に解説を進めます。

  • 前方後円墳体制の展開: 古墳の形態・規模、埋葬施設(竪穴式→横穴式石室)、副葬品の変化に見る時代性と政治的背景。
  • 埴輪の世界: 円筒埴輪から形象埴輪(家、器財、動物、人物)への展開、その種類と機能・意味。
  • 氏姓(しせい)制度: 氏と姓による身分秩序の形成、大臣・大連制など中央豪族の組織化。
  • 部民(べみん)制度: 多様な部の種類と役割(品部、名代・子代、田部など)、伴造による統率と政権基盤としての意義。
  • 国造(くにのみやつこ)制: 在地豪族を通じた地方支配の仕組みとその限界。
  • 屯倉(みやけ): 大王家直轄地としての経済的・政治的拠点機能。

古墳という物質文化と、それを支え、またそれによって表現される政治・社会システムは表裏一体の関係にあります。本章を通じて、古墳文化の具体的な様相とヤマト政権の支配体制の構造と機能を学び、古代国家形成期における政治・社会・文化の全体像を深く理解するための一助となれば幸いです。

3.1. 前方後円墳体制の確立と展開

  • (1) 古墳の形態・規模の変化: 前述編年通り、古墳、特に前方後円墳形態・規模は時代で大変化。前期:比較的小型、前方部撥形。中期:規模最大化、前方部方形化・高層化、技術的完成度高まる。後期:巨大古墳衰退、中小規模円墳・方墳増加、前方後円墳小型化。終末期:前方後円墳ほぼ消滅、方墳、円墳、八角墳等多様化。変化はヤマト政権権力構造変化(中期大王権力絶頂、後期豪族層相対的地位向上)、社会全体変化(群集墳出現に見る支配者層拡大)、葬送観念変化等反映か。
  • (2) 埋葬施設と葬送儀礼:
    • 竪穴式石室・粘土槨(前期~中期): 墳丘上部から垂直墓穴底に石室築くか木棺粘土覆う構造。基本的に一被葬者埋葬、追葬困難。個々首長権力誇示性格強かったこと示唆。
    • 横穴式石室(後期~終末期): 墳丘側面入口持つ石室。羨道・玄室構造。入口開閉で追葬可能、家族墓・氏族墓性格。普及は埋葬考え方変化(個人権力誇示→氏族結合重視)や朝鮮半島技術影響(百済・新羅古墳にも見られる)示唆。九州北部装飾古墳は石室壁面に彩色・線刻で文様描き、当時の死生観・世界観知る貴重資料(例:王塚古墳、竹原古墳[福岡]、チブサン古墳[熊本])。
  • (3) 副葬品の変化: 副葬品内容も時代で大変化し被葬者性格・社会変化反映。前期:銅鏡(特に三角縁神獣鏡)、玉類、碧玉製腕飾等呪術的・司祭的性格強い遺物中心。鉄製武器・工具も副葬されるが量中期ほど多くない。中期:大量武器・武具(甲冑、刀剣)と馬具副葬、被葬者武人的・首長的性格前面へ。鉄製農工具副葬も増え経済的豊かさも示す。後期:武器・武具・馬具継続だが装飾性増す。須恵器・土師器等日常土器大量副葬、金銅製冠・耳飾、ガラス玉等装身具豊富に。全体により生活的側面強まる。変化は大王・豪族役割が司祭者→軍事指導者→地域統治者へ変化したプロセス反映か。
  • (4) 全国への拡散と地域性: 前方後円墳は4世紀急速に東北南部~九州南部へ広がり、ヤマト政権中心**政治ネットワーク(前方後円墳体制)**列島規模形成示す。各地豪族は前方後円墳築造でヤマト政権との政治的結びつき表明し地域社会での自優位性示した。ただし築造古墳規模・副葬品内容には地域差・階層差。畿内大王墓クラス次ぐ規模古墳は吉備(造山古墳等)、出雲(大型方墳多)、毛野(太田天神山古墳等)といった有力地方勢力本拠地で見られる。これら巨大古墳はヤマト政権支配必ずしも一元的でなく、有力地方豪族強い自立性保持していたこと示唆。

3.2. 埴輪の世界:古墳を彩る造形物

**埴輪(はにわ)**は古墳墳丘上・周囲に立て並べられた素焼き土製品。古墳時代通じ形態・役割変化。

  • (1) 円筒埴輪から形象埴輪へ:
    • 起源: 弥生後期吉備地方墳丘墓墳頂部の特殊器台・特殊壺が古墳前期円筒埴輪祖形か。
    • 円筒埴輪: 古墳時代通じ最基本。単純円筒形、朝顔形等。墳丘裾・平坦面に連続立て並べ、古墳聖域区画役割や墳丘崩落防止役割か。
    • 形象埴輪: 古墳前期後半登場、中期以降種類・数爆発増加。具体的「モノ」「生き物」「人」かたどる。当初墳頂部・造出等特定場所、次第に墳丘全体配置へ。
  • (2) 形象埴輪の種類とその情報: 当時の生活、社会、信仰知る貴重視覚情報提供。
    • 家形: 竪穴住居、高床倉庫、平地建物、首長居館等模す。当時建築様式・構造手がかり。
    • 器財: 盾、甲冑、刀、靭、蓋、翳、舟、椅子、等。被葬者権威、武力、日常生活関連道具類表現。
    • 動物: 馬(最多、騎馬文化普及示す)、犬、鶏、猪、鹿、水鳥(魂運ぶ役割か?)等。当時家畜・狩猟対象、信仰関連動物表現。
    • 人物: 最も多様・情報量多。武装男子(武人)、祈る巫女、農夫、力士、正装貴人(首長)、楽器奏者、鷹匠等、様々身分・職業・活動従事する人々の姿生き生き表現され、当時服装、髪型、風俗、社会階層知る上で極めて重要。
  • (3) 埴輪の機能と意味: なぜ古墳に立てられたか、機能・意味複数説。墳丘荘厳・権威誇示、聖域区画・結界、葬送儀礼表現、生前再現・来世生活、死者魂依り代・守護。殉死代わり説(記紀垂仁紀記述基)は考古学証拠乏しく現在否定。実際にはこれら機能複合的と考えられ、埴輪は古墳時代人の死生観、世界観、社会あり方反映ユニーク造形物。

3.3. 氏姓(しせい)制度:ヤマト政権の身分秩序

ヤマト政権支配体制根幹が氏姓(しせい)制度。血縁基盤**氏(うじ)と大王与える政治・社会地位示す姓(かばね)**で構成。

  • (1) 氏(うじ): 共通祖先持つと信じ(擬制し)、祖先神(氏神)祀る同族集団。統率者氏上(うじのかみ)と属する氏人(うじびと)(隷属民含む場合も)で構成。単なる血縁集団でなく政治・経済・社会的単位機能。多くの場合特定地域基盤持ち、ヤマト政権で世襲的職掌担う(例:物部・大伴=軍事、中臣・忌部=祭祀、蘇我=財政)。氏神祀る氏社や後仏教伝来で氏寺建立等宗教的結束も。弥生以来首長層や特定技術・職能集団等が古墳時代通じ政権支配体制組込過程で氏として組織化か。大王家自身も最有力の氏。
  • (2) 姓(かばね): 大王が政権内政治・社会地位や職掌応じ各氏に与えた世襲的称号。氏名後つけ称す(例:蘇我臣馬子)。
    • 主な種類・序列: 臣(おみ)(畿内有力在地豪族や大王家分かれ氏族多。葛城、平群、巨勢、蘇我、紀氏等。最高執政官**大臣(おおおみ)は主に臣姓有力氏族から)、連(むらじ)(特定職能で大王仕える氏族[伴造、後述]や古来有力氏族多。大伴、物部、中臣、忌部氏等。最高執政官大連(おおむらじ)**は主に連姓有力氏族[大伴、物部氏]から。臣と連の序列議論あるがほぼ同格かやや臣上位か)、君(きみ)(地方有力豪族多。吉備、毛野氏等)、直(あたえ)(地方豪族[後国造クラス]や中小豪族)、造(みやつこ)(特定技術・生産集団[品部、後述]率いる伴造等)、首(おびと)(小規模集団長や地方首長層)。
    • 意義: 姓は政権内各氏族序列・職掌明確化し身分秩序確立・維持する重要システム。大王は姓与える通じ豪族たちを政権組織内に位置づけ統制試みた。
  • (3) 大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)制: 5世紀後半~6世紀、国政担う最高執政官として大臣・大連設置。大臣は臣姓最有力者(葛城、平群、蘇我氏等)、大連は連姓最有力者(大伴、物部氏)から任命され合議で国政運営。有力豪族連合政権示す制度だが、地位めぐる豪族間激しい権力闘争原因とも(例:蘇我・物部対立)。 氏姓制度は豪族支配根幹だが、血縁・世襲原則のため社会変動対応困難側面や有力氏族権力強大化しやすい問題点も。後律令国家建設で八色の姓制定等で再編へ。

3.4. 部民(べみん)制度:政権を支える人的基盤

ヤマト政権経済的・人的基盤支えたのが部民(べみん)制度。特定**部(べ、とも)**編成された人々(部民)が大王家・有力豪族所属し様々奉仕(貢納、労役提供等)する制度。

  • (1) 部の種類と役割: 性格・所属で数種類。
    • 職業部(品部、しなべ/ともべ): 特定手工業生産・専門技術でヤマト政権(大王家)奉仕する部。須恵部(須恵器)、土師部(土師器・埴輪)、錦織部(高級絹織物)、鞍作部(馬具、後仏像等)、鍛冶部(鉄器)、玉作部(玉類)、画部(絵画)、史部(文書・記録)など。多くは渡来系技術者とその子孫が中核構成、技術水準向上に大貢献。
    • 名代・子代(なしろ・こしろ): 大王家・皇族個人所属し、名伝える(名代)あるいは養育・生活資とする(子代)ため設定された部。宮廷雑務、警備、特定地域管理など多様役割(例:刑部、孔王部、伊福部等)。大王家権力基盤を人的・経済的に支持。
    • 田部(たべ): 大王家直轄地・屯倉(みやけ)(後述)耕作農民。ヤマト政権基本経済基盤(食料生産)担う。
    • 部曲(かきべ): 有力豪族私的所属、その田荘(たどころ)等耕作や様々雑用従事した人々。豪族経済力・軍事力基盤。
  • (2) 伴造(とものみやつこ)による統率: これら部の多くは特定により統率。部率いる氏長は**伴造(とものみやつこ)と呼ばれ地位世襲。配下部民組織・管理し生産物・労役徴収してヤマト政権(大王家)や自氏に供給役割。伴造には造(みやつこ)や首(おびと)**等姓が与えられたこと多。
  • (3) 部民制の意義と限界: ヤマト政権が専門技術者集団や広範農民層組織的把握し、必要労働力・生産物安定確保する重要システム。巨大古墳築造、宮都造営、対外戦争遂行、宮廷業務等は部民制度で支えられた。一方、部民身分基本的に自由民(奴婢と異なる)とされるが、特定部所属世襲、貢納・労役義務負う等半自由民的側面も持ったか。後律令制下品部・雑戸へ繋がるが、複雑構造や大王家・豪族二重支配等問題点も。

3.5. 国造(くにのみやつこ)制:地方支配のネットワーク

ヤマト政権は畿内中心としつつ支配を列島各地へ拡大。地方支配主要柱が国造(くにのみやつこ)制。

  • (1) 国造の任命と役割: ヤマト政権は列島各地在地有力豪族(弥生首長層子孫多)をそれぞれの地域(国、後律令郡程度範囲か)支配者として国造に任命。地位多くの場合世襲。役割:①管内統治、②ヤマト政権へ貢物(調)貢納・労役提供、③軍事動員、④ヤマトへ出仕し大王へ貢物献上・重要祭祀参加で服属儀礼。
  • (2) 間接統治システムとしての機能と限界: ヤマト政権が全国隅々まで役人派遣直接支配でなく、在地有力者権威・支配力利用し地方統治する間接統治システム。これにより比較的少労力で全国規模貢納・軍事動員体制構築し支配ネットワーク広げた。しかし国造はヤマト地方官性格と同時に独立性高い地域支配者でも。中央統制力必ずしも強くなく、特に遠隔地や吉備、出雲、毛野、筑紫等伝統的強力勢力地域では国造強い自立性保持。6世紀初頭磐井乱(後述)は筑紫国造磐井反旗事件で国造制地方支配限界とヤマト地方統制強化動き示す象徴。国造制は後律令郡司制度へ再編へ。

3.6. 屯倉(みやけ):大王家の経済的・政治的拠点

ヤマト政権、特に大王家は、国造支配「国」とは別に、列島各地に**屯倉(みやけ)**と呼ばれる直轄地・経営拠点設置。

  • (1) 屯倉の性格と設置目的: 元々は徴収稲等納める倉庫中心施設か。次第に周辺**土地(田荘)**や耕作民(田部)含む複合経営体へ発展。設置目的:①経済的基盤(肥沃地設置、田部耕作で食料生産し大王家財政基盤強化)、②戦略的拠点(交通要衝、港、資源産地等に設置、物資輸送、情報伝達、資源確保、軍事活動拠点)、③地方支配・監視(有力国造勢力圏内・境界設置で地方豪族牽制・監視、ヤマト直接影響力行使拠点)。
  • (2) 設置の拡大と大王権力の伸張: 屯倉設置は特に倭の五王時代(5世紀)~6世紀活発化と記紀等記載(特に雄略天皇代多とされる)。大王権力伸張し国造制間接支配補完・強化のため地方への直接支配力強めようとした現れか。磐井乱後、磐井子が罪許され代わりに糟屋屯倉献上話も屯倉が地方支配強化手段だったこと示唆。屯倉制度はヤマト政権が列島各地支配楔打ち込み中央集権化進める上で重要役割。後律令官田・勅旨田等に繋がる天皇(国家)直轄地原型とも。

4. 激動の東アジアとヤマト政権の対外関係

古墳時代のヤマト政権は、国内の支配体制を固めていくと同時に、当時の激動する東アジア国際情勢の中で、活発な対外活動を展開していました。日本列島は決して孤立していたわけではなく、中国大陸や朝鮮半島の動向と密接に関わり、また影響を受けながら、その政治的な地位を確立しようとしていたのです。本章では、この古墳時代、特に4世紀から5世紀にかけてのヤマト政権の対外関係に焦点を当て、当時の国際環境、中国王朝との交流(倭の五王の遣使)、そして朝鮮半島をめぐる複雑な角逐について詳しく見てまいります。

この時代の東アジアは、中国では晋が滅び南北朝が対峙する分裂期にあり、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が覇権を争い、南端には伽耶(加羅)諸国が存在するなど、流動的で緊迫した状況にありました。このような国際環境は、ヤマト政権にとって、高句麗の南下政策といった脅威をもたらす一方で、百済との連携や中国王朝からの冊封を通じて国際的な地位を高め、国内の王権を強化する好機ともなりました。中国史書に倭に関する記述が途絶える「空白の四世紀」を経て、5世紀には倭の五王が積極的に中国南朝へ遣使し、朝鮮半島における軍事的な優位性を認めさせようと図ります。その背景には、鉄資源の確保や安全保障をめぐる朝鮮半島諸国との複雑な関係がありました。

早慶をはじめとする難関大学の入試においても、古墳時代の対外関係は極めて重要なテーマです。当時の東アジア国際情勢、倭の五王(『宋書』倭国伝の内容、遣使の目的、ワカタケル大王との関連)、そして朝鮮半島諸国との関係(広開土王碑文の内容、百済との同盟、新羅との対立、伽耶/任那問題)について、関連する文献史料の記述も踏まえながら正確に理解しておく必要があります。さらに、これらの知識に基づいて、ヤマト政権の対外政策の意図や当時の国際秩序における日本の位置づけ、そして対外関係が国内の政治・社会に与えた影響などを多角的に考察する能力が求められます。

本章では、以下の点を中心に解説を進めます。

  • 4~5世紀の東アジア国際情勢: 中国の分裂(南北朝時代)と朝鮮半島の三国鼎立(高句麗・百済・新羅)・伽耶諸国の状況。
  • 「空白の四世紀」と倭国の動向: 文献史料の空白と、考古学から推測される朝鮮半島への関与。
  • 倭の五王の遣使 (5世紀): 『宋書』倭国伝を手がかりに、遣使の目的(朝鮮半島での軍事指揮権、国内王権強化)、要求した称号、中国南朝の対応、ワカタケル大王との関連。
  • 朝鮮半島をめぐる角逐: 高句麗との軍事衝突(広開土王碑文)、百済との緊密な同盟関係と文化流入、新羅との対立、伽耶(任那)諸国の重要性と「任那日本府」問題。

古墳時代のヤマト政権を理解する上で、その対外関係は国内の政治・社会動向と不可分の関係にあります。本章を通じて、当時の東アジア世界のダイナミズムの中でヤマト政権がどのように立ち回り、国際的な地位を築こうとしたのか、その具体的な様相を学び、日本古代国家が形成されていく国際的な背景についての理解を深めていただければ幸いです。

4.1. 4~5世紀の国際環境:中国の分裂と朝鮮半島の三国鼎立

4~5世紀東アジアは大変動時代。

  • 中国: 晋滅亡(316年)後、華北は五胡十六国興亡、江南は東晋。5世紀前半北魏華北統一、南宋と対峙する南北朝時代へ。長期分裂・動乱。
  • 朝鮮半島: 北部高句麗勢力拡大、南下政策推進。南部百済・新羅国家体制整え互いに激しく覇権争う(三国時代)。さらに南端部**伽耶(加羅)小国分立・連合(日本で任那(みまな)**とも)。伽耶地域鉄資源豊富、日本列島と関係深く交易拠点。 流動的緊迫国際情勢はヤマト政権に危機(例:高句麗脅威)と同時に勢力拡大・国際地位向上機会(例:百済連携、中国王朝冊封)ともなった。

4.2. 「空白の四世紀」と倭国の動向

『魏志』倭人伝266年遣使以降、中国史書から倭記述約150年途絶。この間日本列島は古墳前期、前方後円墳築造開始、ヤマト政権形成・発展重要時期だが文献史料乏しく「空白の四世紀」と呼ばれる。

この時期動向は考古学資料(古墳、遺物)から推測。前方後円墳畿内から各地へ広がり始め、ヤマト政権徐々に影響力拡大か。朝鮮半島関係も継続か、4世紀後半ヤマト政権半島南部軍事進出可能性が広開土王碑文等からうかがえる。半島関与が鉄資源確保、百済・伽耶連携、高句麗・新羅対立深化契機となった可能性。

4.3. 倭の五王の遣使(5世紀):『宋書』倭国伝を手がかりに

「空白の四世紀」後、5世紀入ると再び中国史書(南朝宋歴史書**『宋書』倭国伝**)に倭記述現れる。5世紀通じ、讃・珍・済・興・武と記される5人倭王(倭の五王)が十数回宋へ朝貢し皇帝から爵号授与された記載。

  • (1) 讃・珍・済・興・武の比定と遣使の目的:
    • 比定: 記紀天皇比定諸説あるが一般に以下多い(異論多)。讃:応神or仁徳or履中? 珍:反正or仁徳・履中・反正? 済:允恭? 興:安康? 武:雄略?(この比定最確実視)。
    • 遣使目的: 主に①朝鮮半島軍事優位確保(高句麗・新羅対抗のため宋皇帝から**朝鮮半島南部諸国軍事指揮権(都督号)**授与求め、軍事行動国際正当化、百済・伽耶影響力確保・強化)、②倭国内王権強化(中国皇帝権威から高爵号で国内有力豪族へ大王優位性示し求心力高め王権安定・強化)。その他先進文物獲得等も目的か。
  • (2) 要求した称号とその背景: 倭王武(雄略天皇)宋へ上表文(478年)に外交戦略具体提示。祖先半島軍功・多国服属誇張し述べ、高句麗脅威訴え広範地域軍事指揮権含む称号求めた。最終要求称号「使持節、都督 倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓 六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」。倭国だけでなく半島南部広範地域軍事支配権宋に承認させようとする野心的要求。
  • (3) 中国南朝(宋)の対応とその意味: 宋皇帝(順帝)は武朝貢評価し「使持節、都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓 六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」称号授与。要求から百済除き加羅加える。宋は倭を冊封体制下認めつつも、既冊封関係百済への倭支配権までは承認せず国際関係バランスとったか。それでもこの称号はヤマト(倭)が半島南部広範地域へ一定影響力持つことを中国王朝が国際承認した意味持ち、倭の五王に大外交成果。
  • (4) 考古学との連携:稲荷山鉄剣銘・江田船山鉄刀銘: 前述稲荷山鉄剣銘・江田船山鉄刀銘「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」は倭王武(雄略天皇)と同一人物か。金石文は5世紀後半ワカタケル大王権力関東~九州波及具体示し、『宋書』倭国伝記述と合わせ当時ヤマト政権(大王)強力権力持ち広域支配展開裏付ける重要証拠。 倭の五王遣使は倭王武(478年)以降途絶。宋滅亡(479年)や南朝混乱、半島情勢変化、倭国内政情不安等理由か。

4.4. 朝鮮半島をめぐる角逐

ヤマト政権は鉄資源確保や国際地位向上、安全保障等観点から朝鮮半島情勢、特に南部地域に深く関与し続けた。

  • (1) 高句麗との関係:広開土王碑文に見る軍事衝突: 4世紀末~5世紀初頭、半島北部南下高句麗とヤマト(倭)激しい軍事衝突繰り返す。様子は高句麗広開土王(好太王)碑文(414年建立)に詳述。
    • 碑文内容: 辛卯年(391年)以来倭が海渡り百済・☐羅・新羅破り臣民とした、399年百済が倭と和通、高句麗王平壌行軍、新羅使者救援要請(倭人国境侵入)、400年高句麗5万軍派遣し新羅救援、倭寇潰敗、404年倭が帯方界侵入、王自ら討伐し倭寇崩潰、など記載。
    • 解釈・意義: 解釈論争あるが、一般に4世紀末~5世紀初頭ヤマト(倭)が百済・伽耶と結び大規模軍勢半島派遣し新羅激しく攻撃、時に高句麗勢力圏まで侵攻したが高句麗強力軍事力前に敗北したこと示すと考えられる。碑文は当時ヤマトがかなりの軍事力持ち半島情勢深く介入したこと、高句麗が倭にとって大軍事脅威だったこと物語る貴重史料。倭の五王が宋に軍事指揮権求めた背景にこの高句麗対立あったか。
  • (2) 百済との関係:緊密な同盟と文化流入: ヤマト政権にとって百済は最重要友好国・同盟国。共通脅威高句麗・新羅対抗で緊密関係。軍事同盟(ヤマト援軍派遣等)、経済・文化的交流(ヤマトは百済から鉄資源確保、漢字・儒教[五経博士渡来]・仏教等先進技術文化導入。須恵器、金属加工、土木建築技術も百済系渡来人により多)、人的交流(王族間婚姻、人質交換可能性)。この友好関係は7世紀白村江戦(663年)百済滅亡までヤマト対外関係基軸。
  • (3) 新羅との関係:対立と交流新羅とは主に伽耶地域領有めぐり対立多。広開土王碑文・記紀に倭が新羅攻撃記事多。一方、時期により新羅が倭に朝貢記録や交易・文化交流示す考古学証拠も存在。しかし6世紀新羅が伽耶諸国併合するとヤマトとの対立決定的。
  • (4) 伽耶(加羅・任那)諸国との関係:鉄資源、「任那日本府」問題、滅亡: 半島南端部**伽耶(加羅)**小国群はヤマトに極めて重要地域。
    • 重要性: 鉄資源豊富でヤマトは伽耶通じ鉄素材確保か。大陸・他半島諸国交易中継地としても重要。弥生以来倭と密接人的・文化交流。
    • 「任那日本府(みまなにほんふ)」問題: 『日本書紀』にヤマトが伽耶地域に「任那日本府」出先機関設置し支配かの記述。史実性・実態に諸説(①出先機関説、②外交使節団・駐在地説、③伽耶連合組織説、④『書紀』創作説等)あり結論未定。近年研究ではヤマト直接支配より現地倭系やヤマト関係深い在地勢力通じ外交・軍事的影響力行使試みた見方有力。
    • 滅亡: 伽耶諸国は三国圧迫受け次第に独立失う。ヤマト介入試みるも失敗。532年金官伽耶、562年大伽耶が新羅に併合され伽耶(任那)完全滅亡。ヤマトは半島重要足がかり・影響力失い対新羅関係一層悪化へ。

5. 渡来人と古代日本の国際化

古墳時代のヤマト政権の発展と日本文化の形成を語る上で、大陸や朝鮮半島から海を渡ってきた**「渡来人(とらいじん)」たちの存在は決して無視できません。彼らは、当時の日本列島にとって先進的な知識、技術、そして文化をもたらし、古代日本の社会と文化を飛躍的に発展させ、その後の歴史の方向性に大きな影響を与えました。本章では、この渡来人たちに焦点を当て、彼らがなぜ、いつ、どこからやって来たのか、どのような技術や文化をもたらしたのか、そしてヤマト政権下でどのような役割を果たし、日本社会に溶け込んでいったのか**を探ります。これは、古代日本の「国際化」の側面を理解する上で極めて重要なテーマです。

4世紀末から6世紀にかけて、朝鮮半島の動乱などを背景に、多くの人々が技術や知識を携えて日本列島へ移住してきました。彼らがもたらしたものは、須恵器の生産技術、高度な金属加工技術(鉄器の改良、金工品製作)、馬具生産と馬匹利用(騎馬文化)、土木・建築技術、そして文字(漢字)の使用、儒教や仏教といった学術・思想・宗教など、広範な分野に及びます。これらの導入は、日本の生産力を高め、社会制度を整え、文化を豊かにする上で計り知れない貢献をしました。

早慶をはじめとする難関大学の入試においても、渡来人の問題は古墳時代を理解する上で欠かせない重要事項です。渡来の背景や時期、彼らがもたらした具体的な技術や文化(特に須恵器、金属加工、騎馬文化、文字・儒教・仏教)、そして東漢氏、秦氏、鞍作氏といった主要な渡来系氏族とその役割について、正確な知識が求められます。さらに、渡来文化が一方的に受容されただけでなく、在来の文化と融合しながら古代日本文化が形成されていったという視点や、渡来人がヤマト政権の発展に果たした役割の大きさを理解し、考察する能力が重要となります。

本章では、以下の点を中心に解説を進めます。

  • 渡来の背景・ルート・時期: 朝鮮半島の情勢、ヤマト政権の招請、主な渡来時期(5~6世紀)。
  • 渡来人がもたらした先進技術と文化: 須恵器、金属加工、騎馬文化、土木建築、文字・儒教・仏教など多岐にわたる分野。
  • 渡来系氏族の活躍: 東漢氏、西文氏、秦氏、鞍作氏など、ヤマト政権下で専門性を活かし活躍した氏族とその役割。
  • 渡来文化の受容と影響: 日本社会への貢献と、在来文化との融合による新たな文化形成。

渡来人の存在は、古代日本が決して閉ざされた世界ではなく、常に東アジアの国際的な動向と深く関わりながら発展してきたことを示しています。「外」からの人・モノ・技術・文化の流入が、「内」なる社会・文化と相互作用しながら歴史を動かしていったダイナミズムを理解することは、古代史を複眼的に捉える上で不可欠です。本章を通じて、渡来人が果たした役割の重要性を認識し、古代日本の国際性と文化形成の豊かさについての理解を深めていただければ幸いです。

5.1. 渡来の背景・ルート・時期

  • 背景: 朝鮮半島戦乱(三国抗争、伽耶滅亡等)からの避難・移住(特に百済・伽耶から多か)、政治亡命者。ヤマト政権による高度技術持つ工人積極招請。戦争捕虜。集団移住(秦氏、東漢氏等伝説)。
  • ルート・時期: 主に朝鮮半島南部経由、北部九州、瀬戸内沿岸、畿内へ移住。渡来の波は特に5~6世紀顕著。

5.2. 渡来人がもたらした先進技術と文化

渡来人たちは当時日本になかったか未熟だった様々分野先進知識・技術・文化もたらし古代日本社会・文化豊かにした。

  • 須恵器生産技術: 朝鮮半島陶質土器技術。轆轤成形、窖窯高温焼成で硬質・低吸水性灰色土器(須恵器)大量生産可能に。5世紀初頭頃、陶邑窯跡群(大阪)で伽耶系渡来人により生産開始、急速全国普及し土師器と共に土器文化一変。
  • 金属加工技術: 製鉄・鍛冶(品質向上・量産化)、金工・銀工・銅工(装飾品、馬具、仏像等。金銅製、象嵌技術等)。
  • 馬具生産と馬匹飼育(騎馬文化導入): 4世紀末~5世紀、馬と共に精巧馬具(鞍、鐙、轡等)と製作技術、飼育・調教技術伝来。馬が軍事(騎馬軍団)、交通、運搬に本格利用され(騎馬文化普及)、武人あり方・社会に大影響。(「騎馬民族征服王朝説」は考古学証拠不足等で現在否定。)
  • 土木・建築技術: 城柵構築、寺院建築(瓦葺き、礎石建ち、伽藍配置等)、石積み技術(石工)。
  • 学術・思想・宗教: 漢字(記録、文書、外交)、儒教(政治思想・道徳規範、五経博士通じ伝来)、仏教(6世紀半ば百済から公式伝来、後述。以前に私的信仰可能性)、その他(医学、暦学、易学、陰陽五行思想等)。
  • その他: 鷹狩り技術等も伝来。

5.3. 渡来系氏族の活躍とその役割

渡来人・子孫たちはヤマト政権下で氏として組織され、専門知識・技術活かし政治、経済、文化、軍事等様々分野で重要役割。ヤマト発展に不可欠存在。

  • 東漢氏(やまとのあやうじ): 伝承阿知使主率い多数渡来の漢人系。軍事(特に騎馬)・財政関与。史部として記録・文書行政担当。仏教受容にも早くから関与か。
  • 西文氏(かわちのふみうじ): 百済から王仁が『論語』『千字文』伝えた伝承持つ文人系。書記、文筆、外交文書作成等担当。
  • 秦氏(はたうじ): 伝承弓月君率い百済経由渡来か。養蚕・機織(絹織物生産)技術優れ、土木、財政等にも関与。京都葛野地方等勢力持ち稲荷信仰関連も。
  • 鞍作氏(くらつくりうじ): 馬具製作担当。仏教伝来後、司馬達等や孫**鞍作止利(止利仏師)**は日本初本格仏像(飛鳥寺釈迦如来像、法隆寺金堂釈迦三尊像等)製作で知られる。
  • その他: 陶作部(須恵器)、錦織部、韓鍛冶部(鉄器)、画部等管掌した多渡来系氏族存在(例:葛井氏、船氏、西琳寺氏等)。

5.4. 渡来文化の受容と日本文化への影響

渡来人先進技術・文化はヤマト国力向上、生産力増大、社会制度整備(後律令制基礎)、文化多様化・水準向上、古代日本国際化に大貢献。

ただし「渡来人」は一方的伝達でなく、日本社会溶け込み在来文化と融合・変容させながら新文化共創した存在。子孫は世代重ねヤマト中枢や地方社会担い手として古代日本形成に不可欠役割果たした。

6. 6世紀の動向とヤマト政権の変質:危機と改革の時代

5世紀に巨大古墳の築造などでその権勢を示したヤマト政権ですが、続く6世紀は、内外からの様々な挑戦に直面し、その権力構造や統治体制が大きく揺らぎ、変質していく激動の時代でした。本章では、この「危機と改革の時代」とも言える6世紀の動向に焦点を当て、大王位の継承をめぐる動揺、地方豪族の反乱、緊迫化する朝鮮半島情勢、そして仏教伝来に伴う国内対立といった危機と、それに対応する形で見られた**中央集権化への新たな動き(改革)**について詳しく見てまいります。この時代の理解は、古代国家形成へ向かう日本の大きな転換点を捉える上で不可欠です。

6世紀初頭、大王位の継承問題(継体天皇の擁立)に見られるように、ヤマト政権の基盤は必ずしも盤石ではありませんでした。北部九州での磐井の乱は、地方豪族の強い自立性とヤマト政権の支配の限界を露呈させます。対外的には、朝鮮半島での影響力を失い(任那滅亡)、外交政策の転換を迫られました。さらに国内では、仏教の公伝をきっかけに、新興の蘇我氏と伝統的な物部氏・中臣氏との間で激しい崇仏・排仏論争が繰り広げられ、それは単なる宗教対立を超えた政治的な権力闘争へと発展していきました。

早慶をはじめとする難関大学の入試においても、この6世紀の動向は極めて重要です。**継体天皇の登場、磐井の乱(527-528年)とその意義、任那滅亡、仏教公伝(538年説有力)と崇仏・排仏論争(蘇我氏 vs 物部氏・中臣氏)、蘇我氏の権力確立(丁未の乱、崇峻天皇暗殺)、そして推古朝(推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子)における諸改革(冠位十二階、十七条憲法、遣隋使派遣)**など、個々の出来事とそれに関わる人物、年代、意義を正確に把握しておく必要があります。さらに、これらの出来事が相互にどう関連し、ヤマト政権の変質や中央集権化の動きにどのように繋がっていったのか、その歴史的な文脈を深く理解し、考察する能力が求められます。

本章では、以下の点を中心に解説を進めます。

  • 継体天皇の登場と王権の動揺: 6世紀初頭の大王位継承問題。
  • 磐井の乱(527-528年): 地方豪族の反乱とヤマト政権の地方支配の実態。
  • 朝鮮半島情勢の緊迫化: 任那(伽耶)滅亡と外交政策への影響。
  • 仏教伝来と崇仏・排仏論争: 仏教公伝(538年説)と蘇我氏・物部氏らの対立。
  • 蘇我氏の台頭と推古朝の改革: 丁未の乱、崇峻天皇暗殺を経て、推古・聖徳太子・馬子による中央集権化への動き(冠位十二階、十七条憲法、遣隋使)。

6世紀は、ヤマト政権が様々な内外の危機に直面しながらも、それを乗り越え、より強固な中央集権体制、すなわち後の律令国家へと繋がる道を模索し始めた重要な過渡期でした。本章を通じて、この激動の時代の具体的な出来事とその歴史的意義を学び、古代日本が新たな段階へと移行していく大きな流れを理解するための一助となれば幸いです。

6.1. 継体天皇の登場と王権の動揺:応神王朝の断絶か?

『日本書紀』によれば25代武烈天皇(倭王武=雄略から数代後)後継ぎおらず仁徳系血筋途絶えた(近い状態)とされる(武烈暴君伝承は後継者不在正当化創作可能性高)。

有力豪族(大伴金村、物部麁鹿火、許勢男人ら)は越前にいた応神五世孫とされる男大迹王(おおどのおおきみ)迎え入れ継体天皇(26代)として擁立(6世紀初頭)。

しかし継体天皇は即位後すぐ大和入れず河内・山城等転々、約20年後526年ようやく大和磐余玉穂宮へ。大和在地豪族(特に武烈系勢力)からの強抵抗示唆、当時大王権不安定物語る。継体は前王朝血引く手白香皇女を皇后に迎え王位正統性補強試みた。

6.2. 磐井(いわい)の乱(527-528年):地方豪族の反乱とヤマト政権の対応

継体治世末期、ヤマト地方支配揺るがす大事件発生。北部九州有力豪族筑紫国造磐井がヤマト政権に対し反乱(磐井の乱)。

  • 背景: ヤマト地方支配強化(屯倉設置拡大等)への反発、朝鮮半島出兵負担への不満(特に北部九州豪族)、磐井自身の野心(新羅と連携し地域王権確立試みた可能性)。
  • 経過: 継体天皇が新羅に奪われた伽耶南部失地回復のため近江毛野を半島派遣試みた際、磐井は新羅と通じ妨害、挙兵。ヤマトは物部麁鹿火を将軍派遣。翌528年筑紫国三井郡で激戦末磐井敗死、反乱鎮圧。
  • 結果・意義: ヤマトは九州北部支配権再確認(磐井子葛子は父罪許され代わりに糟屋屯倉献上か)。しかし反乱は国造等地方豪族依然強自立性持ちヤマトに反抗力持っていたこと、ヤマト地方支配盤石でなかったこと示す。同時にヤマトが反乱鎮圧する軍事力・統率力持っていたことも示す。磐井墓とされる岩戸山古墳(福岡)は北部九州最大級前方後円墳、周囲に石人石馬多数立てられ権勢大きさ物語る。

6.3. 朝鮮半島情勢の緊迫化:任那滅亡と外交政策の転換

6世紀通じ半島三国抗争激化、ヤマト外交政策に大影響。

  • 任那(伽耶)滅亡: 新羅勢力拡大と百済対立の中、伽耶諸国次々独立失う。ヤマト介入試みるも失敗。532年金官伽耶、562年大伽耶が新羅に滅ぼされ伽耶(任那)完全消滅。
  • 外交政策への影響: 伽耶滅亡でヤマトは半島重要足がかり・鉄資源供給源失う。新羅との対立関係決定的、一方同じく新羅対立する百済との同盟関係一層強化へ。百済から文化・技術導入もこの関係背景にさらに進展。

6.4. 仏教伝来と崇仏・排仏論争

6世紀半ば、ヤマト政権あり方に大影響与える仏教が百済から公式伝来。

  • (1) 公伝経緯と年代:
    • 経緯: 『日本書紀』によれば百済聖明王が対新羅戦倭国援軍期待し、欽明天皇に対し釈迦金銅仏経論幡蓋等献上し仏教功徳説き信仰勧めたことが公式伝来(仏教公伝)とされる。
    • 年代: 諸説あり。538年(戊午)説(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』基)、552年(壬申)説(『日本書紀』基)。現在複数史料状況から538年説有力か。
    • 公伝以前仏教: ただし公式伝来以前にも司馬達等のような渡来人による私的仏教信仰はすでに行われていたと考えられる。
  • (2) 崇仏・排仏論争:宗教対立と政治闘争: 仏教受容めぐりヤマト政権内有力豪族間で激しい対立(崇仏・排仏論争)。
    • 崇仏派: 大臣蘇我稲目(蘇我馬子父)。渡来人勢力と結びつき強く、仏教の高度文化・思想や国家鎮護力評価し積極受容主張。
    • 排仏派: 大連物部尾輿と祭祀担当中臣鎌子(後鎌足別人)。古来神祇信仰重視し、外国神(蕃神)祀ることは日本神々(国神)怒り招き災厄もたらすとして仏教排斥主張。
    • 論争展開: 欽明天皇判断委ね稲目に仏像祀らせたが、疫病流行すると物部・中臣氏は「国神祟り」として仏像難波堀江に捨てさせ寺焼払ったと伝わる。対立は敏達・用明朝まで続く。
    • 対立本質: 単なる宗教対立でなく、政権内政治主導権争い側面強。新興勢力蘇我氏と伝統的有力氏族物部氏・中臣氏とのヘゲモニー争い、国家進むべき方向性(伝統維持か国際文化・制度導入か)めぐる路線対立。

6.5. 蘇我氏の権力確立と中央集権化への胎動

崇仏・排仏論争は最終的に蘇我氏勝利に終わる。

  • (1) 丁未(ていび)の乱(587年): 用明天皇没後、皇位継承・仏教政策めぐり大臣蘇我馬子と大連物部守屋対立決定的、軍事衝突へ。馬子は諸皇子・諸豪族味方つけ物部守屋滅ぼす(丁未の乱)。物部氏没落、蘇我氏政権内優位確立。
  • (2) 崇峻天皇暗殺(592年): 丁未乱後、馬子は自擁立した崇峻天皇と対立、ついに東漢駒に命じ崇峻暗殺させる前代未聞事件。蘇我馬子権力極めて強大化し大王(天皇)さえ意のまま操ろうとする(排除しうる)状況示す。
  • (3) 推古天皇・聖徳太子による改革: 崇峻暗殺後、馬子は姪で敏達后だった額田部皇女を日本初正式女性天皇とされる**推古天皇(33代、在位592-628)**として擁立。推古甥(用明子)厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とし摂政として政治補佐させた。蘇我馬子・推古天皇・聖徳太子による協調(相互牽制)的統治体制開始(推古朝)。
  • 推古朝時代(7世紀初頭)は、朝鮮半島情勢緊迫化(新羅台頭)や中国隋統一(589年)等国際緊張高まり背景に、ヤマト政権が天皇中心中央集権国家体制確立試みる改革本格化時期。主な改革:
    • 冠位十二階(603年): 氏姓制度限界補うため、家柄(氏姓)とらわれず個人才能・功績応じ人材登用目的の日本初官位制度。徳・仁・礼・信・義・智六徳目大小分け計十二階位設け対応色冠与え朝廷内序列示す。天皇忠誠心高め官僚制基礎築こうとした。
    • 十七条憲法(604年、聖徳太子作とされるが疑問視説も): 天皇仕える官僚(豪族)心構え示した道徳的・政治的訓戒(近代憲法と異なる)。「一曰和以貴…」「二曰篤敬三宝…」「三曰承詔必謹…」等、天皇服従、官僚倫理、仏教・儒教思想(特に「和」精神)盛り込む。天皇中心国家秩序理念的示そうとしたか。
    • 遣隋使派遣: 隋統一新国際情勢対応、隋と対等国交結び先進制度・文化学ぶ目的で小野妹子ら隋派遣(600年[『隋書』記載なし]、607年、608年等)。607年派遣時国書「日出処天子致書日没処天子無恙云々」で隋煬帝不快感示したと『隋書』俀国伝記載。ヤマト政権が隋と対等外交関係意識示す有名エピソード。遣隋使には留学生・学問僧も同行、隋先進政治制度・文化学び後律令国家建設貢献(例:高向玄理、南淵請安、旻等)。
    • 国史編纂: 『日本書紀』によれば620年聖徳太子・蘇我馬子が『天皇記』『国記』等編纂とされる。現存しないがヤマト政権(大王家)支配正統性示す歴史編纂事業この頃開始可能性示唆。

7. まとめ:古墳時代の終焉と律令国家への展望

古墳時代は、前方後円墳体制成立展開通じ、ヤマト政権が列島各地支配広げ初期国家形成進んだ時代だった。氏姓制度、部民制、国造制、屯倉といった支配体制整備され大王中心政治秩序形成された。

同時にこの時代は東アジア世界激動と深く連動、朝鮮半島軍事介入・外交交渉(倭の五王)、渡来人による先進技術・文化導入等通じ国際的視野持つ国家へ成長していく過程でもあった。

しかし6世紀入ると地方豪族反乱(磐井乱)、朝鮮半島影響力喪失(任那滅亡)、仏教伝来めぐる政権内部深刻対立(崇仏・排仏論争、蘇我・物部抗争)といった内外危機直面し、従来の豪族連合的支配体制は限界露呈。

この危機に対応し、より強固国家体制築くため、推古朝において天皇中心中央集権官僚国家(律令国家)への改革が始まった。冠位十二階や十七条憲法、遣隋使派遣等はその第一歩であり、続く大化改新(645年)経て飛鳥・奈良時代の律令国家完成へ繋がっていく。

古墳時代の終焉は、単に巨大古墳築かれなくなっただけでなく、ヤマト政権がその支配体制を大きく変革し新たな国家段階へ移行していく転換点であったと言える。

8. 確認テスト

第1問:一問一答

以下の問いに答えなさい。

  1. 3世紀後半から7世紀初頭頃まで、特定の規格性を持つ巨大な墳墓が盛んに築造された時代を何というか。
  2. 古墳時代を象徴する、円形の主丘に方形の突出部が接続する鍵穴のような形状の墳墓を何というか。
  3. 上記2.の墳墓の周囲や墳丘上に立て並べられた素焼きの土製品を何というか。
  4. 奈良県桜井市にあり、3世紀前半から後半にかけての初期ヤマト政権の中枢(都宮)であった可能性が指摘される広大な遺跡は何か。
  5. 上記4.の遺跡に隣接し、定型的な前方後円墳としては最古級かつ最大級(墳丘長約280m)とされる古墳は何か。
  6. 古墳時代中期の5世紀に、須恵器の生産が開始された大阪府の窯跡群の名称は何か。
  7. 古墳時代後期の6世紀に、墳丘側面に入口を持つ横穴式石室が普及したが、これにより可能となった埋葬方法(行為)は何か。
  8. ヤマト政権の頂点に立つ首長を何と呼んだか。
  9. 埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘と熊本県江田船山古墳出土鉄刀銘に共通して記され、雄略天皇に比定される大王の名(読み)は何か。
  10. ヤマト政権の支配体制の根幹をなす、血縁に基づく集団「氏」と、大王が与える政治的地位を示す称号「姓」からなる身分秩序を何というか。
  11. 臣姓の豪族から任命されることが多かった最高執政官の役職名を答えなさい。
  12. 特定の技術や生産活動でヤマト政権に奉仕した、須恵部や錦織部などの専門技術者集団を何というか。
  13. ヤマト政権が地方支配のために在地有力豪族を任命した役職名を答えなさい。
  14. 大王家が経済的・政治的拠点として列島各地に設置した直轄地・経営拠点を何というか。
  15. 朝鮮半島南端部に存在した小国群で鉄資源が豊富であり日本列島と関係が深かった地域を、日本での呼称も含めて何というか。

第2問:正誤問題

以下の文について正しければ〇誤っていれば×を記しなさい。

  1. 古墳時代は弥生時代の文化基盤とは全く断絶し、突如として出現した文化である。
  2. 纏向遺跡からは弥生土器は出土せず古墳時代の土師器のみが出土している。
  3. 纏向遺跡の出現時期や特徴は『魏志』倭人伝に記された邪馬台国(特に畿内説)と符合する点が多いとされる。
  4. 前方後円墳は畿内でのみ築造され地方へは普及しなかった。
  5. 古墳時代前期の副葬品は武器武具や馬具が中心で武人的性格が強い。
  6. 古墳時代後期には巨大な前方後円墳の築造は衰退し中小規模の円墳や方墳が増加した。
  7. 『古事記』『日本書紀』に記された初期天皇の系譜や治世年は全て史実として確定している。
  8. ヤマト政権は初期から大王による中央集権的な専制国家体制を確立していた。
  9. 古墳時代中期にはヤマト政権の中枢や大王墓の築造地が河内地方に移ったと考えられている。
  10. 埴輪は古墳時代を通じて円筒埴輪のみが作られ形象埴輪は存在しなかった。
  11. 部民は基本的に奴隷身分であり自由は全く認められていなかった。
  12. 国造はヤマト政権から完全に独立した地方の王として君臨していた。

第3問:選択問題

以下の問いに対し最も適切なものを一つ選びなさい。

  1. 古墳時代の時期区分とその特徴に関する組み合わせとして誤っているものはどれか。 ア.前期 ― 竪穴式石室や粘土槨が主流で副葬品に三角縁神獣鏡などが多い。 イ.中期 ― 古墳の巨大化がピークを迎え副葬品に武器武具や馬具が増加する。 ウ.後期 ― 横穴式石室が普及し群集墳が出現するが埴輪は姿を消す。 エ.終末期 ― 前方後円墳がほぼ消滅し八角墳など多様な墳形が出現する。
  2. ヤマト政権の支配体制に関する記述として最も適切なものはどれか。 ア.氏姓制度は血縁に基づかない完全に実力主義の官僚システムであった。 イ.伴造は部民を統率し生産物貢納などを担う役割を果たした。 ウ.屯倉は地方豪族が独自に設置した私的な経営拠点であった。 エ.国造はヤマト政権から派遣された役人であり在地豪族ではなかった。
  3. 5世紀の倭の五王に関する記述として誤っているものはどれか。 ア.『宋書』倭国伝に讃珍済興武の五王が遣使した記録が残る。 イ.倭王武は雄略天皇に比定されることが確実視されている。 ウ.遣使の目的は主に中国皇帝から仏教経典を授与されることにあった。 エ.朝鮮半島南部諸国の軍事指揮権を認めさせようとした。
  4. 高句麗の広開土王碑文に関する記述として適切なものはどれか。 ア.5世紀末に倭国で建立され倭の五王の功績を称えている。 イ.倭が新羅百済を臣民としたが4世紀末に高句麗に大敗したことなどが記されている。 ウ.当時の倭と高句麗が友好的な同盟関係にあったことを示している。 エ.任那日本府が伽耶地域に設置されていたことを証明する唯一の史料である。
  5. 渡来人が古墳時代の日本にもたらした技術や文化として適切でないものはどれか。 ア.須恵器の生産技術 イ.仏教や儒教などの思想宗教 ウ.鉄製農具の製作技術 エ.前方後円墳の設計思想

第4問:記述問題

  1. ヤマト政権の支配体制において有力豪族が政権運営に関与したことを示す制度や役職名を挙げ(例:大臣大連制)、それがどのような性格を持つ政権であったと考えられるか説明しなさい。(70字程度)
  2. 古墳時代中期に副葬品の内容が大きく変化した(銅鏡減少武器武具馬具増加)。この変化は何を反映していると考えられるか簡潔に述べなさい。(60字程度)
  3. 「任那日本府」について『日本書紀』の記述内容と現在の有力な見解(実態に関する説)を簡潔に説明しなさい。(70字程度)
  4. 6世紀半ばの仏教公伝をめぐる蘇我氏と物部氏の対立(崇仏排仏論争)についてそれぞれの主張と対立の背景(政治的側面)を説明しなさい。(80字程度)
  5. 推古朝で行われた改革のうち冠位十二階と十七条憲法についてそれぞれの目的と内容を簡潔に説明しなさい。(100字程度)
解答例

第1問:一問一答

  1. 古墳時代(こふんじだい)
  2. 前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)
  3. 埴輪(はにわ)
  4. 纏向遺跡(まきむくいせき)
  5. 箸墓古墳(はしはかこふん)
  6. 陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん)
  7. 追葬(ついそう)
  8. 大王(おおきみ)
  9. ワカタケル(獲加多支鹵)
  10. 氏姓制度(しせいせいど)
  11. 大臣(おおおみ)
  12. 品部(しなべ ともべ)(職業部)
  13. 国造(くにのみやつこ)
  14. 屯倉(みやけ)
  15. 伽耶(加羅) 任那(みまな)

第2問:正誤問題

  1. ×(弥生時代の基盤の上に成り立っている)
  2. ×(列島各地の土器が出土している)
  3. ×(列島各地に広まった)
  4. ×(呪術的司祭的性格が強い)
  5. ×(初期天皇の実在性には疑問が多く陵墓比定も不確か)
  6. ×(有力豪族の連合政権的性格が強かった)
  7. ×(形象埴輪も中期以降多様化)
  8. ×(半自由民的だが奴隷とは異なる)
  9. ×(ヤマト政権に任命され従属する側面もあった)

第3問:選択問題

  1. ウ(埴輪は古墳時代を通じて存在し後期も多様化)
  2. ウ(朝鮮半島での軍事的優位性確保などが主目的)
  3. エ(前方後円墳は日本列島独自の墳形)

第4問:記述問題

  1. 大臣大連制など有力豪族が政権中枢を担った。大王を中心としつつも有力豪族が連合して運営する連合政権的性格が強い。(69字)
  2. 被葬者(大王豪族)の性格が従来の司祭者的なものから武人的軍事的なものへと変化したことを反映していると考えられる。(60字)
  3. 書紀はヤマトが伽耶に置いた機関と記すが実態は不明。近年は倭系在地勢力や外交使節拠点などヤマト直接支配ではないとする見方が有力。(77字)
  4. 蘇我氏は受容物部氏は排斥を主張。背景には新興の蘇我氏と伝統的な物部氏との政権主導権をめぐる政治闘争があった。(73字)
  5. 冠位十二階は氏姓によらず才能功績で人材登用する官位制度。十七条憲法は官僚へ天皇中心の政治道徳的規範を示した。(68字)
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