第一章 ヤマト政権の胎動と古墳文化の黎明:前方後円墳体制の始動
水稲農耕基盤の弥生時代、日本列島社会は根底から変容した。安定した食料生産は定住化と人口増を促し、各地に「ムラ」から「クニ」へ発展する政治的まとまりが生まれた。しかし弥生後期(1~3世紀)、農耕社会は新たな段階へ移行。生産力向上は余剰と富の蓄積を生み、階層分化を加速させた。同時に、資源獲得を巡る地域間競争は激化し、中国史書が記す「倭国大乱」と呼ばれる広範な戦乱の時代を迎える。この状況下、「クニ」は合従連衡を繰り返し、より強力な政治統合体を模索。北部九州の奴国や伊都国の繁栄、所在論争が続く邪馬台国連合の出現はその胎動を示した。
この弥生後期社会変動を背景に、3世紀中頃から後半、日本列島史は大きな画期、古墳時代(こふんじだい)を迎える。時代区分は、古墳、特に前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)(前方部方形、後円部円形の鍵穴形状巨大墳墓)が、畿内(奈良盆地中心)の**ヤマト政権(大和政権、ヤマト王権)**最高首長・**大王(おおきみ)から列島各地の有力豪族(ごうぞく、地域首長層)**まで共通墓制として選択され、広範かつ長期(一般的に3世紀中頃~7世紀初頭頃)に築造され続けたことに由来する。
前方後円墳の出現と急速な広まりは、単なる墓制・葬送儀礼変化ではない。弥生時代の地域政治勢力分立・競合から、畿内ヤマト政権を中核とする新政治秩序が列島規模で形成・展開し始めたことを象徴する重要指標である。この、前方後円墳築造・共有を通じて形成された政治・社会的ネットワークやイデオロギー的秩序は**「前方後円墳体制」**と呼ばれ、後の律令国家へ繋がる古代統一国家形成の礎となった。古墳時代は、弥生時代の社会・文化基盤の上に、ヤマト政権権力確立・拡大、社会構造複雑化、階層化深化、東アジア世界との関係深化の中で、日本独自の古代国家・文化が形成された時代と定義できる。
本章では、古墳時代の曙、すなわちヤマト政権が登場し前方後円墳体制が始動する3世紀後半~4世紀末頃(考古学的古墳時代前期)に焦点を当てる。弥生から古墳への移行期の連続性・非連続性を整理し画期を明確化。初期ヤマト政権中枢、あるいは邪馬台国有力候補地とされる纏向(まきむく)遺跡の実像に迫る。前方後円墳出現と歴史的意義、前期古墳構造(墳丘、埋葬施設、埴輪等)や副葬品(銅鏡、玉類、石製品、鉄器等)を検討。これら考古学・文献学成果から、初期ヤマト政権権力構造、当時の社会・生活・信仰を、最新研究動向を踏まえ多角的に掘り下げる。この時代の理解は、後の日本の国家・社会形成、現代日本文化基層考察に不可欠な出発点となる。
1. 古墳時代の画期と弥生時代からの連続性
古墳時代開始は重要転換点だが、過去との完全な断絶ではない。弥生後期に醸成された社会・経済・技術基盤上に新政治・社会秩序が構築されるプロセスと捉えるべきである。その「画期性」「連続性」を具体的に見る。
1.1. 時代区分の指標:前方後円墳体制の出現とその画期性
古墳時代を弥生時代から明確に区分する最大指標は、特定設計思想・規格性に基づく前方後円墳出現と、それが単なる墓制を超え、畿内ヤマト政権中心の**列島規模政治秩序(前方後円墳体制)**シンボルとして機能した点にある。
弥生後期にも方形周溝墓や大型墳丘墓(岡山・楯築墳丘墓、奈良・纏向石塚古墳等)は築造されたが、3世紀中頃以降出現の定型的前方後円墳は以下の点で弥生墳丘墓と一線を画す明確な画期性を持つ。
- 巨大規模と厳格な規格性: 全長100m超は珍しくなく、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)は約486mに達し弥生墳丘墓と比較にならない。形状の規格性も重要で、基本プラン共有だけでなく、各部比率、形状、**段築(だんちく)**数などに地域・時期超えた一定の規格性が認められ、共通設計原理・思想・伝達システムの存在を強く示唆。前方後円墳が圧倒的主流を占めた事実は、この墓制の政治的・イデオロギー的意味合いの強さを示す。
- 高度な計画性と土木技術: 巨大規格墳墓築造には精緻設計(共有知識体系)と正確測量技術(水盛、規矩術)が不可欠。膨大土砂を計画的に運び、**版築(はんちく)に近い工法で多段に築き上げ、斜面を葺石(ふきいし)で覆い、周囲に幅広の濠(周濠(しゅうごう))**を掘削するなど高度土木技術が動員された。実現には専門工人集団と、膨大労働力を計画的に動員・管理できる強力な政治権力(ヤマト政権)が必要だった。
- 共通の葬送儀礼体系: 前方後円墳には埋葬施設、副葬品、儀礼に共通性が見られる。埋葬施設は前期に墳頂部**竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)や粘土槨(ねんどかく)が主流で基本的に追葬を想定しない。副葬品は三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)等銅鏡、ヒスイ・碧玉製玉類、石製腕飾り(石釧(いしくしろ)、車輪石(しゃりんせき)、鍬形石(くわがたいし))、鉄製刀剣・武器類等が共通し特定の組み合わせ傾向。墳丘に円筒埴輪(えんとうはにわ)・朝顔形埴輪(あさがおがたはにわ)**が立て並べられ聖域を区画し儀礼空間を荘厳化。これらは被葬者層(大王・有力豪族)間で共通の死生観・権力観・葬送儀礼共有を示す。
- 広域的かつ急速な普及(前方後円墳体制): 最古級(箸墓古墳等)が3世紀中頃~後半畿内に出現後、4世紀には東北南部~九州南部へ急速普及。単なる墓様式流行でなく、畿内ヤマト政権が各地有力豪族と政治的関係を結び、前方後円墳築造を関係性承認・表明シンボル(イデオロギー装置)として利用した結果と考えられる。前方後円墳築造はヤマト政権中心の広域政治ネットワーク(前方後円墳体制)参加、またはその中での地位を示す意味を持った。この前方後円墳体制成立・展開こそ古墳時代の最重要画期性を示す。
1.2. 弥生時代後期の社会変動と古墳出現の背景
3世紀中頃~後半の前方後円墳体制成立背景には、弥生後期の深刻な社会変動とそこから生じた政治・社会的要請があった。
1.2.1. 地域間格差拡大と「クニ」統合・競合激化
弥生水稲農耕は地域条件・技術格差で均質に発展せず。鉄資源や大陸・半島交易ルート確保が地域勢力盛衰を左右。北部九州、瀬戸内、畿内等有利地域では富・人口蓄積し強力首長層登場。
経済格差拡大と資源・交易競争は「クニ」間対立を激化させた。中国史書が記す**「倭国大乱」(2世紀後半)はその混乱象徴。大乱で多「クニ」が滅亡・統合され、1世紀頃「百余国」あった倭国は、3世紀前半には邪馬台国中心「三十余国」連合体に集約されたとされる。
統合の中で強力な軍事力・経済基盤・祭祀権威持つ有力「クニ」が地域連合形成。北部九州奴国の後漢金印受領(57年)、倭国王帥升の後漢遣使(107年)、3世紀前半邪馬台国女王卑弥呼**の魏遣使(「親魏倭王」称号・金印・銅鏡百枚等受領)は、突出政治勢力登場と中国王朝外交での権威確立を示す。邪馬台国連合はこの地域統合一頂点だが、所在地は畿内説・九州説で議論続く。
1.2.2. 墳丘墓の大型化と地域的多様性 – 前方後円墳前夜
弥生後期(特に2~3世紀初頭)、有力首長権力増大を反映し墳丘墓が大型化、地域ごとに特色ある展開。これらは前方後円墳出現の「前段階」「素地」として重要。
- 北部九州: 甕棺墓地に隣接し特定個人の大型墓出現。福岡・三雲南小路遺跡等「王墓」から前漢鏡30面以上、青銅武器、ガラス璧、勾玉等副葬、強大権力と大陸交流示す。形態は異なるが大型化と副葬品豊富さは古墳時代の先駆。
- 瀬戸内(吉備): 弥生終末期(2世紀後半~3世紀初頭)に楯築墳丘墓(倉敷市)出現。直径約80m円丘に方形突出部付く独特形状。墳丘上に巨石、特殊器台・特殊壺(後の埴輪起源)が並べられた。当時の吉備強大政治勢力示し、前方後円墳形態・儀礼祖形の一つとして重要視。
- 出雲: 弥生後期~古墳初頭に四隅突出型墳丘墓という独特方形墳築造。島根・西谷墳丘墓群が代表、大量ガラス玉・鉄器出土。出雲独自文化圏・政治権力示唆。
- 畿内: 後のヤマト政権中心地・奈良盆地でも大型墳丘墓出現。纏向石塚古墳(桜井市、3世紀初頭~前半)は墳長約96m、前方後円形で葺石持ち、後前方後円墳へ繋がる要素が見られる。同遺跡内の矢塚古墳(墳長約96m)、東田大塚古墳(墳長約96m)も初期前方後円墳(または前段階)とされる。前方後円墳体制確立直前畿内にも、大型墳墓築造しうる有力首長が複数存在し競合したこと示す。
これら弥生後期大型墳丘墓は各地域政治権力成長・階層化示すが、形状・葬送儀礼には地域多様性強く、前方後円墳のような明確規格性・列島規模共有性は見られず、地域首長権顕示にとどまる段階。前方後円墳出現はこれら地域伝統を乗り越え、あるいは統合・再編し、新政治的・イデオロギー的段階へ移行したことを意味する。
1.2.3. 弥生文化から古墳文化への連続性と非連続性
古墳文化と弥生文化の関係は、明確な連続性と非連続性がある。
- 連続性: 生業(水稲農耕中心)、技術(鉄器、土師器(弥生土器系譜)、石器・木器)、集落・住居(竪穴住居)、社会構造(階層分化)、信仰(自然・祖霊崇拝)など多くは弥生時代に形成・継承された。
- 非連続性(画期): 一方、古墳時代には決定的な変化(画期)が存在。
- 前方後円墳出現・普及: 統一設計思想の巨大墳墓出現と列島規模政治秩序(前方後円墳体制)シンボル機能。
- 新葬送儀礼体系: 特有副葬品(特に三角縁神獣鏡等威信財大量副葬)、埴輪使用等新葬送儀礼・観念体系確立。
- 高度土木技術導入・共有: 巨大古墳築造可能にした計画性、測量・土木技術、大規模労働力動員の実現と広域共有。
- ヤマト政権確立と広域支配: 畿内突出政治権力(初期ヤマト政権)形成と前方後円墳体制通じた列島各地有力豪族統合・序列化の広域政治ネットワーク構築。
弥生からの連続性土台としつつ画期的変化をもたらした原動力は、畿内新政治勢力(初期ヤマト政権)の急速台頭である。この勢力が前方後円墳を採用(創出)し、権力正統性・優位性シンボルとして、各地有力豪族との政治連携ツールとして戦略的に用い急速に広域拡散させたと見られる。
背景には3世紀前半東アジア情勢変化(後漢滅亡と三国時代、公孫氏動向、魏による公孫氏滅亡(238年)等)も影響した可能性。国際環境変化が列島内政治勢力再編や新統一権力形成促した可能性は高い。前方後円墳体制成立は、これら内的・外的要因複合作用の結果と言える。
2. 初期ヤマト政権の中枢:纏向遺跡 – 邪馬台国の影を追って
古墳時代開始と初期ヤマト政権成立考察上、現在考古学的に最重要視されるのが奈良盆地東南部・三輪山西麓の纏向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)。弥生から古墳への移行期(3世紀前半)に突如出現し4世紀初頭頃まで存続した巨大複合遺跡で、初期ヤマト政権誕生地、あるいは『魏志』倭人伝の邪馬台国都の最有力候補地として注目される。
2.1. 遺跡概要と調査史
東西約2km、南北約1.5km(約3平方km)に及ぶ。古くから知られ、箸墓古墳等大型古墳存在で注目されたが、全体重要性認識と継続的発掘調査本格化は1971年から。当初大規模集落程度と見られたが、計画的造営の大規模政治・祭祀センターと判明。特に1990年代以降大型建物跡、列島各地搬入土器、多様な祭祀関連遺物発見、2009年画期的大型建物群検出で重要性飛躍的に高まる。現在も発掘継続中。
2.2. 広大な遺跡範囲と計画的構造 – 都市的空間の萌芽
纏向遺跡は広大さと計画性が際立つ。大規模防御施設(濠、土塁)は(現段階では)未確認。一方、計画的施設・構造が見られる。
- 運河状巨大水路: 遺跡中央部南北貫通、幅約5m、深さ約1m人工水路(旧纏向川利用・改修か)。護岸矢板用い直線形状から、物資輸送(舟運)、灌漑・排水、区画等目的で計画整備の可能性。
- 計画的道路・区画: 水路と並行・直交する直線的道路状遺構や区画溝も見つかり、遺跡全体が何らかの都市計画に基づき整備示唆。
- 機能分化可能性: 居住域、祭祀域、工房域、墓域等がある程度分化配置された可能性指摘。大型建物群や主要祭祀遺構は中心エリア集中傾向。
これらから纏向遺跡は自然発生的集落でなく、3世紀前半ヤマト政権(または前身)により意図的に造営された、政治・祭祀・経済中枢機能を備えた日本列島最初期の**「都市的」空間**と考えられる。防御施設が顕著でない点は、当時の政権の軍事的自信か祭祀的権威統合のためか解釈が分かれる。
2.3. 列島各地からの搬入土器とその意味 – ヒト・モノ・情報の集積地
纏向出土土器(主に土師器)組成は極めて特異。全体の約15~20%(多い地点で30%近く)が畿内以外で作られ持ち込まれた搬入土器。搬入元は東海(伊勢湾岸、濃尾平野)、関東、北陸、山陰、吉備、河内、近江、丹後など当時の日本の主要地域ほぼ網羅。特に東海系土器(松河戸式、廻間式等)割合高い。
これほど多様な地域土器の高比率集中出土例は弥生時代に見られない纏向遺跡固有現象。以下を強く示唆。
- 広域的人的交流拠点: 列島各地から多様な人々が集結(政治交渉、同盟確認、共同祭祀、交易、移住等)。
- 物流・情報ネットワークハブ: 纏向は列島各地結ぶ物資・情報流通の中心(ハブ)機能。
- 連合政権中枢性格: 遺跡形成・維持に畿内勢力だけでなく列島各地有力地域勢力が深く関与し、纏向がそれらを束ねる連合政権(初期ヤマト政権)中枢的性格持った可能性高い。
特に東海系土器多さは、初期ヤマト政権成立過程で東海勢力が重要役割果たした可能性示唆。搬入土器は纏向が単なる畿内拠点ではなく、3世紀に列島規模の政治・社会的中心として機能し始めたことを物語る最重要証拠の一つ。
2.4. 大型建物群と祭祀遺構 – 王宮か、祭殿か
纏向遺跡中心部から当時最大級の大型掘立柱建物跡が複数発見され、政権中枢施設存在を裏付ける。
- 3世紀前半建物群: 初期段階にも柱穴整然と並ぶ大型建物跡あり、初期政庁・祭殿のような施設存在か。
- 3世紀中頃大型建物群(2009年発見): 特に画期的。東西棟(桁行約19.2m×梁行約6.9m以上)、南北棟、脇殿等少なくとも4棟が、一定軸線に沿い計画配置された複合施設。最大東西棟は大規模入母屋造等荘重建物と推定、床面積約230㎡達した可能性も。当時突出規模で大王宮殿(王宮)あるいは**政務・重要儀式行う殿堂(政庁、祭殿)**の可能性極めて高い。王権中枢施設存在を強く示唆。
遺跡内から祭祀関連と考えられる特殊遺物・遺構も多数出土し、纏向が宗教的・祭祀的中心地としても極めて重要だったことを示す。
- 大量の桃の種: 数千個の桃核が特定場所(井戸、土坑)から集中出土。古代中国で邪気払い・不老長寿霊力持つとされ、何らかの大規模祭祀儀礼で供物・呪具として大量使用か。
- 多様な祭祀関連遺物: 弧文円板、鏡・玉・杵等模造品、鳥形木製品、特殊土器(宮山型特殊器台等)、木製仮面等。
- 動物儀礼痕跡: 牛、猪、鹿等動物骨出土から供犠・占い等儀礼可能性。
- 三輪山との関係: 遺跡東方聳える三輪山は古来神奈備として信仰対象、大神神社起源とされる。纏向の活発な祭祀活動も三輪山信仰と密接関連可能性。
これら遺構・遺物は纏向が政治・経済中心と同時に、列島各地勢力を精神的に統合する卓越したイデオロギー的・宗教的中心としても機能したことを強く示唆。
2.5. 邪馬台国畿内説との関連 – 最有力候補地としての纏向
纏向遺跡の際立った特徴(①出現・繁栄時期(3世紀前半~4世紀初頭)、②広域交流示す搬入土器、③計画的都市構造・巨大水路、④王宮等思わせる大型建物群、⑤活発な祭祀活動、⑥近接地の箸墓古墳等巨大古墳群築造開始)は、『魏志』倭人伝の邪馬台国とその女王卑弥呼に関する記述(「宮室・楼観・城柵、厳かに設け」、「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」、「市有りて交易す」、魏との外交、卑弥呼死後「大いに冢を作る。径百余歩」等)と多く符合・類似。
このため纏向遺跡は邪馬台国所在地論争で畿内説最有力候補地として広く認知されている。特に邪馬台国遣使(239年~)や卑弥呼死去(248年頃)と、纏向最盛期・箸墓古墳推定築造年代(3世紀中頃~後半)近接は畿内説の強力論拠とされる。纏向出土土器編年も『魏志』倭人伝年代と矛盾しない。
しかし断定には課題・反論もある。
- 「城柵」不在: 『魏志』倭人伝記述に対し明確防御施設未確認(解釈・未発見可能性も)。
- 道程記事との整合性: 道程記事(方角・距離)は文字通り解釈で畿内当てはめ困難多く九州説有利意見も根強い(道程記事解釈自体多様)。
- 決定的文字資料・遺物欠如: 邪馬台国・卑弥呼名記す文字資料や「親魏倭王」金印等未発見。
これらから纏向=邪馬台国都に慎重意見や、別初期ヤマト政権中枢とする見解も。九州説論者は纏向重要性認めつつ邪馬台国と別政治勢力と捉える見方も。
とはいえ邪馬台国論争決着は別にしても、纏向遺跡が3世紀日本列島で比類ない規模・機能持つ政治・文化センターで、前方後円墳体制生み出す母体、すなわち初期ヤマト政権(または前身)形成の核心的役割果たしたことは考古学的にほぼ疑いない。この遺跡解明は日本の古代国家形成起源探る最重要鍵を握る。
3. 前方後円墳の出現と初期古墳群 – 巨大モニュメントの誕生
纏向遺跡出現・繁栄とほぼ同時期(3世紀中頃)、周辺地域(奈良盆地東南部)で日本列島の景観を一変させ新時代到来告げる画期的墳墓・前方後円墳が築造され始める。単なる墓制変化でなく新政治権力誕生告げる巨大モニュメント出現だった。
3.1. 前方後円墳の定義と起源論
前方後円墳は、円形主丘・後円部(埋葬施設主体)と、そこから前方へ方形(台形)に突き出す前方部が連結した鍵穴状墳墓。規模数十~数百m、段築・葺石施され周囲に濠が巡る。
起源は弥生墳丘墓からの発展説が有力。吉備・楯築墳丘墓(円丘+方形突出部)や畿内・纏向石塚古墳(前方後円形、葺石)等、弥生終末期大型墳丘墓の形態・要素受け継ぎつつ、畿内で整形・規格化、段築・埴輪列等新要素加え3世紀中頃に定型前方後円墳へ発展したとする考え。弥生墳丘墓突出部の祭祀空間性格が前方部へ、埋葬主体部が後円部へ発展したプロセス想定される。
「前方後円」形状選択・共有理由は複合的要因考えられる。
- 宇宙観・死生観表現説: 後円部=天・死者世界、前方部=地・生者世界(祭祀空間)象徴。
- 葬送儀礼空間説: 前方部が埋葬・追慕・継承儀礼行う祭壇・儀式空間機能。
- 政治シンボル説: 統一形態採用・共有自体がヤマト政権中心政治秩序(前方後円墳体制)参加と序列示すシンボル機能。
設計思想・高度築造技術が短期間確立・共有・伝播したメカニズムは依然大きな謎で初期ヤマト政権形成プロセス・権力性格解明の核心。
3.2. 最古級の前方後円墳:箸墓(はしはか)古墳 – 卑弥呼の墓か?
定型前方後円墳中、築造年代最古(3世紀中頃~後半)かつ初期で突出巨大とされるのが、纏向遺跡隣接の箸墓古墳(奈良県桜井市)。前方後円墳体制出発点示す画期的モニュメント。
- 規模・形状: 墳丘長約280m、後円部径約160m、後円部高約30m、前方部長約120m壮大。前方部が撥状に大開きする出現期特徴。多段築(後円部5段、前方部4段推定)、全面葺石、周濠(幅約10m)。墳丘・周濠から**特殊器台・特殊壺(または最初期円筒埴輪)**破片多数出土。
- 築造年代論争: 出土土器から従来3世紀末~4世紀初頭説。しかし近年AMS炭素14年代測定成果(周濠木製品、堆積有機物、特殊器台付着炭化物等分析)で**3世紀中頃~後半(西暦240~280年頃)**へ遡る可能性高まる。これは『魏志』倭人伝女王卑弥呼活動時期(~248年頃没)と重なり注目。ただし年代測定結果解釈・較正幅、異論も存在し年代決定にはなお議論あり。
- 被葬者と伝承:
- 宮内庁治定(倭迹迹日百襲姫命): 宮内庁により第7代孝霊天皇皇女で崇神天皇代巫女的存在倭迹迹日百襲姫命の墓(大市墓)治定。『日本書紀』崇神紀に、姫が三輪山神妻となるも正体(蛇)見て驚き箸で陰部突き死に「箸墓」と呼ばれた特異伝説。被葬者巫女的性格、三輪山信仰、古墳名由来示唆(史実性・「箸」解釈諸説)。
- 卑弥呼の墓説: 上述築造年代(3世紀中頃~後半)と『魏志』倭人伝記述(卑弥呼死後「大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人」)関連から卑弥呼墓説有力視(邪馬台国畿内説主要論拠)。「径百余歩」(直径120~140m程度)は墳長約280mと異なるが、誇張表現可能性や後円部径(約160m)近さ、「徇葬」未確認等考慮すれば可能性否定できず。もし卑弥呼墓なら畿内説強力考古学的証拠となるが未確定。
- 歴史的意義: 築造年代古さ、突出巨大さ、定型的形態から、前方後円墳新墓制出現画するモニュメントであり、畿内で従来の首長連合超越強力王権(初期ヤマト政権初代大王級)誕生・確立象徴。列島各地前方後円墳築造開始の直接契機(モデル)となったと考えられる。
3.3. 纏向古墳群の諸古墳 – 初代大王をめぐる首長たち
箸墓古墳周辺(桜井市・天理市南部)には、箸墓とほぼ同時期(3世紀中頃~後半)か先行期(3世紀前半)築造と考えられる比較的大型前方後円墳(または前方後円形墳丘墓)が複数存在(纏向古墳群)。前方後円墳体制成立過程、初期ヤマト政権形成期政治状況知る上で重要。
- ホケノ山古墳: 墳長約80m前方後円墳。後円部中央竪穴式石室(最古級可能性)から画文帯神獣鏡等多数銅鏡(60面以上)、鉄製刀剣・槍・鏃等大量出土。木棺材AMS炭素14年代測定で西暦220~260年頃結果、箸墓先行可能性高い。ヤマト政権成立前夜有力首長か。
- 纏向石塚古墳: 墳長約96m前方後円形墳丘墓(3世紀初頭~前半)。葺石持つ。弥生から古墳への過渡的形態。
- 矢塚古墳: 墳長約96m前方後円墳(3世紀中頃~後半)。
- 東田大塚古墳: 墳長約96m前方後円墳(3世紀後半)。副葬品に石釧・鍬形石・車輪石等石製腕飾類。
これら纏向古墳群は墳長100m前後と大規模だが墳長約280m箸墓古墳とは明確格差。3世紀纏向地域に複数有力首長併存し大型墳墓築造も、中から箸墓被葬者(初代大王級)が突出存在となりヤマト政権確立していった首長連合から超越的王権への移行プロセス反映の可能性。副葬品に銅鏡(呪術権威)・鉄製武器(軍事権力)多く、当時の首長が祭祀的・軍事的役割併せ持ったこと示す。
3.4. 古墳時代前期初頭の画期性 – 新時代の幕開け
纏向遺跡政治・祭祀センター出現と箸墓古墳頂点の纏向古墳群形成(3世紀中頃~後半)は、弥生からの連続性保ちつつも以下の点で明確な画期示し、古墳時代という新時代の幕開けを告げた。
- 政治的中枢形成: 列島各地と広範に結ばれ計画造営された政治・祭祀センター(纏向遺跡)が畿内出現。
- 巨大墳墓規格化と共有モデル提示: 特定設計思想・規格性持つ巨大墳墓(前方後円墳、特に箸墓古墳)出現し、その後の列島各地への急速普及の出発点(規範モデル)に。
- 超越的大王権力確立: 箸墓古墳突出規模象徴の、従来の地域首長と隔絶した広域影響力持つ強力王権(大王権)誕生。
- 新葬送儀礼・イデオロギー導入: 銅鏡大量副葬や埴輪への移行といった新葬送儀礼とそれを支える死生観・権力観(イデオロギー)導入・共有開始。
これら要素が相互連関し、日本列島は弥生時代「クニ」分立・競合段階からヤマト政権中心統一政治秩序(前方後円墳体制)形成される古墳時代へ移行した。
4. 古墳文化の地域的展開(前期:4世紀) – 前方後円墳体制の確立と拡散
3世紀中頃~後半畿内誕生の前方後円墳は4世紀に入ると急速に列島各地へ広がり、ヤマト政権中心の前方後円墳体制が確立・展開。初期ヤマト政権が影響力拡大し地方有力豪族と多様な政治関係構築したダイナミックな時代。
4.1. 前方後円墳体制の確立と全国への拡散
- 拡散スピードと地理的パターン: 4世紀前半には畿内だけでなく東海、北陸、関東、山陰、瀬戸内(吉備)、北部九州等広範囲で前方後円墳築造開始。特に河川流域・沿岸部等水上交通要衝沿う分布傾向顕著、情報伝達が水系ネットワークで効率的に行われたこと示唆。4世紀中頃までには東北南部~九州南部(一部除く)まで前方後円墳文化圏形成。
- 前方後円墳規格性と地域差 – ヤマト政権と地方豪族関係性: 列島各地前期前方後円墳は多くの場合、畿内古墳と共通設計原理(撥形前方部、段築、葺石、竪穴式石室・粘土槨、円筒埴輪列等)や副葬品(特に三角縁神獣鏡や仿製鏡(ぼうせいきょう))を共有。畿内ヤマト政権から設計情報や威信財(いしんざい)(銅鏡、玉類、石製品等)が各地有力豪族へ配布・分与され、地方豪族がそれを受け入れ築造したことを強く示唆。ヤマト政権はこれらを通じ地方豪族を政治秩序に組み込もうとした。しかし各地古墳には墳丘規模・形状、副葬品組合せに明確な地域差・階層差。畿内200m超に対し地方100m前後が最大級多。副葬鏡種類・数や地域独自遺物(吉備特殊器台・壺等)伴う場合も。差異はヤマト政権と地方豪族関係が一様でなく、同盟、協力、一定自立性保持など多様形態存在、関係性・序列が古墳に反映(可視化)された可能性示す。前方後円墳体制はヤマト政権一方的支配でなく、共通シンボルで結びついた階層性持つ広域政治ネットワークであり、ヤマト政権と地方豪族相互作用の中で形成・維持された秩序と考えられる。
4.2. 畿内における前期古墳群の展開 – 大王墓の変遷
ヤマト政権中枢畿内(奈良盆地)では4世紀通じ大規模前方後円墳(主に大王墓級)築造続くが中心地は時期により移動。政権内部権力構造変化や墓域選定理由示唆し注目。
- 三輪山麓から大和古墳群へ(4世紀前半~中頃): 3世紀後半~4世紀初頭中心地・三輪山麓地域から、4世紀前半~中頃には西方の奈良盆地東南部(天理市南部~桜井市北部)の大和古墳群へ巨大古墳築造中心が移る。200m~300m級巨大前方後円墳含む。渋谷向山古墳(天理市):墳長約300m。伝景行天皇陵。4世紀前半~中頃築造推定。 行燈山古墳(天理市):墳長約242m。伝崇神天皇陵。4世紀中頃築造推定。 西殿塚古墳(天理市):墳長約234m。巨大前方後方墳。伝手白香皇女陵だが4世紀後半推定。
- 佐紀盾列古墳群への移動(4世紀後半~5世紀初頭): 4世紀後半、巨大古墳築造中心はさらに北方奈良盆地北部(奈良市佐紀町周辺)へ移動。佐紀盾列古墳群に4世紀後半~5世紀初頭大王墓級が集中。五社神古墳(奈良市):墳長約267m。伝神功皇后陵。4世紀後半築造推定。佐紀古墳群最大級。 宝来山古墳(奈良市):墳長約227m。伝垂仁天皇陵だが実際は5世紀前半説有力。 ヒシアゲ古墳(奈良市):墳長約219m。伝磐之媛命陵。5世紀前半推定。 ウワナベ古墳(奈良市):墳長約255m。5世紀前半~中頃築造。大王墓級。
この大王墓域移動(三輪山麓→大和古墳群→佐紀盾列古墳群)の意味は諸説。政権内部勢力交代(佐紀古墳群時代は葛城氏関連?)、王統断続・交替、新墓域選択等考えられるが定説なく、前期ヤマト政権大王権力・中枢が固定されず流動的だったこと示唆。
4.3. 地方における前期古墳の様相
畿内以外でも4世紀には各地有力豪族により、ヤマト政権との関係示しつつ自地域権力誇示のため大規模前方後円墳築造。前方後円墳体制が列島規模で機能し各地にヤマト政権パートナー(ライバル)となる地域勢力存在を物語る。
- 吉備(岡山): 弥生以来強力地域勢力、ヤマト政権重要パートナー時に競合相手。前期に畿内に次ぐ規模古墳築造。浦間茶臼山古墳(岡山市):墳長約138m。4世紀前半。多数銅鏡(三角縁神獣鏡含)・武器出土。網浜茶臼山古墳(岡山市):墳長約110m。4世紀後半。墳丘から特殊器台・壺出土、吉備独自葬送儀礼伝統継承示す。
- 出雲(島根): 弥生からの独自文化圏(四隅突出型墳丘墓等)。前方後円墳も築造、前方後方墳多い特徴。大成古墳群(松江市):4世紀代の前方後円墳・前方後方墳混在。
- 毛野(群馬・栃木): 東国最大勢力圏、ヤマト政権東方進出で重要役割。前期後半東国最大級前方後円墳出現。浅間山古墳(高崎市):墳長約171.5m。4世紀後半。多数銅鏡(三角縁神獣鏡3面含)、石製品、武器等出土。前橋天神山古墳(前橋市):墳長約130m。4世紀後半。三角縁神獣鏡・石製品等出土。
- 東海: 比較的早くからヤマト政権影響下入り前方後円墳築造。東之宮古墳(犬山市):墳長約72m。4世紀初頭。三角縁神獣鏡出土。東海地方最古級。断夫山古墳(名古屋市):墳長約151m。東海最大だが築造は5世紀後半~6世紀初頭。
- 北陸: 日本海交易ルート上、畿内と交流。狐塚古墳(加賀市):墳長約63m。4世紀後半。三角縁神獣鏡・碧玉製管玉等出土。
- 関東(毛野以外): 千葉、埼玉等で4世紀後半以降前方後円墳築造開始。姉崎古墳群(市原市)等多数集中。
- 九州: 弥生以来独自文化伝統色濃く、ヤマト政権との関係複雑か。前方後円墳も築造。石塚山古墳(福岡県京都郡):墳長約120m。4世紀前半。三角縁神獣鏡含む大量銅鏡出土。北部九州の初期ヤマト政権との強い結びつき示す。女狭穂塚古墳(西都市):墳長約176m。九州最大だが築造は5世紀。西都原古墳群中心。
これら地方大型前期古墳は、ヤマト政権との政治連携と共に、各地域社会での首長権力確立と広域政治秩序(前方後円墳体制)への組み込み進展を具体的に物語る。
5. 前期古墳の構造と内容 – 古代の技術と信仰の結晶
前期古墳、特に前方後円墳は、築造技術、埋葬施設構造、副葬品内容に共通特徴持ち、当時の社会、技術水準、信仰・世界観を反映する。
5.1. 墳丘構造と築造技術 – 古代の巨大土木プロジェクト
巨大前方後円墳築造は一大土木プロジェクトで、高度計画性、測量・土木技術、膨大労働力組織・管理能力要求。
- 測量・設計技術: 正確な平面・立面形実現のため詳細設計と測量技術(水盛、規矩術)による縄張り設定必要。専門工人集団担当か。
- 盛土、段築、葺石、テラス: 大量土砂を版築に近い工法も用い構築。多段築で階段状荘厳外観。斜面は葺石で覆い崩落防止・美観確保。段間平坦部テラスに埴輪列設置多。
- 埴輪列: 前期古墳裾・テラスに円筒埴輪びっしり配置。①聖域区画結界、②土留め、③葬送儀礼祭具、④被葬者権威誇示等複数機能・意味か。前期後半(4世紀後半頃)朝顔形埴輪も出現。
- 周濠と周堤: 多くの場合1重または複数重濠(周濠)掘削。掘削土は墳丘盛土利用、濠は聖域区画、威容・水鏡効果高めた。濠内外に土手状周堤設けられることも。
これらは前期古墳が単なる墓穴でなく、周到計画、高度技術、膨大労働力(ヤマト政権動員力)結集した王・豪族権力誇示巨大モニュメントだったこと示す。
5.2. 埋葬施設:竪穴式石室と粘土槨 – 死者を守る密閉空間
前期古墳主体部(埋葬施設)は主に墳頂部設置、構造的に追葬前提としない密閉性高いものが主流。被葬者個人権威永続顕彰意図反映か。
- 竪穴式石室: 墳頂から垂直に長方形墓壙掘り、底・四壁に石材積み石室空間構築。棺安置後天井石で塞ぎ粘土・土で覆い埋め戻す。石材隙間粘土目張りで高密閉性。追葬困難、盗掘受けにくく副葬品良好に残る。前期代表的埋葬施設。
- 粘土槨: 墓壙底に棺(遺体直接)置き、周囲・上面厚い粘土塊で完全被覆。石材入手困難地域や竪穴式石室簡略形式として利用。粘土硬化で高密閉性、遺体・有機質副葬品保存良い場合あり。
- 棺:木棺と石棺: 木棺(刳抜式、組合式)と石棺使用。石棺格式高く強大権力者用か。前期石棺地域特色あり、畿内中心西日本は割竹形石棺(凝灰岩製)、東日本は舟形石棺。石棺遠隔地運搬は広域物流・権力存在示す。
- 一棺一主体原則: 竪穴式石室・粘土槨は構造上、基本的に一埋葬施設(一棺)に一人埋葬形態。埋葬後密閉され再開想定されず。古墳が特定個人権力顕示モニュメント性格強く、家族墓・氏族墓的性格希薄だったこと反映か(例外追葬・複数埋葬例も)。
5.3. 副葬品(前期):呪術・司祭的性格 – 首長の力の源泉
前期古墳副葬品は、後の中・後期に武器・武具・馬具等軍事的・実用的遺物増加に対し、銅鏡、玉類、石製品など呪術的・司祭的性格持つ威信財中心が特徴。前期首長(大王・豪族)が武力支配者と同時に祭祀者役割を強く担ったこと示唆。
- 銅鏡: 前期古墳象徴副葬品。権威・呪術力示す最重要アイテム。
- 舶載鏡: 中国大陸(後漢・魏・呉)製作・舶載。前期前半特に三角縁神獣鏡注目。縁断面三角形、背面に神仙・霊獣文様。主に畿内前期古墳から集中的・大量出土、同笵鏡列島各地広く分布。起源(魏帝下賜鏡か日本製仿製鏡か)やヤマト政権が同盟豪族へ配布した「王権シンボル」役割巡り論争続く。他、方格規矩鏡、内行花文鏡、画文帯神獣鏡も重要。
- 仿製鏡: 舶載鏡モデルに日本列島内製作。鋳造技術やや稚拙、文様簡略化・日本的アレンジ多(珠文鏡、直弧文鏡等)。前期後半舶載鏡に代わり大量製作・流通、広範階層古墳からも出土。
- 鏡機能・意味: 光反射から太陽信仰結びつき魔除け力。祭祀道具として神意問い神霊招くため使用か。貴重性から所有自体が富・権力象徴、他者への贈与で政治関係構築・維持する威信財として極めて重要。ヤマト政権は銅鏡配布・分与通じ地方豪族との階層的ネットワーク(前方後円墳体制)築いたと考えられる。
- 玉類: 鏡と並ぶ重要副葬品。装身具・呪術護符・威信財。勾玉、管玉、小玉、棗玉、切子玉等多様形状。材質も硬玉(ヒスイ、特に糸魚川産)、碧玉、メノウ、水晶、滑石、舶載ガラス等多様。組み合わせて首飾り・腕輪に。美しさ・希少性だけでなく、材質・形状に応じ霊力(魔除け、生命力活性化等)持つと信じられた。特にヒスイ勾玉は最高級威信財。
- 碧玉製腕飾類: 前期古墳(特に4世紀代畿内周辺)特徴的石製品。碧玉製特殊形状腕輪状遺物。石釧、車輪石、鍬形石の三種あり「三種の石製腕飾り」とも。実用腕輪でなく祭祀儀礼で司祭者(巫女的存在)が腕にはめた呪具か特定地位・役割示す威信財と考えられ、被葬者司祭者性格の強さ示す。
- 鉄製武器・工具: 鉄製刀剣、槍、鉄鏃等武器や斧、刀子、鑿、ヤリガンナ等工具類も副葬。後時代より量少も、鉄器が支配者にとって軍事力・生産力基盤となる重要資源だったこと示す。鉄素材多くは朝鮮半島輸入依存と考えられ、鉄確保・管理はヤマト政権重要課題。
- 土器: 日常用土師器壺・高坏等供えられることあり。吉備特殊器台・壺や初期埴輪、都月型土器等特殊祭祀用土器出土も。
これら前期古墳副葬品組合せは、被葬者(大王・豪族)が単なる政治・軍事支配者でなく、神々祀り共同体安寧祈る**司祭者(シャーマン)**役割を極めて重視したこと強く物語る。前方後円墳体制確立・維持において、このような呪術的・宗教的権威が軍事力・経済力と並んで、あるいはそれ以上に重要基盤だった可能性高い。
5.4. 形象埴輪の出現(前期後半) – 葬送儀礼の具体化と視覚化
前期後半(4世紀末頃)、墳丘飾る埴輪に新変化。従来の円筒・朝顔形埴輪(「抽象的」)に加え、具体的モノ・生き物・人物等かたどった**形象埴輪(けいしょうはにわ)**が出現開始。古墳儀礼・被葬者属性をより具体的に表現しようとする意識高まり示す。
- 初期形象埴輪種類: 最初期は家形埴輪(住居・倉庫・居館等模倣)や武器・武具・威信財等模した器財埴輪中心。器財埴輪には蓋(きぬがさ)、盾、靭(ゆき)、甲冑、椅子、舟など被葬者権威・役割・生活関連道具類含む。
- 配置場所と意味: 墳頂部(埋葬施設周辺)、前方部、墳丘中段突出部**造出(つくりだし)**等、特に重要と考えられる場所に意図的配置多。①被葬者生前居館・所有物・権力象徴表現し権威視覚化・後世伝達、②古墳葬送儀礼内容(家形埴輪=死者魂宿る場所、器財埴輪=儀式道具等)をより具体的に演劇的表現、などが考えられる。
- 葬送儀礼変化: 形象埴輪出現は古墳葬送儀礼複雑化、被葬者属性や当時の世界観を具体的形で表現しようとする意識高まり示唆。ただし前期段階では後の人物埴輪(巫女、武人、農夫等)や動物埴輪(馬、犬、鳥等)はまだ一般的でなく種類限定的。
形象埴輪登場は、古墳文化が新段階入り、古墳が単なる墓でなく被葬者生前の姿・権威・死後世界再現する「劇場」性格強めたこと示す重要変化だった。
6. 初期ヤマト政権の権力構造 – 連合か、専制か、その実態
前期(3~4世紀)は畿内でヤマト政権誕生、支配基盤固め、前方後円墳体制通じ列島各地へ影響力拡大した重要時期。しかし権力構造は後の律令国家のような中央集権官僚制確立せず、形成途上の流動的・複合的側面持ったと考えられる。大王中心としつつも有力豪族との連合的性格も色濃く残した。
6.1. 大王(おおきみ)の存在と権威
ヤマト政権頂点には大王と呼ばれる最高首長が存在(「天皇」号使用は一般に7世紀後半以降)。前期大王存在・権威は以下からうかがえる。
- 巨大古墳築造主体: 箸墓古墳(約280m)や大和・佐紀古墳群200m~300m級巨大古墳は他豪族墳墓と比較にならない突出規模で、築造可能にした大王強大権力(経済力、技術力、労働力動員力)物語る。
- 祭祀権掌握: 纏向遺跡・初期巨大古墳群の三輪山麓集中、前期古墳副葬品呪術的・司祭的威信財多いこと等から、初期大王は三輪山神等祀る最高司祭者役割重視、宗教権威を政治権力重要源泉とした可能性高い。祭祀通じ共同体秩序維持・精神的統合図ったか。
- 広域ネットワーク主導: 三角縁神獣鏡等威信財が畿内大王墓級から各地有力豪族墓へ配布・分与された事実は、大王が列島規模政治・経済交流ネットワーク(前方後円墳体制)主導・コントロールする立場にあったこと示す。威信財授与通じ地方豪族と序列関係築き権威承認させた。
- 権力性格と継承: 前期大王は単なる畿内有力首長でなく列島規模政治秩序創出・維持する超越的存在として君臨開始。しかし権力が絶対的専制君主のようだったか、世襲による王位継承確立かは不明。巨大古墳所在地移動や後継承争い考えると、大王権力基盤必ずしも盤石でなく有力豪族との力関係で変動可能性や、王位継承流動的だった可能性も。
6.2. 豪族連合政権としての性格
初期ヤマト政権は突出権威持つ大王頂点としつつも、基盤は畿内・地方有力**豪族(氏族)**との連合に支えられた側面強い。大王権力はこれら豪族との協力や時に対立・競争関係の中で成り立っていた。
- 畿内有力豪族: 大王家以外にも古くからの有力豪族存在。後の大臣・大連等占める葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏(台頭はやや遅れるか)、大伴氏、物部氏等祖先豪族たち。それぞれ本拠地に比較的大規模古墳築造(例:葛城地域室宮山古墳、墳長238m、5世紀初頭)、政権内で大勢力。大王家と婚姻結び(外戚関係)、政権運営に重要役割果たすことでヤマト政権支え、時に大王権力牽制存在でも。
- 地方有力豪族との関係: ヤマト政権は畿内だけでなく列島各地有力地域首長(地方豪族)との関係構築進め影響力拡大。吉備、出雲、毛野、尾張、筑紫等各地に弥生以来独自勢力基盤持つ豪族存在。関係は一律でなかったと考えられる。
- 前方後円墳体制への参加: 多地方豪族は前方後円墳築造やヤマト政権から威信財副葬で、ヤマト政権中心政治秩序(前方後円墳体制)参加表明。同盟関係や一定従属関係受け入れ示すか。ヤマト政権は彼ら通じ間接的に地方統治図る。
- 自立性と競合: しかし特に吉備、出雲、毛野のような強力地方豪族はヤマト政権と関係結びつつもなお強い自立性保持、時に競合・対立可能性も。彼らの古墳規模・副葬品地域独自要素はその自立性表れとも解釈。
- 前方後円墳体制による秩序形成: 前方後円墳築造と威信財分与は単なる葬送儀礼でなく、ヤマト政権(大王)と地方豪族間政治関係性構築・確認・維持の極めて重要手段だった。古墳規模、形状類似度、副葬品内容等が、ヤマト政権との関係性近さや政治秩序内序列を目に見える形で示していた(権力可視化)と考えられる。初期ヤマト政権支配は完全中央集権支配より、前方後円墳体制という緩やかな枠組みで地方豪族序列化し政治ネットワークに取り込む、交渉と力関係バランスの上に成り立った側面強い。
6.3. 支配体制の萌芽 – 後の律令制度への胎動
後の律令国家で確立される支配システム(氏姓制度、部民制、国造制)は、前期にはまだ萌芽的段階か、原型となる仕組みが存在したと考えられる。
- 氏姓制度原型: 血縁・地縁基盤**「氏」存在考えられる。しかし大王が氏に対し家柄・地位・職掌示す「姓」**(臣、連、君、直等)与え序列化する氏姓制度が前期段階で体系的確立かは不明。有力豪族間序列・役割分担はより流動的で実力・大王との関係性で変動可能性高い。後臣・連中心体制はまだ形成途上。
- 部民制起源: ヤマト政権・有力豪族所属し特定物品生産・職務従事集団(後品部、部曲等へ繋がる)や、大王・豪族直轄地(後屯倉)耕作従事人々(後田部等)はこの時期も存在考えられる。巨大古墳築造・政権運営必要物資・労働力確保のため、何らかの組織的人民把握・動員仕組み存在したはず。しかし後の部民制のように制度体系化されていたか、規模は不明。
- 地方支配ネットワーク(国造制萌芽): ヤマト政権が影響下地域有力豪族を地域支配者(行政官)として**「国造」**任命し間接統治する国造制は古代地方支配根幹。起源議論あるが、前方後円墳築造地方豪族の一部はこの時期ヤマト政権から国造任命され地域支配権公的認められた可能性。前方後円墳分布パターンはヤマト政権地方支配ネットワーク(国造制萌芽)広がり示唆とも考えられる。しかし任命関係や国造義務、具体的支配実態不明確点多。
総じて前期ヤマト政権は、大王中心としつつ実態は畿内・地方有力豪族との連合・交渉で運営される、まだ不安定・流動的要素多く含む政権だった。後律令国家のような強固中央集権体制はこの段階未形成で、その基礎が築かれ始めた時期と理解すべきだろう。
7. 古墳時代前期の生活と信仰 – 古墳だけではない人々の営み
前期社会・文化理解には、巨大古墳だけでなく当時の人々の日々の生活、信仰を知ることも重要。それらは古墳以外遺跡(集落跡、生産遺跡、祭祀遺跡等)情報で補われる。
7.1. 集落と住居
集落は弥生から引き続き台地・丘陵上、河川近く自然堤防・河岸段丘上に営まれること多。弥生環濠集落はこの時期次第に減少し開かれた形態一般化。ヤマト政権広域政治秩序形成進展や防御機能古墳・拠点集落集約可能性示す。住居は弥生から続く竪穴住居主流。平面形は方形または隅丸方形へ。内部に炉設置、形態も地床炉から石囲炉・埋甕炉等へ。カマド普及は中期以降。有力者住居・集会用建物には掘立柱建物も使用か。家形埴輪は当時建物姿伝える。
7.2. 生業
基本生業は弥生伝統継承。
- 水稲耕作: 最重要生業。弥生開発水田維持・管理、新水田開発も進められたか。灌漑技術・農具発展途上、生産性必ずしも高くなかった可能性。鉄製農具存在もまだ貴重品で広く普及せず。木製農具、石器併用か。
- 狩猟・漁撈・採集: 水稲耕作補完重要。山野でシカ・イノシシ等狩猟。河川・湖沼・沿岸部で魚介類漁撈。皮革・骨角等資源獲得も目的。
- 手工業: 社会複雑化伴い専門化・発展か。
- 土器製作: 日常用土師器は集落内工房・専門工人製作。弥生土器技術継承し器形多様化。埴輪製作も専門工人集団。後須恵器技術は未導入。
- 石器製作: 農具、工具、武器(石鏃等)、玉類・石製品(石棺、石製腕飾類等)製作のため依然重要。
- 木工: 建築、舟、農具、容器、祭祀具等で必要とされ技術発展。ヤリガンナ等鉄製工具使用開始。
- 玉作り: ヒスイ、碧玉、メノウ、ガラス等用いた玉類製作も専門工人実施。糸魚川周辺、出雲地方等拠点知られる。
- 金属加工: 鉄器(武器、工具、農具)や銅製品(銅鏡等)製作・加工も行われたが、特に鉄素材入手や高度鍛冶技術はまだ限られた集団(ヤマト政権・有力豪族所属工人)独占可能性高い。
7.3. 信仰と祭祀
弥生から続く自然崇拝・祖先崇拝基盤の多様な信仰・祭祀活動存在。
- 古墳における葬送儀礼: 前方後円墳築造自体が被葬者霊祀り、権威伝え、共同体統合図る壮大社会的・宗教的儀礼。埴輪列樹立、副葬品供献、儀式等は死者安寧・再生、首長権継承願う複雑信仰体系基盤か。
- 自然崇拝・祖先崇拝: 自然物(山、川、岩等)や特定動物に霊力(カミ)宿ると考える自然崇拝が依然信仰基層。特に三輪山のような神体(神奈備)崇拝は初期ヤマト政権祭祀と深く結びついた。各氏族が祖先を氏神として祀る祖先崇拝も共同体結束維持で重要。
- 祭祀遺跡と遺物: 集落内外特定場所(広場、巨石、湧水地等)に土器・石製品・食物等供え祈る儀式示す遺構(祭祀土坑等)発見例あり。特筆すべきは福岡・宗像市沖ノ島遺跡。4世紀後半頃から大陸・半島航海安全、国家安泰祈る大規模祭祀開始。銅鏡、玉類、鉄製武器、金製指輪、土器等大量供献、ヤマト政権国家的祭祀始まり示す重要遺跡(主体・性格議論あり)。
これら信仰・祭祀は人々の生活に深く根ざし、自然恵み・脅威、生と死、社会秩序等根源的問題に向き合い、共同体安定・繁栄祈る精神的支柱だった。
7.4. 大陸・半島との交流(前期)
前期も日本列島は東アジア世界動向と無縁でなく、大陸(中国王朝)・朝鮮半島交流はヤマト政権成立・発展、古墳文化形成に大影響。
- 鉄資源獲得: 前期国内鉄生産未本格化、鉄素材(鉄鋌等)・鉄製品多くを朝鮮半島南部、特に伽耶地域から輸入依存か。鉄は軍事力・生産力・手工業発展に不可欠、安定確保はヤマト政権最重要課題。ヤマト政権が朝鮮半島南部へ影響力確保図った背景にこの経済的要因大。
- 文物流入とその影響: 鉄以外にも銅鏡(特に舶載鏡)、玉類(ガラス玉等)、武器・武具、技術(土木、金属加工等)、情報等もたらされた。舶載鏡はヤマト政権権威高め前方後円墳体制支える威信財利用。
- 渡来人の初期の動き: 後期ほど大規模でないが戦乱逃避・技術者招聘で大陸・半島から少数渡来可能性。彼らの知識・技術(初期須恵器生産技術萌芽、高度金属加工等)が古墳文化形成に影響与え始めた可能性も。
- 朝鮮半島への関与の始まり(広開土王碑文): 4世紀末~5世紀初頭の広開土王碑文(現中国吉林省)には、「倭」が海渡り百済・加羅・新羅攻め高句麗と戦った記事あり(辛卯年条等)。解釈諸説あるが、4世紀末にはヤマト政権が朝鮮半島南部政治状況に積極介入、百済・伽耶と結び高句麗・新羅と軍事対立するようになったこと示唆。鉄資源確保、百済友好関係、東アジアでの勢力圏拡大等、より複雑な国際関係へヤマト政権が足踏み入れる契機となり、次の中期対外活動へ繋がる。
前期ヤマト政権は東アジア世界交流通じ必要資源・文物獲得し権力強化一方、国際的緊張関係にも巻き込まれていく。対外関係動向は古墳時代社会・文化展開に大影響与え続ける。
第二章 大王権力の確立と東アジア世界:ヤマト政権の飛躍と変容(5~6世紀)
4世紀に「前方後円墳体制」を列島各地に広げ基盤を確立したヤマト政権は、5世紀に入ると内外環境の変化で新たな段階へ突入する。この5~6世紀(古墳時代中期~後期)は、ヤマト政権大王権力が頂点を迎え、巨大古墳文化が最後の輝きを見せる一方、権力構造や社会体制に変容の兆しが現れ、仏教伝来や有力氏族間抗争激化といった次代・飛鳥時代への胎動が始まる、ダイナミックで画期的な時代であった。
対外的には、中国大陸の南北朝動乱と再統一への動き、朝鮮半島の三国(高句麗・百済・新羅)・伽耶諸国間の複雑な勢力争いの中、ヤマト政権は従来以上に深く国際関係に関与。特に5世紀、「倭の五王」が中国南朝へ遣使し国際的地位公認を求め、朝鮮半島へは時に大規模軍事介入を行い高句麗と激しく対峙した。活発な対外活動は鉄資源確保に加え、東アジアでの地位向上、百済等友好国関係維持といった複合的要因が絡み、多くの**渡来人(とらいじん)**移住を促し、彼らの先進技術・知識・文化は国内政治・社会・文化に多大な影響を及ぼす。
国内的には、大王権力が一層強化され、前期の司祭者的性格に加え武人的・支配者的側面が強まる。これを物語るのが5世紀大阪平野の百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群に代表される墳長400m超の空前絶後巨大前方後円墳出現である。埋葬施設・副葬品も大きく変化し、横穴式石室導入が始まり、副葬品では武具・馬具重視、埴輪も人物・動物埴輪隆盛など、より現実的な権力誇示へ移行。支配体制も氏姓(しせい)・部民(べみん)・国造(くにのみやつこ)制等が整備・拡充され、より体系的統治機構が形作られる。
しかし6世紀には巨大古墳築造は下火となり、地方では中小規模**群集墳(ぐんしゅうふん)**時代へ移行。地方豪族層成長や支配体制変容を示すか。ヤマト政権内部でも継体(けいたい)天皇擁立や磐井(いわい)の乱といった深刻な動揺が生じ、従来の豪族連合的体制から特定氏族(特に蘇我氏)台頭の契機となる。そして6世紀半ば仏教公伝で新たな思想・文化が流入し、古代日本の精神世界にも大きな変革をもたらし始める。
本章では、ヤマト政権が飛躍的発展と深刻な変容に直面した5~6世紀を、「古墳時代中期(5世紀)」「古墳時代後期(6世紀)」に分け概観。巨大古墳文化爛熟、大王権力強化と支配体制整備、激動東アジア世界との関わり、社会構造変化と新文化胎動といった多岐側面を、最新研究成果踏まえ多角的に掘り下げる。
1. 古墳時代中期(5世紀):巨大古墳と武人たちの時代 – 大王権力の頂点
5世紀はヤマト政権大王権力が絶頂期を迎え、それを象徴する巨大古墳文化が畿内、特に河内(かわち)・和泉(いずみ)(大阪府)で壮麗な華を開いた時代。この時代の古墳文化は前期と異なる画期的特徴を持ち、ヤマト政権の権力構造・社会変化を色濃く反映する。
1.1. 巨大古墳の出現:河内・和泉への中心移動と百舌鳥・古市古墳群
4世紀代奈良盆地(大和)の巨大前方後円墳(大王墓級)は、5世紀に入ると築造中心地を大阪平野の河内・和泉地域へ劇的に移す。背景には国際港難波津に近く大陸・半島交通・外交拠点として、また新経済基盤として大阪平野の戦略的重要性増大、この地域基盤の有力豪族(渡来系氏族含む)との連携強化等が指摘される。ここに日本史上空前絶後の巨大古墳群、古市古墳群(羽曳野市・藤井寺市)と百舌鳥古墳群(堺市)が出現。これらは2019年に**「百舌鳥・古市古墳群:古代日本の墳墓群」として世界文化遺産**登録された。
- 古市古墳群: 大阪平野東南部、5世紀前半~6世紀前半に誉田御廟山古墳はじめ200m~400m級巨大前方後円墳集中。
- 誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(羽曳野市):墳長約425m。全国第2位。伝応神天皇陵。5世紀前半築造推定。
- 仲津山(なかつやま)古墳(藤井寺市):墳長約290m。伝仲姫命陵。5世紀中頃。
- 市野山(いちのやま)古墳(藤井寺市):墳長約230m。伝允恭天皇陵。5世紀後半。
- 百舌鳥古墳群: 大阪平野北西部、主に5世紀中頃~後半に大仙陵古墳はじめ巨大古墳築造。
- 大仙陵(だいせんりょう)古墳(堺市):墳長約486m。全国第1位、日本最大古墳。伝仁徳天皇陵。三重周濠含め全長約840m。世界最大級墳墓。5世紀中頃築造推定。
- 上石津ミサンザイ(かみいしづみさんざい)古墳(堺市):墳長約365m。全国第3位。伝履中天皇陵。5世紀中頃。
- ニサンザイ古墳(堺市):墳長約290m。宮内庁治定なしだが巨大。5世紀後半。
これらの巨大古墳築造は、前期古墳を遥かに凌駕する労働力・資材・高度計画性・技術結集であり、これを可能にした5世紀ヤマト政権(特に応神・仁徳朝とされる時期)大王権力がまさに頂点にあったことを示す。
1.2. 墳丘形態の変化:権力誇示の空間演出
中期古墳は巨大さだけでなく、墳丘形態・付属施設にも権力視覚的誇示と儀礼空間性格強める変化が見られる。
- 前方部の広大化・高まり: 前期では撥形開き後円部より低かった前方部が、中期には幅広く高く長大化。前方部比重増、後円部との高さ差縮小。前方部が付属空間でなく後円部と並ぶ重要空間認識、あるいは前方部儀礼(王位継承儀礼等)重要性増示唆。
- 造出(つくりだし)の発達: 墳丘側面(くびれ部等)に祭祀儀礼用舞台のような方形突出部造出設置が一般化。造出上に家形埴輪・器財埴輪等集中配置多く、儀式具体様子復元手がかり。
- 二重・三重の周濠: 大仙陵古墳のように墳丘周囲に二重・三重周濠と周堤巡らされる例も出現。墳墓規模さらに壮大に見せ聖域性高めると共に、掘削土を墳丘盛土へ効率利用する合理的側面も。
これらの変化は、古墳が単なる埋葬施設でなく、大王絶大権力視覚的誇示し人々圧倒する巨大モニュメント、あるいは王権正統性示す壮大儀式空間としての性格を一層強めたこと示す。
1.3. 埋葬施設の変革:横穴式石室の導入と家形石棺
中期には埋葬施設構造にも大変化の兆し。大陸からの新技術・文化流入と葬送観念変化反映。
- 横穴式石室の導入: 5世紀中頃以降、朝鮮半島(百済・伽耶地域)から新埋葬施設横穴式石室伝来、次第に普及開始。墳丘側面から水平通路**羨道(せんどう)通り奥の遺体安置主室玄室(げんしつ)**に至る構造。
- 追葬可能: 従来の竪穴式石室・粘土槨が基本的に一棺一主体前提密閉に対し、横穴式石室は入口塞げば後から追葬可能。普及は古墳が個人墓から家族墓・氏族墓へ性格強める大契機に。
- 普及のタイムラグ: ただし中期(5世紀)ではまだ一部古墳(特に渡来人関連や地方小古墳)採用にとどまり、畿内巨大古墳(大王墓級)では依然伝統的竪穴式石室(墓壙内石棺形式)主流。全国的一般化は後期(6世紀)から。
- 石棺の大型化と多様化:
- 長持形石棺: 畿内巨大古墳では、竪穴式石室(墓壙)内に家屋屋根状蓋持つ長大箱形長持形石棺(主に凝灰岩製)使用。極めて格式高く大王クラス限定か。
- 家形石棺: 5世紀後半頃から横穴式石室普及と関連し、実際の家屋(切妻造・入母屋造)形模した家形石棺登場。凝灰岩等で作られ当時建築様式知る手がかり。
これらの変化は朝鮮半島からの新葬送文化流入と、死後世界観・家族観変化(追葬受容)反映。
1.4. 副葬品の変化:武具・馬具中心へ – 武人としての王の表象
中期副葬品は、前期の呪術・司祭的性格から様変わりし、鉄製武器・武具や新登場馬具といった武人的・軍事的性格強く示す遺物が中心。当時の大王・豪族が対外軍事活動・国内支配で武力極めて重視したこと反映。
- 武器・武具の質・量の充実:
- 甲冑: 大量副葬。短甲(前期から存在)に加え、多数鉄小札連結の挂甲(けいこう)(甲・冑セット)新登場し主流に。挂甲は乗馬戦闘に適し朝鮮半島伝来新タイプ。兜にも衝角付冑等特徴的。
- 刀剣: 長大鉄製直刀多数副葬。金銀装飾豪華な装飾付大刀もあり権威象徴意味合いも。
- 弓矢: 鉄鏃も引き続き重要で大量出土。
- 馬具の出現と普及: 5世紀、馬制御用馬具(轡、鐙、鞍セット)が武器・武具と共に副葬開始。朝鮮半島から乗馬風習・騎馬技術本格伝来、ヤマト政権軍事力中核に騎馬隊導入の画期的出来事示す。馬具は鉄製実用品だけでなく金銅製豪華装飾馬具も多く、馬所有・騎乗が支配者層ステータスシンボルだったこと示す。鐙出現は騎乗戦闘様式に大変革。
- 渡来系遺物の増加: 馬具他、金銅製冠・耳飾り・帯金具、銀象嵌等装飾鏡、初期須恵器など、大陸・半島影響強く受けた、あるいは渡来人製作・舶載と考えられる遺物増加。活発な対外交流と渡来人技術者活躍反映。
- 農工具など: 鉄製農工具(鋤先、鍬先、鎌等)も副葬例増加、農業生産力向上や支配基盤強化示すか。
これらの副葬品変化は、5世紀ヤマト政権大王・豪族が前期司祭的首長から強力軍事力背景の武人性格を強く帯びたことを明確に示す。前方後円墳体制も軍事的同盟関係側面強めたと考えられる。
1.5. 形象埴輪の展開:人物・動物埴輪の隆盛 – 古墳上の儀式と社会の再現
前期末登場形象埴輪は中期に種類・数爆発的増加、古墳墳丘上(特に造出、前方部、テラス等)飾る重要要素に。当時の社会・文化、葬送儀礼様子を生き生きと伝える。
- 多様な形象埴輪登場: 前期からの家形・器財埴輪(武器、武具、蓋、舟等)に加え、人物埴輪と動物埴輪本格登場し隆盛。
- 人物埴輪: 武人、巫女、貴人、農夫、鷹匠、力士、琴弾き、踊る男女、首長など、当時社会階層・役割、風俗、儀礼場面反映し多種多様。
- 動物埴輪: 馬(装飾馬具装着多)、犬、猪、鹿、鶏、水鳥、猿、牛など家畜・狩猟対象、信仰・儀礼関連動物等。特に馬形埴輪多さは馬重要性示す。
- 埴輪群による場面構成: 単独でなく複数組合せ、何らか場面構成意図し配置。首長居館周り警護武人・儀式巫女・貢物人物配置、首長権威示す儀式(裁判、饗宴、鷹狩り等)や葬送儀礼自体再現したか。
- 製作技法と表現: 粘土紐積み上げ輪積み技法、比較的低温素焼き。表面赤色顔料(ベンガラ)等彩色も。表現素朴・象徴的だが、当時の服装、髪型、武具、楽器、建築様式等知る貴重資料。
- 形象埴輪の意味: ①被葬者生前権勢・生活・儀式再現し死後も続くこと願った(死後世界表象)、②葬送儀礼様子具体表現・演出(儀礼再現)、③死者魂守護・邪霊祓い役割(辟邪)、④来訪者へ被葬者偉大さやヤマト政権秩序示す視覚装置、など複合的解釈可能。
形象埴輪隆盛は中期文化豊かさと具体的社会観・世界観、古墳儀礼複雑・視覚的発展示す。
2. ヤマト政権の支配体制強化(5世紀中心) – 古代国家への階梯
5世紀巨大古墳築造や活発対外活動はヤマト政権国内支配体制強化で支えられた。この時期、大王権力基盤強化と共に氏姓・部民・国造制等統治システムが整備・拡充され、後の律令国家へ繋がる古代国家基礎が形作られた。
2.1. 大王権力の強化と変質 – 「治天下大王」の登場
5世紀ヤマト政権大王権力は前期より格段に強化、性格も司祭的権威に加え軍事的・統治者的側面強調。
- 圧倒的権力誇示: 河内・和泉巨大古墳群は他豪族墳墓完全に凌駕、大王が列島内他勢力超越する絶対的とも言える権力握ったこと示す。
- 武人的性格強調: 副葬品変化(武具・馬具中心化)、朝鮮半島への頻繁軍事介入に見るように、5世紀大王は軍事力重視の「武人」性格強く打ち出した。
- 「治天下大王」銘出現: 埼玉・稲荷山古墳鉄剣銘(471年説有力)、熊本・江田船山古墳鉄刀銘(5世紀後半)に「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」が「天下」統治と記載。
- ワカタケル大王: 第21代・雄略天皇(実名:大泊瀬幼武)と同一人物説定説。
- 「天下」概念: 大王が日本列島広範囲を「天下」と認識し統治する最高君主という領域的支配者意識(天下観)明確表明の画期的史料。
- 意義: 「治天下大王」称号使用は、ヤマト政権が単なる部族連合盟主から領域国家支配者へ脱皮しつつあったこと示唆、国家意識形成重要段階。
- 王権世襲化進展?: 応神~雄略の5世紀代大王系譜は記紀で比較的安定した父子・兄弟相続描写。この時期大王位世襲がある程度安定化し王統(王朝)意識形成されつつあった可能性。しかし激しい皇位継承争い伝承も多く常に円滑ではなかった。
2.2. 氏姓制度の整備と展開 – 臣・連制の確立へ
ヤマト政権支配体制中核・氏姓(しせい)制度(有力豪族を氏単位で把握、大王が姓与え地位・職掌定め序列化)は5~6世紀に整備・展開され政権骨格形成。
- 臣・連制確立: 有力豪族は大きく**臣(おみ)と連(むらじ)**二代表姓に分けられ政権中枢担う。
- 臣: 主に畿内有力豪族(葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏等)へ。大王家と婚姻結び外戚として影響力持ち、最高位**大臣(おおおみ)**任命資格。
- 連: 特定職掌(伴)率い大王に仕えた有力伴造氏族(大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏等)へ。世襲的に特定官職担当し大勢力。連姓豪族から大臣と並ぶ最高位**大連(おおむらじ)**任命。
- その他の姓: 地方有力豪族(旧国造層等)には君(きみ)・直(あたい)、中小豪族・渡来系氏族には造(みやつこ)・**首(おびと)**等与えられ、大王中心階層的身分秩序形成。
- 有力氏族動向と政争: 5~6世紀はこれら有力氏族間で政権主導権・大王位継承巡る激しい権力闘争。雄略天皇代葛城氏・平群氏粛清伝承。6世紀前半大伴金村失脚、継体天皇擁立等経て蘇我氏・物部氏二大勢力台頭。
2.3. 部民制の拡大と多様化 – 国家を支える人的・物的基盤
ヤマト政権経済・人的基盤支えた部民(べみん)制(特定集団(部)組織し特定生産活動・労役、大王・豪族へ奉仕義務付け)は5~6世紀に大きく拡大・多様化。
- 部民種類:
- 品部/職業部: 特定技術・知識持ち手工業生産(錦織部、土師部、陶作部、韓鍛冶部、玉作部等)や特定職務(史部、蔵部、語部等)に従事、生産物・労働力提供。渡来系技術者集団多。
- 名代・子代: 大王・皇族名にちなみ設定されたとされる部。大王家(皇族)経済基盤支える人的・物的奉仕集団か。
- 部曲: 有力豪族が私有・支配し経済基盤・私兵力とした人々。大王家も直轄部曲保有。
- 田部: 大王・豪族直轄地**屯倉(みやけ)**で水田耕作に従事した農民。
- 組織と管理: 各部は統括する伴造(多くは連姓豪族)に管理・統率され支配体制に組み込まれた。全国各地に設定されヤマト政権経済力・人的資源基盤に。巨大古墳築造・対外戦争物資・労働力も部民制動員か。
- 意義と限界: 部民制拡大は人民支配をより直接的・組織的に行おうとしたこと示す。後の律令制公民支配へ繋がる過渡的形態。しかし部曲のような豪族私的人民支配も強く残存し、完全な国家一元支配には至らず。
2.4. 国造制の浸透と地方支配 – 列島各地への統制ネットワーク
ヤマト政権地方支配基本仕組み・国造(くにのみやつこ)制(有力在地首長を国造任命、地域支配権世襲承認代わり服属・貢納・軍役等義務負わせる間接統治)は5~6世紀に整備・浸透進んだか。記紀に多国造任命伝承、100超とされる。多くの場合その地域代々力持った首長層(前方後円墳被葬者クラス)が任命され、地域支配正統性得ると共にヤマト政権地方支配末端担う。
- 役割と義務: 国造は自「国」人民統治、裁判、地域祭祀主宰等権限。一方ヤマト政権へは地域特産物(調・貢)納入、軍役、朝貢等の義務。
- 限界: 有効システムだったが国造権力は在地社会に根ざし、ヤマト政権統制力弱まれば自立的動き見せる可能性も。6世紀前半筑紫国造磐井の反乱(後述)はその典型。国造制は中央集権化進めるヤマト政権にとって過渡的地方支配体制だった。
氏姓・部民・国造制は相互関連し5~6世紀ヤマト政権支配体制根幹形成。整備・展開は、ヤマト政権がより恒常的・体系的統治システム構築目指したこと示し、後の律令国家への重要階梯となった。
3. 東アジア情勢とヤマト政権の対外政策(5世紀中心) – 「倭の五王」と渡来人
5世紀ヤマト政権は国内体制強化と並行し東アジア国際舞台でも活発活動展開。中国南朝への遣使と朝鮮半島への軍事介入は、この時代のヤマト政権理解で極めて重要。
3.1. 「倭の五王」の遣使:『宋書』倭国伝
中国正史**『宋書』倭国伝に、5世紀倭国王讃・珍・済・興・武(倭の五王)**が相次いで南朝宋へ朝貢使派遣、皇帝から称号授与記録。5世紀ヤマト政権実像・対外政策・国際認識知る第一級史料。
- 遣使時期と目的: 413年(讃)~478年(武上表文)に十数回。主目的は複数。
- 朝鮮半島軍事優位性の公認獲得: 自称「倭国王」に加え「使持節・都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七(六)国諸軍事・安東大将軍・倭国王」等、朝鮮半島南部(百済、新羅、伽耶諸国)含む広範囲軍事指揮権示す長大称号要求。高句麗に対抗し百済・伽耶連携強化、新羅も影響下に置く意図。朝鮮半島南部でのヤマト政権軍事的・政治的優位性を中国王朝に公認させようとした。
- 国内王権正統性強化: 中国皇帝から高称号(特に将軍号)獲得で、国内諸豪族に対し大王権威が国際的承認得た最高のものと示し正統性強化。
- 先進文物獲得: 朝貢は経済・文化交流側面も持ち、中国先進文物(鉄製品、絹織物、書物等)や技術・情報入手も重要目的。
- 倭の五王比定: 記紀のどの天皇か決定証拠なく諸説。近年有力視される比定(異論多):讃=履中or反正?、珍=反正?、済=允恭?、興=安康?、武=雄略?。特に武=雄略天皇説は478年上表文内容が記紀雄略像や稲荷山鉄剣・江田船山鉄刀銘「ワカタケル大王」と合致し最も有力。
- 称号獲得成果と限界: 「安東大将軍 倭国王」等得たが、最も望んだ朝鮮半島南部諸国(特に新羅・任那・加羅)軍事都督権は多くの場合認められず。宋王朝が倭国要求全面承認が半島情勢不安定化招くと警戒か。遣使は478年以降しばらく途絶。
倭の五王遣使は、5世紀ヤマト政権が東アジア国際秩序内に自らを位置づけ、地位向上と国益確保目指し活発外交・軍事活動展開した貴重証拠。
3.2. 朝鮮半島への軍事介入:高句麗との対峙と鉄資源確保
倭の五王遣使背景には朝鮮半島でのヤマト政権継続的軍事介入があった。特に4世紀末以降南下強める高句麗との対立深刻化、ヤマト政権は伝統的友好国百済や鉄資源供給地伽耶諸国(倭国側からは任那とも呼称)支援・保護のためしばしば大軍派遣。
- 高句麗との戦闘(広開土王碑文等): 高句麗広開土王碑文(414年建立)に、倭が391、399、400、404年等に百済・伽耶と結び新羅侵攻、救援高句麗軍と激戦したことが高句麗側視点から記録。倭軍は一時新羅首都包囲や伽耶地域占領も、最終的に撃退されたとされる。朝鮮半島南部覇権巡るヤマト政権と高句麗間の長期激しい対立示す。
- 百済・伽耶への支援と影響力維持: ヤマト政権は高句麗・新羅圧迫に苦しむ百済・伽耶へ軍事支援見返りに、これらから貢納(特に鉄資源)得ると共に政治影響力維持図る。記紀に多将軍派遣伝承。百済とは特に密接関係、百済王族倭国滞在、倭国から百済へ援軍派遣も。伽耶諸国(任那)へは倭国は「任那日本府」なる出先機関置いた説あるが実態・性格・所在地不明点多く現在も議論続く(存在自体疑問視説も)。
- 鉄資源確保重要性: ヤマト政権にとって朝鮮半島(特に弁韓・伽耶地域)は武器・武具・農工具生産に不可欠な**鉄資源(鉄素材)**主要供給源。伽耶諸国への影響力維持と鉄安定供給ルート確保は死活的に重要。積極的軍事介入背景にこの経済的動機強く存在。
- 軍事活動実態と限界: 派遣軍は大王直属軍、軍事担当豪族私兵、国造率いる地方豪族軍等から構成か。5世紀騎馬技術導入で戦闘力向上も、大規模海外派兵は多国力消耗し常に成功せず大リスク伴った。
5世紀ヤマト政権対外政策は朝鮮半島への積極軍事介入と中国南朝外交工作連携させ展開。地位向上と経済・軍事利益確保目指したが、高句麗戦苦戦や中国王朝限定的承認等、目標達成には多困難・限界も伴った。
3.3. 渡来人の増加とその影響:技術・文化・制度の伝播
5~6世紀は朝鮮半島戦乱逃避やヤマト政権技術者招聘で、多くの渡来人とその子孫が日本へ移住。彼らは当時日本にない、あるいは未熟な高度知識・技術もたらし、ヤマト政権国力増強・古墳文化変容、後の律令国家建設に極めて大貢献。
- 渡来人出身地と規模: 主に朝鮮半島**百済、新羅、伽耶(任那)**から多、一部中国大陸ルーツも。特に百済・高句麗滅亡時には王族・貴族含む多数亡命。総数不明だが相当規模か。
- もたらされた先進技術:
- 須恵器生産: 朝鮮半島陶質土器技術(轆轤成形、窖窯高温焼成)導入、5世紀中頃大阪府南部陶邑窯跡群等で生産開始。硬質で吸水性低い須恵器急速普及し生活文化一変。
- 金属加工技術: 高度鉄器生産(製鉄・鍛冶)、金銅製品製作(馬具、装飾品等)、金銀細工、象嵌等技術。武器・武具質向上や豪華威信財生産可能に。
- 土木・建築技術: 巨大古墳設計・測量・築造技術、瓦葺き建築技術、石工技術(石室、石棺製作)等に渡来人技術導入可能性。
- 機織・染織技術: 絹織物(錦、綾等)はじめ高度織物生産技術(機織)や染色技術。渡来系秦(はた)氏・漢(あや)氏等はこれら背景にヤマト政権財政基盤支えたとされる。
- 文化・制度への影響:
- 漢字・儒教・仏教: 漢字使用本格化、儒教思想知識人層受容開始。後大影響与える仏教もこの時期渡来人経由で私的・公的に伝来(後述)、新思想・文化・芸術もたらす。
- 氏族形成と政権参画: 多渡来人集団はヤマト政権下で渡来系氏族(秦氏、東漢氏、西文氏等)として組織。特定品部管轄や文筆・外交・財政等実務担当しヤマト政権統治機構で重要役割。
- 居住地と社会統合: 畿内(特に大和、河内、山城)中心に計画的移住させられ集団居住多。居住地跡遺跡や建立関与寺院跡等発見。徐々に同化しつつ日本社会を変容させた。
渡来人大量移住とその活躍は5世紀以降ヤマト政権国力増強・文化発展に不可欠要素。彼らがもたらした新技術・知識・文化・人材は日本の古代社会を質的に変容させ、次代飛鳥時代以降の律令国家建設や新文化開花へ繋がる極めて重要原動力となった。
4. 古墳時代後期(6世紀):群集墳と政権の変容 – 新たな時代への胎動
6世紀、古墳時代は後期新段階へ。5世紀頂点極めた巨大古墳文化が衰退・変質、地方社会大変化と共にヤマト政権内部でも大動揺生じ、古代国家あり方が転換していく過渡期。律令国家へ続く飛鳥時代への序章とも位置づけられる。
4.1. 巨大古墳の衰退と群集墳の出現 – 地方社会の変容と古墳文化の終焉
5世紀隆盛誇った畿内巨大前方後円墳(大王墓級)築造は6世紀に入ると急速衰退。墳長100m超大型古墳も依然築かれるが規模全体的縮小し数減少。前方後円墳という画一墓制へのこだわりも薄れる。
一方、全国各地(特に畿内周辺、関東、中部、九州等)では丘陵斜面等利用し数十~数百基中小規模古墳(円墳・方墳中心、直径10~30m程度)が密集築造される群集墳がこの時期爆発的出現・増加。
- 被葬者層変化と拡大: 群集墳被葬者は従来大王・有力地方豪族(国造クラス)でなく、より下位**中小豪族(後郡司クラスか)や有力農民層(村落長等)**まで含まれたか。古墳築造行為(富・権力)が、ヤマト政権支配体制浸透や農業生産力向上、地方社会階層分化進展伴い、より広い階層へ拡大した(古墳文化普及・大衆化)こと示す。
- 地方勢力成長と自立化: 群集墳出現は中央(ヤマト政権)統制力相対的弱まり(地方統治変化)、地方在地勢力が経済力・政治的自立性高めたことの現れとも。彼らはヤマト政権権威(前方後円墳)縮小模倣しつつ、自地域社会での地位示すため身の丈合った規模・形式古墳競って築造。
- 古墳文化終焉へ: 群集墳出現は古墳文化が列島隅々まで浸透しピーク迎えたと同時に、前方後円墳象徴ヤマト政権画一的イデオロギー支配揺らぎ始め、古墳自体政治的意味合い希薄化していく過程(古墳文化形骸化・終焉)の始まりでもあった。7世紀に入ると仏教普及による葬送観変化や薄葬化政策影響もあり古墳築造自体急速衰退。
4.2. 後期古墳の特徴:横穴式石室の一般化と装飾古墳
6世紀代後期古墳は規模・分布だけでなく構造・内容にも中期と異なる、あるいは中期開始変化が一般化する特徴が見られる。
- 横穴式石室一般化: 中期導入横穴式石室は6世紀に全国的急速普及し後期古墳埋葬施設主流に。羨道・玄室構造は追葬容易にし、古墳が個人墓から家族墓・氏族墓へ性格明確に変えること促した。石室構築技術向上、巨石使用・精巧石積みも見られる。石室形態多様化、地域特色現れる(例:畿内石舞台古墳巨大石室、九州装飾古墳石屋形等)。
- 石棺変化: 竪穴式石室長持形石棺消え、横穴式石室内石棺としては家形石棺引き続き使用他、組合式石棺、石棚等用いられた。
- 副葬品変化: 内容も変化、より実用的もの増える傾向。
- 須恵器増加: 須恵器生産全国的広がり普及、副葬品としても大量須恵器(多様器種)納められる。
- 実用品増加: 武器・武具・馬具引き続き副葬も、加え農工具、工具、土師器ミニチュア炊飯具、紡錘車等、より日常生活密着実用品副葬傾向強まる。被葬者層拡大反映か。
- 威信財質変化: 銅鏡は小型化・簡略化仿製鏡中心、金銅製豪華装飾品減少。代わり**金・銀耳環や色とりどりガラス玉(トンボ玉等)**等が比較的身近な威信財として広く使用。
- 装飾古墳出現・展開: 後期古墳中特に九州(福岡、熊本、佐賀等)や関東一部、山陰等で石室壁面・石棺に彩色・線刻・浮彫で文様・絵画描いた装飾古墳出現、地域ごとに特色ある展開。内容は幾何学文様、抽象文様、具象図柄(盾、鞆、靫、大刀、船、馬、鳥、魚、人物等)まで極めて多様。死者守護(辟邪)、死後世界・被葬者生前活躍、所属集団神話・伝承表現と考えられ、地域特色ある展開。後期地方文化豊かさと地域的信仰・世界観多様性示し、当時精神世界知る貴重手がかり。
4.3. ヤマト政権内部の動揺:継体天皇の擁立と磐井の乱
6世紀前半ヤマト政権は大王位継承混乱や地方豪族大規模反乱など深刻内部動揺に見舞われた。5世紀まで支配体制限界と新政治秩序への移行期を示すものだった。
- 継体天皇擁立(6世紀初頭): 記紀によれば、第25代・武烈天皇に世継ぎなく、遠く越前の応神天皇五世孫とされる男大迹王が、大伴金村・物部麁鹿火らに擁立され大和へ入り継体天皇(第26代)として即位。
- 異例即位とその背景: 単なる血縁問題でなく、旧大和王統断絶し新王統登場可能性(王朝交替説)や深刻王位継承争い背景可能性等指摘され、ヤマト政権連続性・安定性に大疑問符。
- 権力基盤不安定さ: 継体天皇は即位後もすぐ大和中心部入れず20年近く河内・山城等転々としたとされ、権力基盤当初極めて不安定だったことうかがわせる。晩年大和に磐余玉穂宮。前王統血引く手白香皇女を皇后に迎え正統性補強図ったか。
- 磐井(いわい)の乱(527年): 継体天皇代、新羅勢力拡大・伽耶圧迫。ヤマト政権は新羅対抗・任那救援のため近江毛野軍派遣図る。ところが北部九州有力豪族・筑紫国造磐井が新羅と通じヤマト政権へ大規模反乱。
- 反乱経緯: 『日本書紀』によれば磐井は北部九州勢力下に置き朝鮮半島へ向かうヤマト政権軍進路妨害。ヤマト政権は物部麁鹿火派遣、翌528年筑紫御井郡で磐井討ち鎮圧。
- 乱背景: ①新羅勢力拡大と連携した磐井外交判断、②筑紫地域磐井強大勢力(独自外交権・軍事力保持可能性)、③ヤマト政権地方(特に九州)統制強化への反発、等複合要因か。福岡県八女市岩戸山古墳(墳長約135m、九州北部最大級、石人・石馬等特徴的)は磐井墓と有力視。
- 乱影響: 反乱はヤマト政権に大衝撃、地方豪族(特に国造)統制あり方見直し契機に。乱後ヤマト政権は九州支配強化のため屯倉設置進めたとされる。事件は国造制間接統治システム限界示し、ヤマト政権支配体制が新段階(より中央集権的支配へ)へ移行する必要性浮き彫りにした。
4.4. 仏教伝来とその影響 – 新たな思想の波と政争の火種
6世紀半ば、百済からヤマト政権へ仏教が公式伝来。日本の思想・文化史一大転換点、同時に新政争火種とも。
- 仏教公伝時期と経緯: 公式伝来(公伝)は538年(戊午年)説(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』)と552年(壬申年)説(『日本書紀』)有力。いずれにせよ6世紀半ば、百済聖明王からヤマト政権(欽明天皇)へ仏像(釈迦金銅仏)・経典等公式贈与。
- 伝来背景: 新羅・高句麗軍事圧迫苦しむ百済が、ヤマト政権軍事支援期待し見返りに当時先進文化象徴仏教提供の外交的意図か。
- 受容めぐる対立(崇仏論争): 新外来宗教・仏教受容めぐり有力豪族間で激しい意見対立(崇仏論争)。
- 崇仏派: 大臣蘇我稲目は渡来人関わり深く大陸先進文化に関心、仏教文化や国家鎮護力に期待し積極受入主張。
- 排仏派: 大連物部尾輿や祭祀司る中臣鎌子らは日本伝統神々(国神)信仰重視、外国神(蕃神)仏受け入れれば国神怒り招き災い起こると主張し強く反対。
- 初期影響と政争発展: 欽明天皇はまず蘇我稲目に仏像授け私的祭祀許すも、国内疫病流行時、物部・中臣氏らは仏教祟りとし蘇我氏寺焼き仏像廃棄させたと伝わる。仏教当初スムーズに受容されず、日本伝統神祇信仰と緊張関係生み、蘇我氏と物部・中臣氏有力氏族間政争重要争点とも。対立は次代へ引き継がれ丁未の乱(587年)蘇我氏勝利・物部氏滅亡へ繋がる。
- 文化・社会インパクト: 仏教は宗教思想だけでなく、共に寺院建築、仏像彫刻、絵画、工芸等新芸術、経典(文字文化)、暦法、医学等様々な大陸先進文化もたらす。これら文化はその後の日本社会・文化あり方に計り知れない大影響与える。仏教本格受容・興隆は次代飛鳥時代待つが、6世紀半ば公伝は日本古代文化史一大転換点、新時代到来告げる出来事だった。
5. 古墳時代の文化と社会(中期・後期) – 技術革新と生活の変化
中期~後期(5~6世紀)は政治・対外関係変化と並行し、生活支える技術・文化、社会あり方も大変化。特に渡来人技術は社会の様々側面で変革もたらした。
5.1. 須恵器の生産開始と普及
5世紀中頃、朝鮮半島から新土器製作技術伝来し須恵器生産開始。日本土器文化画期的出来事。
- 技術特徴: 精製粘土用い轆轤成形、窖窯高温還元焔焼成硬質土器。青灰色・灰黒色、自然釉かかることあり。
- 生産拠点(陶邑窯跡群): 日本での生産はまず大阪府南部陶邑窯跡群で渡来系工人集団により開始。ヤマト政権管理下大規模生産行われた日本最大須恵器生産センター。
- 普及と影響: 須恵器は土師器に比べ硬く丈夫で水通しにくいため、貯蔵用甕・壺、運搬用瓶、食器等として急速普及。当初支配者層威信財(祭祀用具、副葬品)性格強かったが6世紀以降一般日常生活にも浸透し土師器と共に広く使用。生活様式にも変化与えた可能性。陶邑産須恵器全国流通はヤマト政権支配力・物流ネットワーク広がり示す。6世紀後半以降生産技術地方伝播し各地で須恵器窯築かれる。
5.2. 金属器生産の発展
中期~後期は金属器生産技術も大発展。特に鉄器・金工品重要。
- 鉄器生産進展: 朝鮮半島鉄素材輸入に加え、国内製鉄も6世紀頃から次第に開始か(輸入依存度高)。鍛冶技術向上、より高品質多様鉄製品(武器、武具、馬具、農工具等)生産。鉄器普及は農業生産力向上・軍事力強化に貢献。
- 金銅製品・金銀細工流行: 銅製品に金鍍金施した金銅製品が特に5~6世紀盛んに作られ支配者層威信財として珍重。馬具、冠、耳飾り、帯金具、装飾付大刀部品等。金・銀用いた指輪、耳環、腕輪等装飾品や刀剣象嵌等も見られる。製作には渡来系高度金工技術必要。
- その他金属器: 青銅製鏡(仿製鏡)も引き続き製作されたが質・量低下傾向。青銅製武器はもはや実用品でなく祭祀用具性格強める。
金属器生産技術発展はヤマト政権富・権力象徴と共に、技術水準高まりと渡来人技術者貢献示す。
5.3. 生活と信仰の変化
この時代の集落・住居、生業、信仰にも変化。
- 集落と住居: 集落は開かれた形態一般化、規模拡大傾向。住居竪穴住居依然主流だが6世紀頃カマド設置開始。熱効率高く煮炊き効率向上、燃料節約、食生活・住居内空間利用変化もたらした可能性。掘立柱建物も有力者居館・倉庫・工房等としてより広く使用。
- 生業: 水稲耕作は鉄製農具普及(限定的か)や灌漑技術改善、牛馬利用(犂耕開始?)等で生産性徐々に向上か。手工業も須恵器生産・金属加工発展に見るように専門化・分業化進む。
- 祭祀の変化: 古墳祭祀は形象埴輪展開や横穴式石室普及伴い、より具体的で家族・氏族祖先崇拝重視方向へ変化。集落内外祭祀も継続されたが6世紀半ば仏教伝来は従来神祇信仰と異なる新信仰もたらし死生観・世界観にも影響開始。沖ノ島祭祀もこの時期(特に5~7世紀)最も隆盛迎え、金製指輪・金銅製馬具・ガラス製品等国際色豊か奉献品捧げられた。ヤマト政権国家的祭祀が対外関係安泰祈願で重要役割果たしたこと示す。
中期~後期はヤマト政権が内外に力示し古代国家体制整える一方、地方社会成長や新文化・思想流入で社会全体が大きく変容していく時代だった。この時代のダイナミズムが次の飛鳥時代における律令国家建設と華やかな仏教文化開花へ繋がっていく。
第三章 律令国家の成立:古代中央集権国家への道
6世紀後半、古墳時代は終焉を迎えつつあった。巨大古墳造営は下火となり、地方では中小群集墳が隆盛。ヤマト政権内部では蘇我氏・物部氏対立が激化し、丁未の乱(587年)を経て蘇我氏が権力掌握。しかし蘇我氏中心体制も旧来の豪族連合構造の枠を大きく超えず、天皇(大王)権威は必ずしも絶対的ではなかった。推古朝(592-628年)、摂政・聖徳太子と大臣・蘇我馬子の連携で、冠位十二階、十七条憲法制定、遣隋使派遣など天皇中心の中央集権国家体制改革が模索されたが、律令国家建設への布石であり体系的法制度に基づく統治には至らなかった。
この時期、東アジアは大変動期。中国大陸では隋(581-618年)、次いで唐(618-907年)が統一王朝を樹立、強力な中央集権体制と高度な法制度(律令格式)整備の巨大帝国を築いた。隋・唐出現は、朝鮮半島三国(高句麗・百済・新羅)や日本列島倭国(ヤマト政権)にとって衝撃・脅威であると同時に、新たな国家モデル提示でもあった。
この国際情勢と国内旧支配体制限界という二重課題に直面したヤマト政権は、7世紀半ば、国家存立・発展をかけ、より抜本的・体系的国家改造へ踏み出す。目標が、隋・唐統治システムを範とした**律令(りつりょう)**に基づく中央集権国家建設であった。
律令とは、**律(りつ)**が刑罰法規、**令(りょう)が国家行政組織、官僚制度、人民支配(戸籍、税制、土地制度等)、儀式等に関する諸規定を中心とする法体系。これを国家統治基本法典とし、天皇頂点の官僚機構通じ全国土地・人民を統一的に支配する国家体制を律令国家(りつりょうこっか)**と呼ぶ。従来の氏族結合や慣習に基づく統治とは全く異なる、成文法に基づく合理的・体系的統治システムを目指すものであった。
本章では、この律令国家形成過程を、出発点とされる**大化の改新(たいかのかいしん、645年)**から、**天智(てんじ)・天武(てんむ)・持統(じとう)三天皇による「改新政治」展開、そして律令国家の法的完成を告げる大宝律令(たいほうりつりょう、701年)**制定に至る約半世紀を詳細に追う。単なる制度導入・模倣でなく、激しい権力闘争(乙巳の変、壬申の乱)、対外戦争敗北(白村江の戦い)と国防意識高揚、「日本」新国家意識形成といった、様々な要因が複雑に絡み合ったダイナミックで劇的な変革の時代であった。この変革を通じ古代日本は新国家ステージへ移行していく。
1. 大化の改新(645年~):中央集権化への劇的な第一歩
日本の律令国家建設の直接出発点が、645年(皇極天皇4年)の**乙巳の変(いっしのへん)**と続く一連政治改革、すなわち大化の改新である。この出来事はヤマト政権権力構造を根底から揺るがし、新国家体制への道を切り開いた。
1.1. 乙巳の変(645年):蘇我氏本宗家の滅亡
- 背景:蘇我氏の権勢とその「専横」への反発: 6世紀末以来、蘇我氏、特に馬子―蝦夷―入鹿と続く本宗家は絶大な権勢を誇った。仏教導入推進、渡来系技術活用で国家運営関与一方、皇位継承に深く介入し、崇峻天皇暗殺(592年)を引き起こすなど天皇をも凌駕するかに見えた。『日本書紀』は蝦夷・入鹿父子時代を**「専横」**として断罪。具体例として、①無許可の祖廟・陵墓造営と人民使役、②甘樫丘私邸の城塞化・私兵配備、③入鹿の子弟を「王子」と呼ばせたこと等を挙げる。後世の潤色可能性もあるが、蘇我氏本宗家への権力集中が深刻な軋轢を生んでいたことは確かであろう。
- 山背大兄王一族滅亡(643年) – 対立先鋭化: 蘇我氏「専横」象徴、乙巳の変直接引金の一つが山背大兄王(聖徳太子子、有力皇位継承候補)とその一族滅亡事件。入鹿は父蝦夷の反対を押し切り、軍勢を斑鳩宮に派遣し山背大兄王一族を攻め滅ぼした。入鹿が障害となる皇位継承者排除し蘇我氏権力盤石化図った暴挙と受け止められ、中大兄皇子ら反蘇我氏勢力の危機感を決定的に高め、クーデターへの直接動機となった。
- クーデター計画と実行 – 中大兄皇子と中臣鎌足: 蘇我氏強権支配に対し、天皇中心新政治秩序確立目指す勢力が水面下で打倒計画推進。中心人物は後に天智天皇となる中大兄皇子と、中臣氏の中臣鎌子(後の藤原鎌足)。二人は蘇我倉山田石川麻呂(入鹿従兄弟)を味方に引き入れ、佐伯子麻呂ら武人も加わった。決行は645年6月12日、飛鳥板蓋宮大極殿での「三韓の調」儀式中。石川麻呂上表文読上げ中に佐伯子麻呂らが斬る手はずも、恐れ躊躇したため中大兄皇子自ら飛び出し入鹿に斬りかかり、子麻呂らも続き入鹿斬殺。
- 蝦夷の滅亡と蘇我氏本宗家終焉: 報を受けた父蝦夷は甘樫丘邸宅に籠もるも、翌日ヤマト政権軍に包囲され、『天皇記』『国記』等重要記録や財宝に火を放ち自殺(一部持ち出されたか)。これにより蘇我氏本宗家は滅亡した。
- 乙巳の変歴史的意義: 単なる権力闘争にとどまらず、①蘇我氏権力独占体制打破、②天皇中心体制への道を開く、③大化改新の前提となる、重要画期。
1.2. 新政権の発足と「改新の詔」 – 新国家構想の提示
乙巳の変後、直ちに新政権組織、国家基本方針が打ち出された。
- 新政権陣容: 皇極天皇譲位、弟軽皇子が孝徳天皇即位。実権は皇太子の中大兄皇子。阿倍内麻呂が左大臣、蘇我倉山田石川麻呂が右大臣に任命(左右大臣制初導入)。中臣鎌足は特別地位の内臣に。ブレーンとして僧旻・高向玄理が国博士に任命され、唐統治システム知識を提供し改革計画立案に影響。
- 元号「大化」制定と難波遷都: 645年6月、日本初独自元号**「大化(たいか)」**制定。国家自立性・新時代開始宣言。同年冬、都を飛鳥から国際港難波の長柄豊碕宮へ遷都。旧勢力から距離置き改革断行、大陸先進文化導入・国際社会対応目指す意志示す。
- 「改新の詔」 – 律令国家基本綱領(理想像か?): 大化2年(646年)正月元旦、孝徳天皇が新政権基本方針示す「改新の詔」(全四か条)発布と『日本書紀』は伝える。後の律令国家根幹理念・制度骨格網羅し、大化改新具体的目標示すものとして重視されてきた。
- 第一条(公地公民制原則): 皇族・豪族土地(田荘)・人民(部曲等)私有支配廃止、全土地・人民の天皇(国家)帰属原則宣言。
- 第二条(中央・地方行政制度整備): 都整備、国・郡・里行政区画編成、国司派遣・郡司任命、駅伝制、関所・防人等国防体制整備方針。
- 第三条(戸籍・計帳と班田収授法実施): 国家による人民直接把握のため戸籍・計帳作成と、それに基づく口分田班給(班田収授法)実施方針。
- 第四条(新税制:租・庸・調): 旧来貢納・労役廃止し、口分田に応じる租、成人男子労役(または代納物)庸、同成人男子への地方特産物調を基本とする全国統一新税制導入方針。
- 史実性論争: しかし詔の646年正月発布か否かは長年学術論争(大化改新詔論争)。内容完成度高く後の大宝律令等と酷似、当時水準で一挙実施困難との疑問から。現在では「詔文言自体は『日本書紀』編纂時(8世紀初頭)に後の視点から理想化・体系化して創作・追記された部分が多い」との見解有力。646年時点の具体計画書というより、新政権が目指した律令国家建設基本理念・改革方向性示すマニフェストであり、内容は後の「改新政治」で段階的に具体化・実現されたと理解するのが実態に近いとされる。
1.3. 改新政治の初期の施策 – 理念実現への試みと限界
大化年間(645-650年)には「改新の詔」理念実現に向けたいくつかの具体的施策が試みられた。
- 東国等への国司(使者)派遣(645年): 中央統制力強化のため戸口・田畑調査、豪族紛争調停、武器収公、交通路整備等実施も実効性限定的か。
- 品部・部曲再編・廃止試み: 公地公民原則に基づき皇族・豪族私有民の国家管理目指すも、豪族の経済・軍事基盤脅かすため強い抵抗予想され実施極めて困難か。完全廃止は天武朝待った可能性。
- 薄葬令(646年): 身分に応じ墳墓規模・形状・期間、副葬品等を規定。民衆負担軽減、豪族権威抑制、国家による身分秩序統制目的。巨大古墳築造次第に縮小、古墳文化変質・衰退一因に(完全遵守かは不明)。
- 鐘と櫃設置: 天皇が民の声聞く姿勢示すシンボル的施策か。
初期施策は新政権が理念実現試みたこと示すが、多くは試行的・部分的で全国徹底されず、改革は依然多困難伴った。
1.4. 大化改新の歴史的意義と限界
広義の「大化の改新」は日本古代史で画期的意義持つ。
- 歴史的意義:
- 律令国家建設の明確な出発点: 天皇中心中央集権統一国家構想示され具体的改革開始。古代国家新発展段階への決定的転換点。
- 蘇我氏専横体制打破と権力構造転換: 特定有力氏族主導から、天皇主権原理とし官僚制に基づく統治目指す体制への転換図る大契機。
- 大陸(隋・唐)制度本格導入: 先進的律令制度・都城制等をモデルとした国家建設が本格的・体系的に目指された。
- 限界と課題: 短期間で全改革実現、律令国家完成せず。
- 改革への抵抗: 急進改革は伝統的豪族層から強い抵抗・反発予想。理念と現実ギャップ大きく実施困難伴い妥協・後退余儀なくされたか。
- 制度未成熟: 国郡里制、国司・郡司任命、全国的戸籍・班田等は膨大時間・労力・試行錯誤要し、大化年間だけで実現不可。全国整備・定着に後半世紀近い歳月必要。
- 政権内部対立: 新政権内部も一枚岩でなく、後に孝徳天皇・中大兄皇子間対立発生。蘇我倉山田石川麻呂謀反疑いで自殺等、政権基盤必ずしも安定せず。
大化改新は律令国家完成への長い道のりの第一歩であり、その後の**「改新政治」**で、試練経て段階的に進められることになる。
2. 改新政治の展開(646年~701年):試練と中央集権化の進展
大化改新で示された律令国家建設基本方針は、その後約半世紀の「改新政治」で、試練に直面しつつ段階的に具体化、中央集権化が進展。白村江敗戦という対外的危機と壬申の乱という国内最大動乱を経て、国家体制急速強化過程。
2.1. 孝徳朝後半の動揺と白雉(はくち)年間
意欲的改革着手した孝徳天皇だが治世後半(白雉年間、650-654年)には政権内部対立表面化、改革停滞。
- 中大兄皇子との対立: 改革主導権・進め方・対外政策(対新羅関係等)巡り天皇と皇太子・中大兄皇子間対立深刻化。
- 有力者相次ぐ死と政変: 大化5年(649年)左大臣・阿倍内麻呂死去。同年、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が讒言され中大兄皇子に攻められ自殺(石川麻呂の変)。政権内部不安定さ露呈。
- 飛鳥への還都強行と孝徳天皇孤立: 白雉4年(653年)、中大兄皇子は天皇反対押し切り母(前皇極太上天皇)や皇后ら連れ都を難波宮から飛鳥へ戻す強行。孝徳天皇は難波宮に留まり政治的に完全孤立。
- 孝徳天皇憤死: 失意・憤りの中、翌白雉5年(654年)難波宮で崩御。改革理想半ばで挫折。「白雉」元号は白雉元年(650年)白雉献上を瑞祥として改元。この時期第二次遣唐使派遣も重要。
2.2. 斉明天皇の重祚と対外政策の積極化
孝徳天皇死後、中大兄皇子は即位せず母・前皇極太上天皇が再即位(重祚)し斉明天皇に(在位655-661年)。中大兄皇子実権握りつつ政権安定図ったか。斉明朝では中大兄皇子主導で対外政策再積極化、国内大規模土木工事行われ波乱含み。
- 北方・南方勢力拡大: 阿倍比羅夫将軍水軍が日本海北上し蝦夷・粛慎と交戦・交歓。南方南島への関与強化形跡も。ヤマト政権領域意識拡大示す。
- 大規模土木工事と民衆不満: 飛鳥で新宮殿(後飛鳥岡本宮)、巨大石造物、運河(狂心渠)等次々造営。天皇権威誇示だが人民負担大きく「狂たる政」と批判された記述も。
- 百済救援への傾斜: 東アジア情勢緊迫化。唐・新羅連合勢力拡大し百済・高句麗圧迫。百済存亡危機瀕しヤマト政権へ繰り返し救援要請。斉明天皇・中大兄皇子はこの要請応え国家総力挙げた大規模百済救援軍派遣決定。
2.3. 白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)とその衝撃
ヤマト政権国運賭けた百済救援は古代東アジア史最大級国際戦争・白村江の戦いへ繋がり、日本側大敗北という悲劇的結末に。敗北はヤマト政権に深刻衝撃与え、その後の国家体制あり方を大きく左右。
- 背景:百済滅亡と復興運動: 660年唐・新羅連合軍侵攻で百済滅亡。遺臣ら抵抗続け復興運動展開。倭国滞在百済王子・豊璋を新王に擁立、倭国へ王帰国と大規模援軍派遣強く要請。
- ヤマト政権全面介入: 斉明天皇・中大兄皇子要請応え国家存亡賭け全面介入決断。数万人規模大軍、数百隻軍船動員。661年斉明天皇筑紫朝倉宮まで親征するも崩御。中大兄皇子は(即位せず「称制」として)母遺志継ぎ作戦続行。
- 戦闘経過:壊滅的大敗北: 倭国援軍(主力663年到着)は百済遺民軍と合流、周留城等巡り唐・新羅連合軍と激攻防。663年8月、倭国水軍は白村江で待ち受けた唐・新羅連合水軍と海戦。『日本書紀』によれば倭国水軍は数で勝るも統率乱れ突撃、唐水軍挟撃・火計等で大混乱、「卒は溺れ死ぬ者多く」「倭船四百艘焼き」と描写される壊滅的大敗北喫す。
- 結果と影響:
- 百済復興完全失敗: 王豊璋は高句麗へ亡命、周留城陥落。百済王族・貴族ら多数が倭国へ亡命(百済難民)。
- 深刻な対外的危機感: 未曽有国難。唐・新羅侵攻現実脅威との**深刻な危機感(国防意識)**が広く共有。
- 中央集権化・律令国家建設決定加速: 対外的危機感が国内体制強化、すなわち天皇中心強力中央集権国家(律令国家)建設を待ったなし課題として急速加速させる最大要因に。国防整備と並行し人民・資源一元把握・動員のため戸籍制度確立、官僚機構整備、統一法典・律令編纂等内政改革が国家存亡かけた急務として強力推進。白村江敗戦は日本の古代国家形成方向性決定づける極めて重大転換点。
2.4. 天智天皇の政治:国防体制の強化と近江令
国難に直面した中大兄皇子は戦後処理・国家体制再建の重責担う。668年正式即位し天智天皇に(在位668-671年、称制661年~)。天智治世は国防体制強化と律令国家建設向け制度整備が精力的に進められた。
- 国防体制強化 – 西日本防衛ライン構築:
- **防人(さきもり)・烽(とぶひ)**設置: 対馬・壱岐・筑紫に辺境防備兵と敵襲知らせる烽設置。
- **水城(みずき)**築造(664年): 大宰府防衛のため博多湾沿低地に長大土塁・濠からなる水城建設。
- 朝鮮式山城築造(665年~): 大宰府背後(大野城・基肄城)、瀬戸内沿岸(長門城、屋嶋城等)、畿内(高安城)に堅固な朝鮮式山城建設。国土の縦深防衛ライン構築。
- 近江大津宮遷都(667年): 都を飛鳥から琵琶湖畔近江大津宮へ移転。国防上理由、旧勢力影響力断絶、新都建設等目的か。しかし抵抗・不満強く、後の壬申の乱遠因の一つか。
- **庚午年籍(こうごねんじゃく)**作成(670年): 全国統一基準で作成された日本初恒久的戸籍とされる。国家が人民直接支配(公民支配)基礎確立の画期的試み。班田収授法実施や確実な徴税・徴兵の理論上基礎に。従来の豪族部民支配から国家直接人民支配へ転換する決定的一歩。
- 近江令制定?: 『日本書紀』に明記ないが天智代に藤原鎌足ら中心に編纂されたとされる令(行政法)存在が近年有力視。もし存在すれば日本初体系的律令法典試みで後律令編纂の重要基礎となったか。
- 藤原鎌足死: 盟友鎌足(内臣)は死に臨み大織冠と新姓藤原賜り藤原氏始祖となるも669年死去。天智天皇に大痛手、後の政権運営・後継者問題に影響か。天智政治は国難に対し国防強化・中央集権化強力推進も、急激改革・近江遷都は反発招き政権基盤盤石でなく死後古代最大内乱へ。
2.5. 壬申の乱(じんしんのらん、672年):古代最大の内乱と天武天皇の勝利
天智天皇崩御(671年末)後、後継者地位巡り、天皇子・大友皇子(弘文天皇)と天皇弟・大海人皇子(天武天皇)間で古代史上最大規模内乱・壬申の乱勃発。単なる皇位継承争いでなく、大化改新以来の中央集権化路線帰趨決め、その後の日本国家体制を大きく方向づける決定的戦い。
- 背景:複雑な皇位継承問題と政治対立:
- 大友皇子(弘文天皇): 天智後継者として太政大臣任命、近江朝廷改革路線継承立場。近江朝廷官人層支持。天智死後即位したとされるが『書紀』記載なく明治時代まで正式天皇と見なされず。
- 大海人皇子(天武天皇): 天智同母弟。有力候補者も兄と対立から皇位継承権辞退し吉野隠棲。しかし天智朝急進改革・近江遷都に不満持つ旧来豪族層(特に畿内・東国豪族)等から潜在的期待。
- 対立構図: 天智**近江朝廷改革路線(新興勢力、中央集権強化)と、それに反発・不満持つ旧来勢力(伝統的豪族、地方勢力)**との、より大きな政治的・社会的対立構造背景。
- 挙兵と戦闘経過:
- 大海人皇子挙兵(672年6月): 近江朝廷側からの身の危険察知し吉野で挙兵。伊賀・伊勢経由し美濃へ。
- 東国勢力結集: 東国豪族多くが応じ数万規模兵力集結。美濃不破関封鎖し近江朝廷東国兵力動員阻止が戦略上重要。
- 近江朝廷対応: 大友皇子側も畿内・西国豪族に動員命じ迎撃。
- 主要戦闘: 約1ヶ月間、畿内各地や美濃で激戦。大和方面一進一退。近江・美濃方面は大海人皇子主力軍が東国援軍得て近江へ進撃。
- 瀬田川決戦: 7月22日、大海人皇子軍が瀬田橋突破、翌日近江宮に迫る。
- 大友皇子最期と乱終結: 大友皇子は山前へ逃れ7月23日自害。大海人皇子の全面勝利で終結。
- 壬申の乱意義 – 古代国家体制画期: 日本古代史上、その後政治体制あり方決定づけた極めて重要画期。
- 天武天皇による専制的権力確立: 武力で皇位獲得し、豪族連合基盤に依存しない強力専制権力確立。後律令国家建設強力推進の大原動力に。
- 中央集権化・律令国家建設加速: 天武天皇は強大権力背景に天智路線をより徹底継承・推進。律令(飛鳥浄御原令)編纂、官僚機構整備、人民支配強化(部曲廃止等)、天皇神格化等強力推進し律令国家建設加速。
- 豪族勢力再編: 乱勝敗で豪族地位大変動。近江朝廷側没落、大海人皇子側(特に東国豪族、大伴氏等一部畿内豪族)が新台頭し天武朝政権中核に。権力バランス大変化。
- 「天皇」号・「日本」国号使用開始?: 天武天皇代からとする説有力。内外へヤマト政権新段階入ったこと宣言。
壬申の乱は単なる皇位継承内乱でなく、大化改新以来改革路線最終勝利確定、天武天皇強力専制支配とそれを基盤とした律令国家体制急速建設への道開いた、古代史決定的分水嶺。
3. 律令国家の形成(673年~702年):天武・持統朝から大宝律令へ
壬申の乱勝利で絶大権力得た天武天皇と、皇后であり夫死後自ら即位し事業継承した持統天皇時代(673年~697年、持統譲位まで)は、日本の律令国家体制が急速整備・確立される「国家形成」時代。両天皇強力リーダーシップ下、律令編纂、官僚制整備、都城建設、国史編纂等精力的に進められ、集大成として8世紀初頭に大宝律令が完成・施行。
3.1. 天武天皇の専制政治と中央集権化 – 理想国家の追求と天皇神格化
天武天皇(在位673-686年)は壬申の乱勝利背景に強力専制君主として君臨。天皇権威絶対化・神格化、皇族重用**「皇親政治」**展開で豪族勢力介入排し、天皇主導中央集権国家体制確立を強力推進。
- 天皇神格化: 自ら現人神と位置づけ権威宗教的にも高める。「天皇」号使用開始(有力説)、伊勢神宮地位向上、神道国家統治イデオロギー再編成等はその現れか。
- 皇親政治: 子弟・近親皇族を政権中枢登用。壬申の乱教訓から信頼できる皇族で政権基盤固め豪族影響力相対的低下図るか。一方で皇族間後継者争い誘発要因とも(例:大津皇子謀反事件686年)。
- 官僚制整備: 天皇専制支配実務的に支える官僚機構整備進展。官位制度改め官職対応関係明確化、朝廷儀礼・服制定める等、官僚秩序確立図る。豪族私有支配部曲廃止方針打ち出し(完全実施には時間かかった)、国家による人民直接支配(公民制)強化図る。
- **八色の姓(やくさのかばね)**制定(684年): 旧来氏姓制度を天皇との親疎基準に抜本的再編成目指し、新真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置八姓制定。最上位真人・二番目朝臣に皇族系・功臣を位置づけ、旧臣・連より上位とし天皇中心新身分秩序構築、有力豪族明確序列化目指す。皇族地位格段高まり天皇権威強化。朝臣姓得た藤原氏(不比等)等新支配階層台頭契機に。
- **富本銭(ふほんせん)**鋳造(683年頃): 国家による貨幣発行試み。文字記載ある最古鋳造貨幣とされる。流通範囲都周辺に限られたが、貨幣発行は国家権威示すと共に経済統制強化図る中央集権化政策一環。
- 律令編纂開始: 国家統治基本法典となる体系的律令編纂命令。近江令参考にしつつ唐律令研究し日本国情に合わせ法典作り開始。天武代未完成も後の飛鳥浄御原令として結実。
- 国史編纂推進: 国家成り立ち・天皇支配正統性明確化のため国史編纂命令。帝紀・旧辞整理・記録させたとされ、後の『古事記』『日本書紀』編纂事業へ繋がる。
天武治世は強大権力背景に律令国家建設向け諸改革集中的・強力推進。専制政治は後の天皇制あり方に大影響与え、古代国家体制基礎固める上で決定的役割果たした。
3.2. 持統天皇の政治と藤原京遷都 – 律令国家の完成へ
天武天皇崩御後、皇后・鸕野讚良皇女(天智娘)が皇太子・草壁皇子早世等受け自ら即位、持統天皇に(在位690-697年、称制686年~)。持統天皇は亡夫遺志継ぎ、律令国家体制完成へ極めて強力リーダーシップ発揮。
- 飛鳥浄御原令施行(689年): 天武朝開始令編纂完成、施行。日本初体系的律令法典(令のみか律も存在か議論あり)として後の律令編纂基礎に。官僚制度、地方行政、人民支配等基本規定含んだと考えられ、律令に基づく国家統治本格開始。
- 庚寅年籍(こういんねんじゃく)作成(690年): 天智庚午年籍以来20年ぶり、全国規模新戸籍作成。飛鳥浄御原令規定に基づき人民を「戸」単位で正確把握、後の班田収授法本格実施(持統朝開始説有力)や徴税・徴兵制度運用基礎資料に。国家人民支配体制大前進。
- 藤原京遷都(694年) – 日本初の本格的都城: 持統治世最大事業。都を飛鳥浄御原宮から北方藤原京(現橿原市)へ移転。
- 特徴:条坊制と壮大宮殿: 唐長安モデル日本初本格的条坊制都城。碁盤目状区画(やや歪みも判明)、中央北部に広大藤原宮設置。藤原宮は高塀囲まれ大極殿・朝堂院等備えた壮大宮殿。建物は礎石建て・瓦葺き大陸風壮麗なものと確認。藤原京規模は東西約5.3km、南北約4.8kmと推定され後平城京・平安京より広大。
- 意義:律令国家象徴: 広大計画的都城建設は天皇中心中央集権律令国家体制確立を内外に視覚的に示す壮大国家プロジェクト。整然都市空間・壮麗宮殿は天皇権威・国家威容象徴し新政治秩序確立印象づけた。藤原京は約16年間(694-710年)日本の政治・文化中心に。構造・理念は後の平城京、平安京へ受け継がれる日本都城史の重要画期。
持統天皇は夫路線継承し大事業成し遂げ律令国家骨格完成。強力な政治手腕・意志は古代女帝の中でも際立つ。
3.3. 大宝律令(たいほうりつりょう)の完成と施行(701年) – 律令国家体制の法的確立
持統天皇から譲位された文武天皇(天武・持統孫、在位697-707年)代に、日本の律令国家体制を法的に完成させる画期的法典・大宝律令が編纂・施行。日本が名実ともに律令に基づく統治システムへ移行した一大事業。
- 編纂経緯と中心人物: 文武天皇即位後まもなく新律令編纂命令。中心は天武皇子・刑部親王と藤原不比等。先行飛鳥浄御原令基礎としつつ唐律令(特に永徽律令)を主要参照モデルに、日本国情に合わせ取捨選択・修正加え体系的・網羅的律令作成進めた。
- 完成と施行: 大宝元年(701年)完成。元号「大宝」はこの律令完成記念か。**翌大宝2年(702年)**から全国施行。これにより日本は律・令揃った本格律令法典持つ国家に。
- 律令内容(概略): 律6巻(刑法)、令11巻(行政法・民法等)。国家基本構造関わる主要規定は以下。
- 官制(令):
- 中央官制(二官八省制): 二官(神祇官、太政官)八省体制確立。神祇官上位特徴。太政官(太政大臣、左右大臣、大納言等公卿合議)が政務統括。八省(中務、式部、治部、民部、兵部、刑部、大蔵、宮内)が実務分担。他に弾正台、五衛府等。
- 地方官制(国郡里制): 全国を国・郡・里に編成。国:中央から国司派遣統括。郡:在地有力豪族から郡司任命し国司監督下で担当。里:里長が末端行政担当。特別行政区:京職、摂津職、大宰府設置。
- 人民支配(令):
- 戸籍・計帳: 6年ごと戸籍、毎年計帳作成し人民把握基本。
- 班田収授法: 原則6歳以上良民男女へ口分田班給(一代限り)、死亡時収公。公地公民原則実現図る。
- 租税制度(租・庸・調・雑徭): 租(稲)、庸(労役or代納物)、調(地方特産物)、雑徭(地方労役)基本。他に出挙(公稲利息)、公廨(国司収入源)も。
- 軍事制度(令): 軍団(正丁から徴発)、衛士(都警備)、防人(九州防衛)設置。
- 刑罰(律): 唐律モデル五刑(笞・杖・徒・流・死)基本。八虐重罰、官当(官位に応じ刑減免)制度も。
- 官制(令):
- 大宝律令歴史的意義:
- 律令国家体制法的確立: 日本初律・令揃った体系的法典。制定・施行により天皇頂点中央集権律令国家体制が法的に確立。
- 全国的・統一的支配実現: 全国統一行政組織・人民把握システム・土地制度・租税制度・軍事制度施行し、中央政府全国支配実現の法的根拠に。
- 後世への長期的影響: 若干修正(養老律令)経ながら奈良・平安時代通じ国家統治基本法典として機能し続け、後世日本法制度・政治体制・社会に長期大影響。
- 限界: 理念(特に公地公民制・班田収授法)と日本現実社会間には当初から乖離も。律令制は後社会経済変化で徐々に変容・弛緩していく。しかし基本枠組みは古代日本国家・社会規定で決定的役割果たした。
大宝律令完成・施行(701-702年)は大化改新(645年)から始まった約半世紀律令国家建設事業の一到達点、日本古代国家体制確立示す画期的出来事。これにより日本は東アジア律令国家群一員として新時代(奈良時代)迎える準備整えた。
第四章 飛鳥・白鳳文化:律令国家と仏教美術の開花
6世紀後半から8世紀初頭にかけては、政治的な激動期であると同時に、文化史上の重要な転換期でもあった。この約150年間は、7世紀前半の飛鳥(あすか)文化と、7世紀後半から8世紀初頭の白鳳(はくほう)文化(美術史上の慣用的な呼称)に大別される。これらの文化は、古墳時代の終焉と律令国家形成という社会変動の中、日本文化が新たな段階へ飛躍する過程を示す。
最大の契機は6世紀半ばの仏教公伝である。仏教は新宗教思想のみならず、壮大な寺院建築、荘厳な仏像彫刻、華麗な絵画・工芸、経典(文字文化・学術)、暦法、医学といった先進文化体系を伴って流入し、古代日本の社会・文化全般に根源的かつ広範な影響を与えた。
飛鳥文化は仏教文化の黎明期にあたり、政治中心地・飛鳥の名を冠す。仏教受容を巡る対立を経て、聖徳太子や蘇我氏の保護下、朝鮮半島三国(特に百済・高句麗)や中国南北朝文化の影響を色濃く受け、日本の仏教美術の礎が築かれた。力強く素朴で深い精神性を特徴とする。
一方、白鳳文化は大化の改新(645年)や壬申の乱(672年)後、天武・持統朝の律令国家体制確立期に花開いた。隋を経て統一帝国となった唐(特に初唐)文化の影響がより直接的となり、飛鳥文化の伝統を継ぎつつ、洗練され、明るく若々しい清新な気風を持つ国際色豊かな文化へと展開した。法隆寺金堂壁画や薬師寺薬師三尊像、高松塚古墳壁画はその代表例である。
本章では、この飛鳥・白鳳文化の内容を、建築、彫刻、絵画、工芸、学術、文学など多角的に掘り下げる。各時代の文化が、政治的・社会的背景、国際的影響、日本の風土・精神性の中でいかに受容・変容し、独自の創造へ昇華したか。その展開過程を最新研究も踏まえ詳細に見ていくことで、後の天平文化、国風文化へと繋がる日本文化の源流を探る。
1. 飛鳥文化(7世紀前半中心):仏教文化の受容と創造の息吹
飛鳥文化は、政治中心が飛鳥(現・奈良県明日香村周辺)にあり、特に推古天皇治世(592-628年)を中心とする7世紀前半に展開した、日本最初の本格的仏教文化である。外来仏教文化を熱心に受容し、それを基盤に日本独自の創造が芽生え始めた文化黎明期であった。
1.1. 時代背景:推古朝の政治と仏教興隆
仏教公伝後、その受容を巡り、先進文化導入に積極的な蘇我稲目・馬子ら崇仏派と、古来の神祇信仰を重視する物部尾輿・守屋や中臣鎌子ら排仏派が激しく対立。これは政権主導権争いでもあり、最終的に丁未の乱(587年)で蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし決着。これにより仏教受容への道が開かれ、国家的な保護・利用へと進んだ。
丁未の乱後、推古天皇が即位し、甥の聖徳太子(厩戸皇子)が摂政、蘇我馬子が大臣となり協調政治が進められた。聖徳太子は仏教に深く帰依し、その思想(特に『法華経』の万民救済や平和主義)を国家統治の精神的支柱と重視。十七条憲法第二条で「篤く三宝を敬へ」と述べ、仏教を国家・社会の基本原理と位置づけた。遣隋使派遣による大陸文化導入でも仏教を重視。蘇我馬子も仏教を熱心に信仰・保護し、寺院建立は権勢誇示と氏族繁栄祈願の手段でもあった。
聖徳太子・蘇我馬子の保護下、有力豪族も競って氏寺を建立。氏寺建立は、①信仰表明、氏族繁栄・祖先冥福祈願の宗教的目的、②先進文化導入による権威誇示の政治・社会的目的、③氏族結束の拠点、等の意味を持った。結果、飛鳥周辺には、飛鳥寺(法興寺、元興寺)(596年創建、蘇我氏)、四天王寺(聖徳太子伝承)、法隆寺(斑鳩寺)(607年頃創建か、聖徳太子伝承)、中宮寺(聖徳太子母伝承)、広隆寺(渡来系・秦河勝伝承)など多くの寺院が建立され、飛鳥文化は仏教文化として展開した。
1.2. 建築:大陸様式の導入と日本的展開
仏教寺院建立は日本の建築史に革命をもたらした。従来の掘立柱建物に代わり、大陸から礎石、柱、組物、瓦葺き屋根といった堅牢で壮麗な建築技術・様式が導入された。寺院中心部には、塔、金堂、講堂、回廊、中門、南大門等の主要建物(伽藍)が計画的に配置された。
- 飛鳥寺(法興寺)の伽藍配置(一塔三金堂式): 発掘調査で中央に塔、その北・東・西に金堂を配す特異な一塔三金堂式と判明。高句麗様式の影響と見られ、塔中心は仏舎利信仰重視を示す。本格的瓦使用の始まり。
- 四天王寺式伽藍配置: 聖徳太子伝承の四天王寺(現存せず)は、南から中門、塔、金堂、講堂を一直線に配し回廊で囲む四天王寺式。中国南北朝様式の影響とされ、後の寺院配置基本の一つ。
- 法隆寺(斑鳩寺)西院伽藍: 現存世界最古の木造建築群。創建(若草伽藍)と再建論争: 『日本書紀』の天智9年(670年)焼失記事を巡り、現存西院伽藍が聖徳太子創建当初か、焼失後再建(7世紀末~8世紀初頭)かを巡る法隆寺再建・非再建論争が長年続いた。
- 再建説の有力化: 1939年の若草伽藍跡(焼けた寺院跡、四天王寺式、現伽藍より古い瓦出土)発見により、①創建(若草伽藍)→②670年焼失→③現西院伽藍再建、とする再建説が現在定説。再建時期は**7世紀末~8世紀初頭(白鳳時代)**が一般的。
- 現存西院伽藍の配置(法隆寺式伽藍配置): 回廊内、左(西)に五重塔、右(東)に金堂を非対称に配す独特の法隆寺式。日本独自の創出で、塔と金堂の双方重視・視覚的バランス考慮の結果か。
- 建築様式(金堂・五重塔): 再建期は白鳳期とされるが、様式には飛鳥時代の古い要素が色濃く残る。柱のエンタシス(胴張り)、雲形斗栱・雲形肘木(曲線的な組物)、卍崩しの高欄などは、中国六朝・北魏様式の影響を示し、国際性と古拙な魅力を伝える(国宝)。
1.3. 彫刻:止利様式と古拙な魅力
仏教伝来は仏像という新彫刻形式をもたらした。飛鳥時代の仏像は、渡来仏師やその弟子により制作され、大陸様式(特に中国・北魏様式)の影響を強く受けた、力強く神秘的な作風を特徴とする。特に鞍作止利(くらつくりのとり)確立の止利様式はこの時代を代表する。
- 仏師・鞍作止利: 渡来人・司馬達等の孫とされる。蘇我馬子・聖徳太子の庇護下で飛鳥寺釈迦如来像や法隆寺金堂釈迦三尊像など国家的重要仏像制作を担った宮廷仏師。
- 止利様式の特徴(北魏様式影響):
- 硬質で左右対称(シンメトリー)な構成。
- 面長の顔、杏仁形(アーモンド形)の目、鋭い眉、神秘的な古拙の微笑み(アルカイック・スマイル)、仰月形の唇。超俗的・理念的な威厳・慈悲表現。
- 深く鋭く刻まれ左右対称で装飾的な衣文(えもん)。坐像の**裳懸座(もかけざ)**表現は規則的。
- 舟形光背には忍冬唐草文様、火焔文様、飛天などを精巧に表現。
- 止利様式の代表作:
- 飛鳥寺 釈迦如来像(飛鳥大仏): 606年or609年完成伝承、現存最古仏像(銅造、重文)。大部分後補だが顔貌等に当初様式残る。
- 法隆寺 金堂 釈迦三尊像: 623年完成銘(信憑性議論あり)、聖徳太子追善供養のため造像(金銅仏、国宝)。中尊像は止利様式の典型で飛鳥彫刻最高傑作の一つ。
- その他の様式(非止利様式、南朝・百済・新羅影響): より柔和で人間味のある自然主義的な仏像も存在。
- 法隆寺 夢殿 救世観音像: 聖徳太子等身像伝承(木造、国宝)。止利様式に近い要素もあるが、体つき・衣文はより柔らかい。南朝様式影響の百済仏との関連指摘。
- 中宮寺 半跏思惟像(伝如意輪観音): 木造(楠)、国宝。右脚を左膝に乗せ思索する姿。優美で穏やかな微笑み、丸みある柔らかな体つき、自然な衣文が特徴。朝鮮三国(特に新羅)の同形式像と強い関連。
- 広隆寺 半跏思惟像(宝冠弥勒): 木造(赤松)、国宝。中宮寺像に似るが、よりすらりとした体型。新羅渡来仏か渡来系仏師作説が有力。
- 材質と技法: 主に金銅仏(銅鋳造・金鍍金)と木彫仏(一木造、樟材多用)。
飛鳥彫刻は大陸様式影響下、日本の仏師が咀嚼し独自表現を生み出した過程を示し、日本仏教彫刻史の出発点として重要。
1.4. 絵画・工芸:大陸文化の息吹と日本の技
飛鳥時代の絵画・工芸品も仏教導入で新展開、大陸文化(中国六朝、朝鮮三国)の影響を色濃く反映。遺品は少ないが技術水準の高さと国際性を示す。
- 法隆寺 玉虫厨子: 大宝蔵院蔵、飛鳥時代の工芸・絵画様式を総合的に示す貴重な遺品(国宝)。
- 構造と装飾: ヒノキ材黒漆塗り、宮殿建築模倣。透かし彫り金銅金具下に玉虫の翅が貼られていた(現存せず)独創的装飾。
- 須弥座絵: 厨子基壇に仏教説話画(漆絵or密陀絵)。「捨身飼虎図」「施身聞偈図」は人物・山水表現に中国六朝絵画様式影響強く、飛鳥絵画最重要作例。
- 意義: 建築様式、独創的装飾技法、六朝様式絵画など、飛鳥時代の技術水準・大陸文化受容・日本独自創造を示す傑作。
- 中宮寺 天寿国繡帳: 聖徳太子妃・橘大郎女らが太子の往生した「天寿国」の様子を偲び刺繍させた帳(国宝、現存断片)。太子や父母、侍者、天寿国情景、「世間虚假 唯仏是真」銘文等。当時の死生観・浄土信仰・太子追慕を伝え、現存日本最古の刺繍遺品としても貴重。
- 法隆寺 伝橘夫人念持仏と厨子: 金銅阿弥陀三尊像(白鳳様式)と木製厨子(国宝)。厨子扉絵菩薩・天人像に飛鳥様式名残。基壇蓮池表現も優れる。
- 染織品(法隆寺裂): 法隆寺伝来の飛鳥時代可能性ある多様な染織品。錦、綾、羅、刺繍等。獅子狩文錦などササン朝ペルシャ・中国影響の国際色豊かなデザインは、高度技術とシルクロード文化交流を示す。
これら絵画・工芸品は、飛鳥文化が仏教美術中心ながら、各分野で大陸文化を積極受容し、日本の感性で消化・創造した過程を示す。
1.5. 学術・思想 – 仏教・儒教と国家意識の萌芽
仏教受容に伴い、学術・思想面も新展開。
- 仏教研究の進展: 聖徳太子は『法華経』『勝鬘経』『維摩経』注釈書(三経義疏)を著したと伝わる(真偽議論あり)。大乗仏教精神の広範な理解を示す。高句麗僧・慧慈、百済僧・慧聡ら渡来僧が理解・普及に大役割。
- 儒教思想の浸透: 仏教と並び、儒教も国家統治理念・官僚倫理として重視・浸透。十七条憲法には**「和」「礼」「信」**など儒教的徳目が随所に盛られ、官僚道徳規範として提示。仏教・儒教が相互補完し国家理念形成に影響。
- 国史編纂の開始: 推古28年(620年)、聖徳太子・蘇我馬子が**『天皇記』『国記』**編纂。現存しないが、ヤマト政権が支配正統性を歴史的に確立しようとする国家歴史意識萌芽を示す重要出来事。後の『古事記』『日本書紀』編纂の出発点。
飛鳥文化は外来仏教文化を軸としつつ、それを主体的に受容・理解し、日本の風土・精神性・国家建設必要性と結びつけ、独自の文化創造を開始。その遺産は後世の日本文化形成の重要第一歩であり礎となった。
2. 白鳳文化(7世紀後半中心):律令国家形成期の新しい息吹と国際性
白鳳文化は、大化の改新(645年)から壬申の乱(672年)を経て、天武・持統朝(7世紀後半~8世紀初頭)の律令国家体制確立期に展開。「白鳳」は元号でなくこの時期の文化様式、特に美術様式を指す慣用的な呼称。飛鳥文化に対し、新たに東アジアに君臨した唐(特に初唐)文化の直接影響を強く受けた点が最大の特徴。結果、古拙さ・硬質さから脱却し、洗練され、明るく若々しい清新な気風を持つ国際色豊かな文化として花開いた。律令国家建設という国家プロジェクトと東アジアとの緊張感ある関係性が背景にあった。
2.1. 時代背景:天武・持統朝の中央集権化と国際意識
壬申の乱勝利後、天武天皇は強大権力掌握、天皇中心専制支配確立。続く持統天皇も路線継承し、飛鳥浄御原令施行、庚寅年籍作成、藤原京遷都などで律令国家基盤を固めた。この政治的安定と強力リーダーシップが白鳳文化興隆の基盤となった。
律令国家建設は国家威信高揚と新秩序象徴のため文化事業を伴った。国家仏教理念下、官寺(大官大寺、薬師寺等)造営が大規模に進み、最新建築様式や荘厳仏像・壁画が導入された。国史編纂や新都(藤原京)建設も国家正統性・威容示す重要文化事業だった。
白村江敗戦(663年)は唐の強大国力・先進文化を痛感させ、天智・天武朝では国防強化と並行し唐制度・文化(律令、都城計画、仏教美術等)を国家建設モデルとして積極摂取。遣唐使は一時中断も、それまでの情報蓄積や渡来人、新羅交流を通じ、初唐文化は支配者層に強い憧憬を与え白鳳文化形成に決定的影響を及ぼした。
2.2. 建築:新しい伽藍配置と壮麗な様式
白鳳時代は国家事業としての寺院建立が本格化、大陸(特に唐)影響の新しい建築様式・伽藍配置が登場。
- 国家仏教隆盛と官寺建立: 天武天皇は仏教を国家鎮護の柱とし官費で壮大寺院建立。大官大寺(飛鳥、後の大安寺)、薬師寺(藤原京、皇后病気平癒祈願)等。
- 薬師寺式伽藍配置(一金堂二塔式): 平城京薬師寺(世界遺産)は、中門正面に金堂、手前左右に**二塔(東塔・西塔)**を対称配置する壮大な構成。唐寺院様式影響とされ、左右対称性重視の華麗で整然とした空間構成は白鳳美意識を象徴(創建時・本薬師寺は一塔式説あり)。
- 薬師寺東塔: 平城京薬師寺唯一創建当初(奈良時代初頭新築説有力)姿を伝える三重塔(裳階付き六重に見える)(国宝)。「凍れる音楽」と評される絶妙バランスと軽快さは白鳳建築最高傑作とされる。
- 法隆寺西院伽藍再建: 現存主要建物は白鳳時代(7世紀末~8世紀初頭)再建説有力。古式要素残しつつ、構成・細部意匠に白鳳期新感覚も反映か。
- 藤原宮: 日本初本格的条坊制都城・藤原京中心の宮殿・政庁。約1km四方宮域、中心に壮大な大極殿、南方に朝堂院。礎石建て・瓦葺き大陸風壮麗建物群は天皇中心律令国家体制の権威・秩序を建築空間として具現化。
白鳳建築は国家事業として唐様式を取り入れ、壮大で整然とした新時代の到来告げる空間を創出した。
2.3. 彫刻:初唐様式の洗練と人間味
白鳳彫刻は飛鳥時代の硬質・神秘的様式から脱却、唐(特に初唐)仏教美術様式影響で、より自然で人間味あふれる洗練された作風へ大きく変化。若々しい生命感と穏やかな気品に満ちる。
- 様式の特徴(初唐様式共鳴):
- 自然で立体的な身体表現。豊かで立体感ある肉付け。左右対称・平板から脱し、**三曲法(S字カーブ)**のような動きある自然な姿態。
- 柔らかく流麗な衣文。浅く柔らかく身体に沿う自然な表現。衣が薄く身体密着し肉体起伏示す表現も。
- 若々しく人間味ある表情。丸み帯びた自然な顔立ち、整った目鼻立ち。穏やか理知的で若々しい生命感、人間的親しみやすさ。
- 童子形。幼さ残る愛らしい表現も特徴。
- 代表作:
- 薬師寺 金堂 薬師三尊像: 国宝。薬師如来坐像と日光・月光菩薩立像(金銅仏)。堂々量感、優美な三曲法(脇侍)、流麗衣文、慈愛と気品ある表情など、白鳳彫刻様式の典型で最高傑作。台座の異国的な葡萄唐草文様や四神意匠は国際性象徴。製作年代は白鳳時代説・奈良時代初頭説あり議論続くが、様式は白鳳期代表。
- 興福寺 仏頭: 国宝。元飛鳥山田寺本尊薬師如来像(685年完成銘)頭部(銅造)。若々しく清らかな顔立ち、穏やか理知的表情は白鳳前期代表優品。
- 法隆寺 夢違観音像: 国宝。金銅観音菩薩立像。均整とれた体躯、ふっくらした顔立ち、自然な衣文に白鳳期(7世紀後半~末頃)特色顕著。
- 法隆寺 伝橘夫人念持仏: 国宝。金銅阿弥陀三尊像。柔和で気品ある表情、自然流麗な姿態は白鳳後期(8世紀初頭頃)成熟様式示す。
- 蟹満寺 釈迦如来像: 国宝。銅造釈迦如来坐像。堂々とした像、量感豊かな体躯、力強い衣文に白鳳時代(7世紀末~8世紀初頭)特徴。
- 新しい素材・技法の導入: 天平期に全盛迎える新技法登場。
- 塑造: 粘土で造形・乾燥・彩色。日本最古本格的作例は当麻寺 弥勒仏坐像(国宝、白鳳末期~奈良初期)。
- 乾漆: 麻布を漆で貼り重ねる。脱活乾漆と木心乾漆。軽量丈夫で細部表現可。白鳳期作例少も天平彫刻代表技法へ。
- 法隆寺 五重塔 初層 塑像群: 国宝。釈迦生涯場面表現の塑造群像(711年完成)。白鳳~天平過渡期の重要作例。生き生きとした表情・動き。
白鳳彫刻は初唐様式を主体的に受容・洗練し、若々しい生命感と気品ある独自の仏像様式を確立。技術・様式は天平時代の多様な仏教彫刻開花へ繋がる。
2.4. 絵画:壁画の隆盛と国際性
白鳳時代は壁画制作が隆盛。古墳石室内部や寺院堂宇壁面が極彩色絵画で荘厳に飾られた。大陸(唐、朝鮮半島)との密接な文化交流を反映した国際色豊かな様式を特徴とする。
- 法隆寺 金堂壁画: (焼損前の状態として記述)
- 内容: 金堂内壁面に釈迦・阿弥陀・弥勒・薬師の四浄土図(大壁)や菩薩・飛天像(小壁)描かれた壮大仏教壁画。
- 様式と国際性: 白土下地に墨線(力強い鉄線描)と鮮やか彩色。豊満写実的人体表現、流麗衣文、立体感出す隈取等はインド・アジャンター、中央アジア・キジル、中国初唐・敦煌壁画等と強い類似。シルクロード経由西方起源様式が唐で洗練され日本へ伝播した国際性象徴の傑作(7世紀末~8世紀初頭制作)。
- 焼損と文化財保護: 昭和24年(1949年)火災で甚大被害。国民に衝撃与え文化財保護法制定(1950年)契機に。現在焼損壁画は別途保管、堂内には再現壁画設置。
- 高松塚古墳壁画: 昭和47年(1972年)発見、明日香村の円墳(7世紀末~8世紀初頭)石槨内極彩色壁画(国宝)。
- 内容: 天井に星宿図(天文図)、四壁に四神(玄武、青龍、白虎、朱雀?)と男女人物群像(西壁女子群像は「飛鳥美人」)。
- 様式と意義: 様式は大陸(唐、高句麗)影響極めて強い。当時の支配者層(被葬者は皇族に近い有力者か)の大陸文化・思想積極摂取示す貴重証拠。古代絵画史研究を大進展させた。
- 保存問題: カビ等劣化深刻化し、石材取り出し古墳外施設で修復・保存(2007年~)。古墳内はレプリカ設置。
- キトラ古墳壁画: 高松塚南方の円墳(7世紀末~8世紀初頭)で平成10年(1998年)以降発見壁画(国宝)。
- 内容: 四神図(四神揃う)、本格的天文図(天井)、十二支像(獣頭人身、壁面)。
- 様式と意義: 様式は高松塚と共通点多く大陸影響示す。天井天文図は現存最古級の本格的科学的星図で学術価値極めて高い。十二支像も貴重図像。劣化のため石室から取り外し保存・修復中。
これら壁画は、白鳳絵画技術の到達点、国際色豊かな文化様式、当時の宇宙観・死生観を具体的に示すかけがえのない文化遺産。
2.5. 文学:漢詩文と和歌の萌芽
律令国家形成は文字(漢字)能力を不可欠とし、支配者層で漢詩文創作が盛んに。古来口承の和歌も宮廷中心に洗練され漢字で記録されるように。日本の文字文学本格化前夜。
- 漢詩文の隆盛: 悲劇皇子・大津皇子や大友皇子(弘文天皇)ら優れた漢詩が知られる。7世紀後半~8世紀前半貴族漢詩は、日本最古漢詩集**『懐風藻』**(751年成立)収録。唐詩文影響受けつつ心情・感慨表現試みた様子示す。
- 和歌の発展 – 『万葉集』への道: 日本固有歌謡・和歌も発展、後の『万葉集』基礎築かれた。
- 記紀歌謡: 叙事的性格強く形式自由。
- 『万葉集』初期歌人: 『万葉集』(8世紀後半成立)巻一・二等に白鳳期(天武・持統朝)活躍歌人秀歌多数。額田王(情熱的優美な女流歌人、「あかねさす…」「熟田津に…」)、柿本人麻呂(『万葉集』最大歌人、荘重格調高い長歌・反歌形式完成、「やすみしし…」等天皇讃歌・挽歌・旅情歌等傑作多数、「ますらおぶり」と評される)。
- その他歌風: 宮廷歌だけでなく、東国生活感情歌う「東歌」、辺境兵士の歌「防人歌」原型となる地方歌も存在か。
白鳳時代は漢詩文と和歌が共に発展、文字記録され始めた重要期。この文学的営為が天平時代『万葉集』完成や漢詩文隆盛へ繋がる。
2.6. 白鳳文化の特質 – 古代文化の若々しい輝き
白鳳文化は飛鳥・天平文化間に位置しつつ独自の輝き持つ魅力的な文化。特質は以下。
- 清新さと若々しさ: 新国家体制形成期の高揚感や初唐文化との出会いが、文化全体に若々しく明るく清新な気風もたらした。
- 国際性: 唐文化の直接影響強く、インド、中央アジア、朝鮮半島等様々な地域文化要素融合した国際色豊かな性格。
- 国家仏教との結びつき: 仏教は国家鎮護の性格強め、官寺建立・国家法会等を通じ文化活動も国家的事業として推進。
- 伝統と革新の融合: 飛鳥文化伝統継承しつつ、新大陸様式・技術を積極導入・日本的に消化・発展。
- 天平文化への橋渡し: 培われた技術(塑造、乾漆等)、様式(初唐様式基盤の写実性)、国際性は、次の天平文化のより成熟・壮大・多様な開花へ直接繋がる重要橋渡し役。
白鳳文化は、古代日本が激動東アジア世界で自己確立し独自の国家・文化を築く過程で生み出された、若々しいエネルギーと国際性に満ちた魅力あふれる文化であった。