早慶日本史 講義 第3講 古代:律令国家の展開
第三章:律令国家の変容(奈良時代後半~平安時代前期)―動揺する秩序と新たな胎動―
8世紀初頭に大宝律令によって完成した律令国家体制ですが、その後の奈良時代後半から平安時代前期(8世紀半ば~9世紀)にかけては、確立された秩序が内包する矛盾や社会経済の変化によって大きく揺らぎ、変容していく重要な過渡期にあたります。本章では、この「動揺する秩序と新たな胎動」の時代に焦点を当て、政治における権力闘争と再建の試み、律令諸制度(土地・財政・社会)の変質、そして新しい仏教の登場といった、古代から中世へと向かう歴史の転換点を示す諸相を解説します。
奈良時代後半には、藤原氏の台頭と皇族との対立、道鏡に象徴される仏教勢力の政治への影響力増大など、政局は激しく揺れ動きました。その混乱を収拾し、律令国家の再建を目指したのが桓武天皇であり、平安京遷都や蝦夷征討、そして財政・軍事などの諸改革が断行されました。しかし、律令制の根幹である班田収授制や租庸調制は崩壊に向かい、墾田永年私財法を契機に荘園が発達、富豪層(田堵)が台頭するなど、社会経済構造は大きく変化していきます。また、仏教界でも最澄・空海によって天台宗・真言宗がもたらされ、平安仏教の新たな潮流が生まれました。
早慶などの難関大学入試においても、この律令制変容期は極めて重要です。**奈良後期の政争、桓武朝の諸政策、律令諸制度の動揺と変質(班田制崩壊、墾田永年私財法、荘園、租庸調制崩壊)、そして平安初期仏教(最澄・空海)**に関する正確な知識は必須です。これらの変化がどのように連関し、律令国家体制を変容させ、次の時代へと繋がっていったのか、その歴史的意義を深く考察する能力が求められます。
本章を通じて、律令国家がその頂点から変容へと向かう複雑な過程を学び、古代から中世への大きな歴史の転換点についての理解を深めていきましょう。
1. 奈良時代後期の政治変動:権力闘争の激化と仏教政治の影
律令国家体制が確立された奈良時代ですが、その後半(8世紀半ば~後半)は、天皇や皇族、有力貴族、そして仏教勢力が複雑に絡み合う激しい権力闘争が繰り広げられ、政治が大きく揺れ動いた時期でした。本セクションでは、この奈良時代後期の政治変動に焦点を当て、孝謙(称徳)天皇の治世を中心に、藤原仲麻呂(恵美押勝)と僧侶・道鏡という二人の権力者の相次ぐ台頭と失脚、そして特異な仏教政治の展開とその終焉、さらにその後の体制再建への動きについて解説します。
聖武天皇譲位後、光明皇太后の後ろ盾を得た藤原仲麻呂は権勢を強め、反発勢力を橘奈良麻呂の変(757年)で排除し、恵美押勝として権力の頂点に立ちます。しかし、孝謙太上天皇(後の称徳天皇)が道鏡を寵愛し重用するようになると両者は対立、恵美押勝の乱(764年)で仲麻呂は滅びます。その後、重祚した称徳天皇のもとで道鏡が法王にまで昇りつめ、仏教政治が極まりますが、宇佐八幡宮神託事件(769年)などを経て貴族層の反発を招き、天皇の死とともに失脚。最終的に藤原氏主導で天智系の光仁天皇が擁立され、混乱した政治の再建が図られることになります。
早慶などの難関大学入試においても、この奈良時代後期の複雑な政治過程は頻出分野です。主要な天皇・権力者、橘奈良麻呂の変・恵美押勝の乱といった政変、宇佐八幡宮神託事件、そして天武系から天智系への皇統の変化など、一連の出来事とその背景・意義を正確に理解しておくことが不可欠です。権力闘争の構造や仏教政治の特質について深く考察する能力が求められます。
本セクションでは、権力闘争が激化し、仏教が政治に大きな影響を与えた奈良時代後半の政治史を追います。律令国家体制が内包する問題や変容の兆しを学び、次の平安時代へと繋がる歴史の転換点を理解していきましょう。
1.1. 孝謙(称徳)天皇と藤原仲麻呂(恵美押勝):皇権と藤原氏権力の交錯と対立
749年(天平勝宝元年)、聖武天皇が譲位し、娘の**孝謙天皇(女帝)が即位すると、政治の実権は、天皇の母で絶大な影響力を持つ光明皇太后(藤原不比等の娘)と、その甥にあたる藤原仲麻呂(706年~764年)**が連携して掌握していった。
- 光明皇太后と仲麻呂の連携: 光明皇太后は、篤い仏教信仰の一方、藤原氏出身者として強い政治的意志を持ち、孝謙天皇の後見役、また太上天皇となった聖武の代理として大きな影響力を保持した。仲麻呂はこの叔母の絶大な信頼を得て、藤原氏一族の中でも急速に地位を高めた。
- 紫微中台の設置と権力集中: 仲麻呂は、光明皇太后の家政機関を改組・拡充し、**紫微中台(しびちゅうだい)**という令外官を設置(749年)、自らが長官(紫微内相)に就任した。紫微中台は、皇太后の命令を奉じて国政に関与する強力な権限を持ち、正規の太政官とは別に、仲麻呂が国政を事実上主導するための権力機構となった。これは、律令官制を形骸化させ、仲麻呂への権力集中を進めるものだった。
- 橘奈良麻呂の変(757年):反仲麻呂派の排除: 仲麻呂の急速な台頭と専横、そして彼が擁立しようとした大炊王(後の淳仁天皇)への反発から、橘諸兄の子・奈良麻呂や大伴氏、皇族の一部(黄文王ら)が、仲麻呂排除のクーデターを計画。しかし計画は事前に発覚し、757年(天平宝字元年)、奈良麻呂をはじめ、大伴古麻呂ら反仲麻呂派の皇族・貴族多数が処罰(拷問死、死刑、流罪など)された。この変により反仲麻呂勢力は一掃され、仲麻呂の権力基盤は盤石となった。同年に養老律令が施行されたのは、仲麻呂が律令に基づく秩序再建を掲げつつ、自らの権力を正当化し、新体制への移行を宣言する意図があったと解釈される。
1.2. 恵美押勝(藤原仲麻呂)政権(758年~764年):権勢の頂点、唐風政策とその破綻
橘奈良麻呂の変の後、藤原仲麻呂は擁立した大炊王を淳仁天皇として即位させ(758年)、自らは太師(太政大臣に相当)となり、天皇から恵美押勝の名を賜った。ここに押勝の権勢は頂点に達し、専制的な政治が展開される。
- 極端な唐風政策: 押勝は唐(玄宗皇帝)の政治や文化を理想視し、様々な唐風政策を推進した。官職名を一時的に唐風に改称(例:太政官→乾坤官)、新貨幣(万年通宝、太平元宝、開基勝宝)の鋳造、近江に保良宮を造営しようとした。また、安史の乱(755年~763年)の混乱に乗じ、新羅征討計画を進めたが、準備不足などから実行には至らなかった。
- 政策の破綻と反発: これらの政策は、彼の権勢を示す一方、現実離れした唐風模倣や実現不能な軍事計画、大規模な造営事業は、他の貴族層の反発を招き、民衆の負担を増大させた。押勝の権力基盤は光明皇太后に大きく依存し、盤石ではなかった。
1.3. 道鏡の台頭と称徳天皇(孝謙太上天皇重祚)
恵美押勝の権勢に陰りが見え始めたのは、760年の光明皇太后の死と、譲位していた孝謙太上天皇が再び政治への関与を強め、病気看病を通じて信頼するようになった僧侶・**道鏡(?~772年)**を重用し始めたことによる。
- 孝謙太上天皇と道鏡の関係深化: 孝謙太上天皇は河内の由義宮滞在中に病に倒れ、看病にあたった道鏡を深く寵愛するようになった。天皇が道鏡を政治的相談相手としても重んじると、淳仁天皇や恵美押勝との間に深刻な亀裂が生じ始めた。道鏡は太上天皇の後ろ盾を得て異例の昇進を遂げ、763年には少僧都となり政治的影響力を増した。
- 恵美押勝の乱(764年):権力者の失脚: 恵美押勝は道鏡の台頭と太上天皇の政治介入に危機感を抱き、クーデターを計画。しかし計画は露見し、764年9月、押勝は平城京を脱出するも追討軍に敗れ、近江国高島郡で一族とともに斬殺された。
- 称徳天皇の重祚: 乱を鎮圧した孝謙太上天皇は、非協力的だった淳仁天皇を廃位し淡路島へ配流(淳仁天皇は翌年死去)。そして自ら再び即位(重祚)した。これが称徳天皇(在位764年~770年)である。女性天皇の重祚は皇極(斉明)天皇に次ぎ二例目で、異例の事態だった。
1.4. 称徳・道鏡政権(764年~770年):仏教政治の極点と宇佐八幡宮神託事件
称徳天皇の治世下、道鏡は絶大な権力を握り、仏教を中心とした政治(仏教政治)が極点に達した。
- 道鏡の権力掌握と異例の地位: 道鏡は称徳天皇の寵愛を受け、僧侶ながら765年に太政大臣禅師、翌766年にはさらに上位の法王という空前絶後の地位に就いた。「法王」は俗世の国王(天皇)に匹敵しうる称号であり、道鏡の権勢の強大さを示す。道鏡の一族や近い僧侶も高位高官に任命され、政治は道鏡周辺によって壟断される様相を呈した。
- 仏教中心の政策: 称徳天皇と道鏡は仏教による国家鎮護を一層推し進めた。西大寺、由義寺などを建立し、鎮護国家と犠牲者供養(あるいは疫病終息祈願?)のためとされる百万塔陀羅尼(現存する世界最古級の印刷物)を制作・配布した。神祇官の上に法王宮職が置かれるなど、仏教が神道より上位にあるかのような体制がとられた。
- 宇佐八幡宮神託事件(769年):道鏡の野心と貴族の反発: 769年、道鏡が皇位を狙っているとの疑惑が表面化する事件が起こる。大宰府の役人・習宜阿曽麻呂が、宇佐八幡宮から「道鏡を皇位に即かせれば天下は太平になる」という神託があったと報告。称徳天皇は真偽を確かめるため、信頼する官人・和気清麻呂を勅使として派遣した。清麻呂が宇佐で改めて神意を問うと、「君臣の分は定まっている。皇位は必ず皇族を立てよ。無道の人(道鏡)は早く除くべし」という先の報告とは逆の、道鏡の皇位継承を明確に否定する神託が下された。清麻呂がこれをありのまま報告すると、激怒した称徳天皇(と道鏡)は清麻呂を処罰し大隅国へ流罪とした(姉の広虫も処罰)。
- 政権の終焉と道鏡の失脚: この事件は、道鏡の皇位簒奪の野望(あるいは道鏡失脚を狙う貴族層の策謀説もある)を象徴し、道鏡政権への貴族層(特に藤原氏)の反発を決定的にした。770年、称徳天皇が後継者を指名しないまま病死すると、道鏡は権力基盤を失った。藤原永手・藤原百川ら藤原氏の有力貴族は直ちに道鏡を法王位から解任し、下野薬師寺別当として左遷。道鏡は772年に没し、仏教政治は終焉した。称徳・道鏡政権は、仏教の力で天皇権威を高めようとした一方、僧侶の過剰な政治介入と道鏡個人への権力集中が律令統治システムに混乱と歪みをもたらし、貴族層との深刻な対立を生んだ点で、律令政治変容過程における特異な一時期とされる。
1.5. 光仁天皇の即位と天智系皇統への回帰:混乱からの再出発
称徳天皇崩御と道鏡失脚後、皇位継承者の選定が急務となり、藤原永手・百川・良継ら藤原氏貴族が主導権を握った。彼らは天武天皇系ではなく、天智天皇の孫にあたる白壁王を、62歳という高齢ながら新たな天皇として擁立した。これが光仁天皇(在位770年~781年)である。
この皇位継承は、日本の皇統史上、重要な転換点だった。壬申の乱以来約100年続いた天武天皇系の皇統が断絶し、再び天智天皇系へ回帰したことを意味する。背景には、天武系皇族への不信感や、藤原氏が扱いやすい(と判断した)高齢の白壁王を擁立し、政治実権を掌握し続けようとした意図があったとされる。
光仁天皇は藤原氏(永手、良継、百川ら)の補佐を受け、称徳・道鏡政権下の混乱した政治・財政状況を収拾し、律令政治の再建に努めた。官人削減、財政支出抑制、地方行政監察強化など、現実的な行政改革・財政緊縮策を進めた。皇太子には当初他戸親王を立てたが、皇后・井上内親王とともに呪詛の嫌疑(藤原百川らの策謀説あり)で廃され、代わって山部親王(母は渡来系の高野新笠)が立てられた。この山部親王が、次の時代を切り開く桓武天皇である。光仁天皇の治世は、奈良時代末期の混乱から脱却し、平安時代への移行を準備する重要な過渡期となった。
2. 桓武天皇と平安京:律令国家の再建と変革への挑戦
奈良時代末期の政治的混乱と社会不安を経て、8世紀末に即位した桓武天皇は、律令国家体制の再建と安定化、そして新たな時代への変革に挑んだ強力なリーダーでした。本セクションでは、この平安時代の幕開けを告げる桓武天皇の治世(781年~806年)に焦点を当て、平安京への遷都(長岡京での失敗を含む)、長年の懸案であった蝦夷征討という二大事業、そして国家財政や軍事制度における重要な改革について解説します。桓武朝の動向は、その後の平安時代の方向性を決定づける上で極めて重要です。
桓武天皇は、旧都・平城京の仏教勢力などの影響から脱却し、新たな政治の中心を築くため、まず長岡京への遷都を試みますが、藤原種継暗殺事件や早良親王の怨霊問題などで頓挫。最終的に794年、平安京へ都を移し、ここに新たな王都を建設しました。並行して、坂上田村麻呂らを派遣し、大規模な蝦夷征討を進め、支配領域の拡大を図ります。しかし、これら二大事業は民衆に多大な負担を強いたため、「徳政論争」を経て、最終的には民力休養へと方針を転換しました。また、現実に対応できなくなった律令制度の改革にも着手し、軍団制を廃止して健児制を導入したり、地方行政監察のため勘解由使を設置したりするなどの施策を行いました。
早慶などの難関大学入試においても、桓武天皇の時代の主要な出来事(平安京遷都、蝦夷征討、徳政論争)や制度改革(健児制、勘解由使)に関する知識は必須です。これらの政策が、律令国家の再建と変革にどのように貢献し、またどのような影響を後世に与えたのかを深く理解し、考察する能力が求められます。
本セクションでは、桓武天皇による新都建設、蝦夷政策、そして律令制の改革といった多岐にわたる事績を追い、律令国家が直面した課題にどのように取り組み、平安時代という新たな時代を切り開いていったのか、そのダイナミズムを学びます。
2.1. 長岡京遷都(784年):旧都・平城京からの脱却
桓武天皇は即位後わずか3年で、奈良(平城京)を離れ、新都建設を決断した。
- 遷都の理由: 旧都勢力(仏教寺院・貴族)からの政治的自立(特に仏教勢力と政治の距離確保)、人心一新と新王朝の意思表示、水陸交通の便の改善(桂川・淀川水系への近接)、母方(渡来系)の出自との関連(山背国の秦氏など)などが挙げられる。遷都事業の責任者には、腹心の藤原種継が任命された。
- 藤原種継暗殺事件(785年):新都建設の頓挫: 遷都翌年、種継が造営現場で暗殺された。事件は遷都反対勢力の仕業と疑われ、桓武天皇は激怒し厳しい捜査を行った。結果、大伴継人らが処刑され、さらに天皇の実弟・早良親王も関与を疑われて皇太子を廃され、配流途中に憤死(または暗殺)した。
- 怨霊への恐怖と長岡京放棄: この一連の事件、特に早良親王の死は、その後の不幸(皇后や母の病死、疫病など)と結びつけられ、早良親王の怨霊の祟りと恐れられた。政情不安、怨霊への恐怖、度重なる洪水などの理由から、桓武天皇はわずか10年で長岡京を放棄し、再遷都を決断した。
2.2. 平安京遷都(794年):新たな王都の建設と「山城国」
新たな都として選ばれたのは、長岡京の北東、山背国葛野郡宇太村(現在の京都市中心部)。793年に造営が開始され、翌794年10月22日、桓武天皇はこの地に遷都し平安京と命名した。
- 立地選定の妙: 北に船岡山、東に東山(鴨川)、西に西山(桂川)、南に巨椋池が広がる、四神相応の考え方に適した地であった。この地の選定と造営には、渡来系の秦氏が協力したと伝えられる。
- 平安京の構造: 基本的に平城京と同様、唐の長安城をモデルとした条坊制の都城。規模は東西約4.5km、南北約5.2km。北端中央に大内裏、中央を朱雀大路が貫通し、左右に左京・右京を配し、それぞれに東市・西市を設けた。当初は広大な右京の開発が進まず、市街地の中心は左京へと偏っていった。
- 「山城国」への改称: 平安京遷都に際し、国名「山背国」を「山城国」へと改めた。「背」の字を嫌った、あるいは「山に囲まれた都(城)」の意味を込めたなどとされるが、この都が永遠に栄えるようにという願いが込められていたと考えられる。
- 平安京の意義: その後、鎌倉幕府成立まで政治の中心、明治維新まで天皇の居住地として、約1100年にわたり日本の首都として機能し続けた。平安京遷都は、奈良時代の混乱を乗り越え、律令国家体制を再編・安定化させようとする強い意志の現れであり、日本の歴史における大きな画期となった。
2.3. 桓武天皇の二大事業:蝦夷征討と平安京造営、そして「徳政」への転換
桓武天皇の治世は、平安京遷都と並行して、長年の懸案であった東北地方の蝦夷に対する大規模な軍事行動(蝦夷征討)が精力的に行われた時期でもあった。これら「平安京造営」と「蝦夷征討」は桓武天皇の二大事業とされるが、天皇権威の向上や支配体制強化を目指す一方で、国家財政と民衆に極めて大きな負担を強いた。
- 蝦夷征討(三十八年戦争)の最終局面:
- 背景: 奈良時代末期、蝦夷の抵抗が激化。780年には蝦夷豪族・伊治呰麻呂が反乱、多賀城を焼き払うなど危機的状況にあった。
- 大規模な征討: 桓武天皇は東北平定を目指し大軍を派遣。789年、紀古佐美軍が大敗。794年、大伴弟麻呂を征夷大将軍、坂上田村麻呂を副将軍として派遣し戦果を挙げる。
- 坂上田村麻呂の活躍とアテルイの降伏: 田村麻呂は征夷大将軍(797年任命)として活躍。武力制圧だけでなく、胆沢城(802年)・志波城(803年)を築き農民移住を進めるなど総合戦略を展開。蝦夷の指導者アテルイと母礼は802年に降伏したが、助命嘆願も空しく京で処刑された。
- 結果と影響: 蝦夷の組織的抵抗はほぼ終息し、支配領域は北上川中流域まで拡大。しかし、長年の征討(「三十八年戦争」)は莫大な費用と人命損失を招き、特に東国民衆の疲弊は深刻だった。
- 平安京造営の負担: これも蝦夷征討と並び、全国から膨大な資材と労働力が動員され、民衆に大きな負担を強いた。
- 「徳政論争」と政策転換: 二大事業による民衆疲弊と財政逼迫は朝廷内でも問題化。805年、公卿間で徳政論争が起こる。参議・藤原緒嗣は「軍事と造作」の停止を主張。菅野真道は反論したが、桓武天皇は緒嗣の意見を採用し、蝦夷征討停止(胆沢・志波城維持は継続)と平安京造営の大幅縮小を決定。これは、律令国家が直面する現実課題を認識し、拡大路線から民力休養(「徳政」)へと方針転換した点で重要な意義を持つ。
2.4. 健児(こんでい)制の導入と軍事制度改革
桓武天皇は、二大事業の負担軽減とともに、現実に対応できなくなった律令軍制の改革にも着手した。
- 軍団制の廃止(一部除く): 792年、辺境(陸奥・出羽・佐渡)と九州諸国を除き、全国の軍団を原則廃止。農民兵(徴兵)の士気・練度の低さ、農民への兵役負担の重さが背景。農民負担は大幅に軽減されたが、律令制の公民皆兵原則を放棄する、軍制の大きな転換点となった。
- 健児制の導入: 軍団の代わりに、地方の郡司子弟や有力者層から弓馬に長けた者を選抜・採用し、国衙警備や国内治安維持にあたらせる制度。常備軍ではなく、必要に応じて召集される「エリート予備兵力」のような存在。自弁の武器・馬具を使用。これは、国家の軍事力が地方有力層の武力に依存する方向へ移行する第一歩であり、後の武士発生の遠因とも考えられる。
2.5. 財政再建と地方行政改革への取り組み
桓武天皇は、財政再建と地方行政の規律回復にも努めた。
- 勘解由使の設置(797年頃?):地方行政の監察強化: 国司の不正(特に財政)や怠慢を防止し、中央統制を強化するため、令外官・勘解由使を設置。国司交替時に前任者の行政事務(特に財産引継)を監査し(解由状作成)、中央に報告。国司の恣意的な支配抑制を図ったが、実効性には限界もあった。
- 公出挙利息の引き下げ: 785年、農民負担軽減のため、公出挙利息を5割から3割へ正式に引き下げ(民力休養策)。
- その他: 官人定員削減(冗官整理)、綱紀粛正、財政支出見直しなども行われた。
桓武天皇の時代は、律令国家が直面した課題に正面から取り組み、諸改革を通じて国家体制の再建と変革を目指したダイナミックな時代だった。彼のリーダーシップで律令国家は危機を乗り越え、平安時代へと移行した。しかし、律令制が内包する構造的矛盾、特に土地・財政システムや中央集権体制の限界は根本的には解決されず、平安時代を通じて律令体制はさらなる「変容」を遂げていく。
3. 律令制の動揺と変容:土地・財政・社会の構造変化
8世紀初頭に大宝律令によって完成した律令国家体制ですが、その運用が本格化する奈良時代後半から平安時代前期(8~9世紀)にかけて、その根幹をなす土地・人民支配のシステムは次第に動揺し、大きな変容を遂げていきます。本セクションでは、律令制が内包していた矛盾や社会経済の変化によって、班田収授制や租庸調制といった基本的な制度がどのように行き詰まり、崩壊へと向かったのか、そしてそれに伴い、土地所有のあり方、財政構造、社会階層がどのように変化していったのか、そのプロセスに焦点を当てて解説します。
律令国家の理想であった公地公民制は、人口増加による口分田不足や、重い負担から逃れるための偽籍・逃亡の蔓延により、班田収授制の実施が困難となり形骸化していきます。これを補うために出された墾田永年私財法(743年)は、逆に初期荘園の発達を促し、土地私有化の流れを加速させました。また、人民把握の困難化は、人頭税である租庸調制をも機能不全に陥らせ、国家財政は土地からの収入(租や出挙利稲)への依存度を高め、その運営も中央から地方(国衙)へと重心を移し始めます。社会においても、均質な公民層は分解し、没落する農民がいる一方で、経済力を蓄えた**富豪層(田堵)**が台頭するなど、構造的な変化が顕著になりました。
早慶などの難関大学入試においても、この律令制の動揺と変容の過程は極めて重要です。班田収授制・租庸調制の崩壊、墾田永年私財法と初期荘園の発生、財政構造の変化、公民層の分解と富豪層(田堵)の台頭といった具体的な事象とその歴史的意義を正確に理解しておく必要があります。律令制の理念と現実の乖離、そして中世社会へと繋がる変化の萌芽を読み解く考察力が求められます。
本セクションでは、律令国家体制がその内部から変容していくダイナミックな過程を、土地制度、財政、社会構造の変化という側面から追います。古代から中世への大きな転換点を理解するための基礎を固めましょう。
3.1. 班田収授制の崩壊:公地公民理念の形骸化
律令制の土地制度・人民支配の根幹である公地公民制と班田収授法は、この時期に実質的に崩壊への道をたどった。
- 班田実施の完全な困難化:
- 人口増加と口分田不足: 特に畿内周辺の先進地域で深刻化。規定通りの班給が不可能に。
- 偽籍・浮浪・逃亡の蔓延: 重い課役負担から逃れるため、戸籍登録を偽る偽籍、本籍地を離れる浮浪、完全に姿をくらます逃亡が全国的に蔓延。人民把握が困難になり、班田実施も徴税も基盤を失った。政府の括浮浪も効果は一時的。
- 班田期間延長と事実上の停止: 六年一班の規定は守られず、奈良時代末期に十二年一班に延長。それでも実施は滞り、902年の班田が記録上ほぼ最後となり、事実上行われなくなった。
- 班田収授制崩壊の意義: 公地公民制の完全な形骸化を意味する。国家が人民に土地を分配し直接税を徴収する律令的システムは機能しなくなり、律令国家体制そのものの根幹が揺らいだことを示す重大な変化だった。
3.2. 墾田永年私財法の影響と初期荘園の発展:土地私有の進展
班田収授制が行き詰まる一方、743年の墾田永年私財法は土地制度に決定的な変化をもたらし、土地私有の動きを加速させた。
- 墾田開発の活発化と担い手: 新開墾地(墾田)の永年私有が認められたため、財力、労働力、政治力を持つ**有力貴族、大寺社、地方の有力在地豪族(郡司クラス)や富裕農民(田堵など)**らが競って開発に乗り出した。私財を投じ灌漑施設を整備、困窮農民や浮浪人を労働力として利用し、広大な私有地を形成。
- 初期荘園(墾田地系荘園)の成立と発展: こうして開発・集積された私有地が初期荘園(墾田地系荘園)。当初は**荘園領主(開発者)**が労働力を使い直接経営(直営経営)する形態が中心。
- 輸租から不輸へ:免税特権の獲得: 初期荘園は当初、国家(国衙)に租(田租)を納める義務(輸租田)を負っていた。しかし荘園領主は政治力や宗教的権威を利用し、次第に租税(特に国衙へ納める租や雑税・労役)の免除(不輸)を認めさせようとした(例:勅免荘、官省符荘)。この不輸の権獲得は、荘園が国家支配から経済的に独立する上で重要なステップだった。さらに国司らの荘園内立入を拒否する権利(不入の権)も徐々に獲得されていく(平安中期以降本格化)。
- 初期荘園の意義:律令体制の変容: 初期荘園の成立・発展は、律令の根幹たる公地公民制を内部から掘り崩し、国家の土地・人民支配体制を大きく変容させる決定的な要因となった。土地私有化の進展と国家税収基盤の動揺の中、律令国家は新たな支配・徴税システム(国衙機構を通じた支配、荘園と公領を前提とする体制)への移行を余儀なくされる。初期荘園は平安中期以降の荘園公領制へと繋がる重要な歴史的画期だった。
3.3. 財政収入の変化:租庸調制の崩壊と財政構造の転換
班田収授制の動揺と公民層の分解、荘園の発達は、基本的な財政収入源だった租庸調制にも深刻な影響を与え、そのシステムは実質的に崩壊へ向かった。
- 庸・調の中央貢進の激減: 正確な人民把握が困難になり、農民の逃亡や困窮が進む中、人頭税である庸・調の徴収・運搬(運脚)が困難化。中央政府への納入量は大幅に減少し、未進が常態化。中央政府の財政収入を直撃し、深刻な財源不足を招いた。
- 租(田租)と出挙利稲の重要性の相対的上昇: 土地に課される税である租は比較的安定して徴収可能だった。また、国司が管理・運営する公出挙の利稲も国衙にとって重要な収入源であり続け、正税(租・出挙利稲)への依存度が高まった。
- 財源確保のための新たな動き:
- 官田・勅旨田の拡大: 天皇や国家が直接経営する田地(官田)や天皇勅旨で設定された田地(勅旨田)からの収入を直接財源とする動き。
- 公出挙運営の強化: 国司は利稲収入確保のため、強制的な貸付も行い、徴収を在地有力者(富豪、田堵)に請け負わせることも。
- 交易・流通からの収入模索: 関所での関税徴収や港湾での交易収入なども意識される。
- 財政運営の地方分権化(国衙中心へ): 中央への庸・調貢進が滞り、中央財政基盤が弱体化する一方、国司は徴収した正税を中央へ送るべき分も含め、自らの判断で地方(国衙)運営費に充てたり、自らの収入としたりする傾向を強めた。これは律令的な中央集権財政システムが崩れ、財政運営の実権が中央から地方(国司・国衙)へ移る(地方分権化)動きの始まりであり、平安中期以降の受領による支配体制へ繋がる。
律令に定められた租庸調中心の財政システムは社会経済の変化に対応できず崩壊。代わって国衙が地域の正税を主な財源とし、中央へはその一部を貢納するという新たな財政構造への移行が進んだ。
3.4. 公民層の分解と富豪層(田堵)の台頭:社会構造の流動化
律令国家が基盤とした均質な公民層は、奈良時代後半から平安時代前期にかけ、重い負担と社会経済の変化の中で急速に分解していった。
- 没落する公民層:
- 負担からの逃亡・浮浪: 課役の重圧に耐えきれず、本籍地を捨てて浮浪人となるか、逃亡する者が後を絶たなかった。彼らは都市へ流入したり、有力者の荘園へ流れ込み労働力となったりした。
- 負債による隷属化: 公・私出挙の高利返済に窮し、土地を手放し小作人となるか、人身的な隷属関係に陥る農民も増加した。
- 貧富の差の拡大: 自然災害や疫病、家族の労働力や経営能力の差などで、公民内部の貧富の差が著しく拡大。
- 富豪層(田堵)の台頭: 一方で、経済的才覚や有利な条件に恵まれた一部農民は富を蓄積し、富豪層として台頭。
- 富の蓄積: 効率的な農業経営、私出挙、交易などで富を蓄積。没落農民の土地買収や自らの墾田開発で経営規模を拡大。
- 田堵としての役割: これらの富豪層は田堵と呼ばれ、自ら大規模な田地を経営(名田経営の原型)、多数の労働力を使う有力農民層・在地経営主を指すようになる。
- 地方社会での影響力と国家との関係: 田堵は経済力を背景に地方社会で強い影響力を持ち、郡司層と結びつくか、自らが郡司クラスの在地首長となった。国司にとっても無視できず、徴税実務(税の取まとめ・納入)や公出挙運営を請け負わせるなど、田堵の力を利用。これにより田堵は国衙機構との結びつきを強め、在庁官人のような国衙の実務官僚層へ成長する者も現れた。これらの田堵層は、平安中期以降の開発領主や武士の発生母体の一つとなる。
律令国家が前提とした均質な公民社会は崩れ、貧富の差が拡大し、没落農民と力を伸ばす富豪層(田堵)へと階層分化が著しく進行。この社会構造の流動化は、律令支配システムの変容を不可避とした。
3.5. 地方政治の変容:国司・郡司の役割変化と新たな支配秩序へ
律令国家の地方支配を支えた**国司(中央派遣)と郡司(在地豪族)**の役割や関係性も、社会経済の変化の中で大きく変容した。
- 国司の権限強化と収奪的性格の増大:
- 財政権限の集中と利権化: 地方財政の比重が高まる中、国司は国衙財政(特に正税管理・運用)への裁量権を強め、公出挙運営などを通じ莫大な利権を握るようになり、その地位は経済的に魅力的なものとなった。
- 収奪の強化(「貪欲な国司」): 限られた任期中に富を蓄積しようと、規定以上の雑徭や不正徴税(加徴)、官物私物化など、人民からの収奪を強化する者(「貪欲な国司」)も現れた。
- 成功・遙任への道: 平安中期以降の、私財提供で見返りに国司に任命される成功や、任国へ赴任せず代理人(目代)を派遣し収入のみを得る遙任といった慣行が生まれる背景には、この時期の国司の権限強化と利権化があった(兆しは平安初期から)。
- 郡司の地位の変化:在地領主化への道:
- 律令制下での地位低下: 律令導入により、郡司は中央支配体制に組み込まれ、国司監督下に置かれ地位は低下した。
- 在地影響力の維持と変質: しかし、郡司は地域での伝統的権威と在地社会への影響力を背景に、依然重要な役割を果たし続けた。国司と協力・対立しながら徴税や人民支配の実務を担った。一方で、富豪層(田堵)の台頭や律令制弛緩の中、郡司の地位・性格も変質。律令官吏としての役割より、自らの勢力基盤(私有地、私兵など)を強化し、在地領主としての性格を強める者が現れ始める。国衙支配から自立したり、在庁官人となったりするなど多様な道を歩んだ。
- 地方支配の弛緩と国衙機構の形成: 国司の恣意的支配や収奪、郡司層の変質、田堵層の台頭といった動きは、律令に基づく中央集権支配体制が次第に弛緩し機能不全に陥る過程を示す。代わって、地方ごとの実情に応じた流動的で複雑な支配関係(国司-郡司-田堵-一般農民)が形成された。この中で国司(特に受領)は、国衙機構(在地有力者層を取り込んだ地方行政組織)を通じ、国内の土地(公領)と人民を把握し一定の税(官物、臨時雑役など)を徴収するという、新たな支配システム(国衙機構または王朝国家体制下の地方支配)を構築していく(平安中期以降本格化)。これは律令制の「変容」がもたらした新しい秩序の姿だった。
4. 新しい仏教の展開:平安仏教の成立と鎮護国家思想の継続
律令国家体制が変容を始める平安時代初期(9世紀)には、仏教の世界にも新たな動きが起こります。奈良時代の南都六宗中心の仏教に対し、唐で最新の仏教を学んだ最澄(さいちょう)と空海(くうかい)という二人の傑出した僧侶が登場し、それぞれ天台宗と真言宗を開きました。本セクションでは、この平安初期仏教の成立と展開に焦点を当て、両宗派の教えや活動の特徴、そして当時の国家や貴族社会との関わりについて解説します。
遣唐使として入唐した最澄は、『法華経』を中心とする天台宗の教えをもたらし、比叡山延暦寺を拠点に、顕教・密教・禅・戒律を総合的に学ぶ道を開きました。特に、南都仏教から独立した大乗戒壇の設立を目指したことは画期的でした。一方、空海は体系的な真言密教を伝え、高野山金剛峯寺や京都の東寺を拠点としました。深遠な教義とともに、加持祈祷による現世利益を重視した点は、当時の貴族社会のニーズに応え、広く信仰を集める要因となりました。これら平安二宗は、山中に拠点を置く山林仏教の性格を持ち、鎮護国家思想とも結びついて朝廷の保護を受ける一方、貴族仏教としての性格を強めていきます。
早慶などの難関大学入試においても、**最澄と天台宗(法華一乗、大乗戒壇)、空海と真言宗(密教、加持祈祷)、そして平安初期仏教の特色(山林仏教、鎮護国家、密教、貴族仏教)**に関する知識は極めて重要です。奈良仏教との違いや、後の日本仏教(特に鎌倉新仏教)への影響についても理解しておく必要があります。
本セクションでは、最澄と空海という二人の巨人の足跡と教え、そして彼らが確立した平安仏教が持つ独自の性格とその歴史的意義を探ります。日本仏教史における新たな時代の幕開けを学びましょう。
4.1. 最澄(767年~822年)と天台宗:法華一乗と大乗戒壇の革新
- 生涯と求道: 最澄は近江国出身。若くして出家したが、奈良での学問より比叡山での独りの修行と思索(特に『法華経』研究)に励んだ。桓武天皇に認められ入唐求法の機会を得る。
- 入唐と天台教学の将来: 804年、遣唐使として唐へ渡る。短期間ながら天台山で天台宗の正統な教え(法華教学と止観)を学び、禅、密教、戒律(大乗戒)なども幅広く学び、多くの経典を持ち帰り805年に帰国。
- 天台宗の開宗と比叡山延暦寺: 帰国後、桓武天皇の保護を受け、比叡山に延暦寺を建立し天台宗を開く。教えの中心は『法華経』に説かれる**「法華一乗」**、すなわち全ての衆生は等しく仏になる可能性を持つという思想。これに基づき、法華経中心の顕教に加え、密教(台密)、禅(止観)、戒律(円戒、大乗戒)を総合的に学ぶ「四宗兼学」を特色とした。
- 大乗戒壇設立運動と南都仏教との対立: 最澄は、当時の南都仏教(特に律宗)が形式的な戒律(小乗戒)を過度に重視し形骸化していると批判。内なる仏性を信じ他者救済に努める菩薩戒(大乗戒)こそ真の大乗仏教の戒律と主張し、東大寺戒壇院から独立した天台宗独自の大乗戒壇を比叡山に設立することを目指した。これは南都六宗から激しい反発を招き、徳一らと激しい論争(三一権実諍論など)を展開。最澄没後7日目に勅許が下り、弟子たちの努力で実現(827年)。これにより天台宗は南都仏教から独立し、独自の僧侶養成システムを持つ。
- 鎮護国家思想との結びつき: 最澄は天台宗の教えこそ国家を安泰にする(鎮護国家)と説き、歴代天皇や朝廷の帰依を得た。延暦寺が平安京の鬼門に位置することも国家鎮護の役割を期待された一因。
- 後世への影響: 天台宗の総合的な教学と包摂的な教えは多くの人材を育成。後の浄土教(源信など)や鎌倉新仏教の多くの宗祖たち(法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など)は比叡山で学び、天台宗を土台に新しい教えを打ち立てた。比叡山延暦寺は「日本仏教の母山」と称され、最澄が蒔いた種はその後の日本仏教の多様な展開の源流となった。
4.2. 空海(774年~835年)と真言宗:密教の体系化と現世利益
最澄とほぼ同時代に、もう一人の偉大な仏教者、空海(弘法大師の名で広く知られる)が登場。空海は日本に本格的な密教を伝え、真言宗を開いた。
- 生涯と求道: 空海は讃岐国の地方豪族出身。大学寮で学ぶも飽き足らず、仏道、特に山林修行に惹かれる。797年出家。804年、最澄と同じ遣唐使船で唐へ渡る。
- 入唐と密教の伝授: 長安で密教第七祖・恵果阿闍梨と出会い、短期間で真言密教(金剛界・胎蔵界両部)の奥義全てを伝授される。密教は、大日如来を本尊とし、三密(身密・口密・意密)修行により即身成仏が可能と説く秘密の教え。空海は膨大な密教経典、曼荼羅、法具を持ち帰り806年に帰国。
- 真言宗の開宗と拠点: 帰国後、朝廷の信任を得て、816年に高野山に金剛峯寺、823年に京都の官寺・教王護国寺(東寺)を賜り、これらを拠点に真言宗を開く。持ち帰った経典や図像に基づき、密教教義を**『十住心論』『秘蔵宝鑰』**などで体系化し、日本に純粋な密教(純密)を確立。
- 加持祈祷と現世利益の重視: 真言密教は、奥深い哲学体系と同時に、加持祈祷(仏の力で病気平癒、息災延命、怨霊調伏、雨乞いなど現世の願いを成就させる儀式)を重視。空海自身も宮中で加持祈祷を行い霊験が信じられた。この現世利益をもたらす力が貴族社会のニーズに合致し、真言宗が急速に広まる大きな要因となった。
- 広範な文化的・社会的貢献: 空海は仏教者としてだけでなく、多才な文化人・知識人だった。漢詩文に優れ、書道では三筆の一人。日本最初の庶民教育機関といわれる綜芸種智院を設立。故郷・讃岐国では満濃池修築工事を指揮し成功させたと伝わる。
- 後世への影響: 空海(弘法大師)はその超人的能力と人柄から死後も「お大師様」として広く信仰を集め(大師信仰)、四国八十八箇所巡礼など様々な伝説・信仰を生んだ。空海が確立した真言密教(東密)は、天台宗の密教(台密)とともに平安仏教界に大きな影響を与え、特に貴族社会の精神文化や芸術に深く浸透した。
4.3. 平安初期仏教の特色:山林修行、鎮護国家、密教、貴族化
平安初期(9世紀)に隆盛した天台・真言宗(平安仏教、平安二宗)は、奈良時代の南都仏教とは異なる特色を持っていた。
- 山林仏教(山岳仏教)の性格: 南都六宗が都市に拠点を置いたのに対し、天台宗(比叡山)や真言宗(高野山)は都から離れた山中に拠点を置き、厳しい自然環境での修行を通じて悟りを目指す傾向(山林仏教、山岳仏教)が顕著だった。世俗から距離を置き精神性を高める意識や、古来の山岳信仰との結びつきも考えられる。
- 鎮護国家思想の継承と深化: 桓武天皇以来の鎮護国家思想は平安仏教でも重要であり続け、最澄・空海も自らの教えが国家鎮護に貢献すると強調し朝廷の保護を得た。特に密教の加持祈祷は、天皇の病気平癒や怨霊調伏、敵国降伏など国家的な祈願(後七日御修法など)に盛んに用いられ、仏教と朝廷の結びつきを強めた。
- 密教の隆盛: 平安仏教の最大の特徴は密教が主流となったこと。天台宗も密教を取り込み(台密)、真言宗(東密)とともに、その神秘的な儀式、奥深い教義、現世利益をもたらす力が、平安貴族社会の精神性に深く浸透し影響を与えた。密教美術(曼荼羅、仏像・仏画)も発展。
- 貴族仏教としての性格: 平安仏教は、その高度な教義や複雑な儀式、鎮護国家思想を通じた朝廷との強い結びつきから、主に天皇や貴族層の信仰を集め、彼らの寄進・保護の下で発展した。僧侶になることも貴族子弟のキャリアパスとなり、高僧には高い官位が与えられるなど、仏教界と貴族社会は密接に結びついた。民衆への布教も行われたが、鎌倉新仏教ほど広く深く浸透するには至らず、貴族仏教としての性格が強い。
平安仏教の成立は、律令国家体制が変容し新たな社会(王朝国家)が形成される中で、仏教が国家や社会で新たな役割を担い、日本独自の展開を遂げる大きな画期だった。これらの新しい仏教の動きも、律令国家の「変容」を示す重要な一側面だった。
第四章:天平文化とその時代―国際性と鎮護国家思想の交響―
8世紀、律令国家体制が最盛期を迎えた奈良時代には、国際色豊かで壮麗な**「天平文化」が花開きました。本章では、主に聖武天皇の治世を中心に展開したこの天平文化に焦点を当て、その輝かしい成果と、それを生み出した時代の背景**、そして文化を特徴づける国際性や仏教思想について多角的に解説します。天平文化は、日本古代文化の一つの頂点を示すものであり、その理解は奈良時代、ひいては日本文化史全体を捉える上で不可欠です。
天平文化は、律令国家の充実した国力、壮麗な都平城京、そして遣唐使などを通じた活発な国際交流を背景に、盛唐文化の影響を強く受けて花開きました。しかし同時に、相次ぐ政変や疫病、天災といった社会不安から、仏教による鎮護国家思想が深く浸透し、東大寺大仏造立などの国家的な仏教事業が文化全体に大きな影響を与えました。この「国際性」と「鎮護国家思想」の交響こそが、天平文化の大きな特色と言えます。
早慶などの難関大学入試においても、天平文化は極めて重要な範囲です。その時代背景、主要な特色(国際性、仏教色、貴族性、写実性)、そして仏教美術(東大寺、正倉院など)、文学(『万葉集』『懐風藻』)、歴史編纂(記紀、風土記)、学術(南都六宗)など、各分野の具体的な成果について正確に理解しておく必要があります。これらの文化が当時の政治・社会・思想とどのように結びついていたのかを深く考察する能力が求められます。
本章では、まず天平文化の背景と特色を概観した後、仏教美術、絵画・工芸・書、文学、歴史編纂、学問・教育といった各分野の具体的な内容を探ります。律令国家最盛期が生み出した豊かでダイナミックな文化の世界を学び、その歴史的意義を深く理解していきましょう。
1. 天平文化の時代背景と特色:繁栄と不安が織りなす国際色豊かな輝き
8世紀、律令国家体制が最も整い国力が充実した奈良時代中期から後期にかけて、日本の古代文化は一つの頂点を迎えます。それが、聖武天皇の治世を中心に花開いた**「天平文化」です。本セクションでは、この天平文化に焦点を当て、それがどのような時代背景のもとで生まれ、国際性豊かで仏教色の濃い、貴族的かつ写実的な輝きを持つに至ったのか、その全体像と主要な特色**を概観します。
天平文化は、律令国家の繁栄、壮麗な帝都平城京の存在、そして遣唐使などを通じた活発な国際交流によってもたらされた盛唐文化の強い影響を背景としています。しかしその一方で、相次ぐ政変や疫病の流行、天災といった社会不安も深刻であり、これが聖武天皇らを仏教による鎮護国家思想へと傾倒させ、大規模な仏教事業(国分寺建立、東大寺大仏造立など)を展開させる大きな要因となりました。この「繁栄」と「不安」が織りなす時代の空気の中で、天平文化は独自の性格を形成していったのです。
早慶などの難関大学入試においても、天平文化はその**時代背景(律令国家最盛期、国際交流、社会不安)と、そこから生まれた主要な特色(国際性、仏教中心主義、貴族性、写実性)**を正確に理解しておくことが極めて重要です。これらの要素がどのように結びつき、天平文化という輝かしい成果を生み出したのかを考察する力が求められます。
本セクションでは、天平文化が花開いた土壌とその基本的な性格を解説します。この理解が、続く各分野(建築、彫刻、絵画、工芸、文学など)の具体的な文化遺産を学ぶ上での重要な基礎となるでしょう。
1.1. 時代区分としての「天平」:律令国家最盛期の文化の精華
「天平文化」は狭義には聖武天皇治世、特に「天平」元号(729年~749年)の約20年間の文化を指す。しかし一般的には、藤原不比等が没し長屋王が政権を担った720年代から、仏教政治が終焉し光仁天皇が即位する770年頃までの、奈良時代中期から後期にかけての文化全体を包括的に指す用語として用いられる。この時期は、律令国家体制が制度的に最も整備され国力が充実し、国際交流も活発だった「律令国家の最盛期」にあたる。本章ではこの広義の天平文化、すなわち8世紀に花開いた律令国家文化の精華を扱う。
1.2. 律令国家の繁栄と国際性:文化隆盛を支えた土壌
天平文化の華やかな開花は、いくつかの重要な時代的・社会的基盤の上に成り立っていた。
- 律令国家体制の成熟と国力の充実: 律令に基づく統治システムが本格稼働し、官僚機構や地方支配の仕組みが整った。これにより国家は全国の人民と富を把握し、莫大な国力を動員可能となり、平城京造営、東大寺大仏のような巨大プロジェクト、記紀や風土記の編纂、大規模な遣唐使派遣といった文化事業を支える財政的・人的基盤が確立された。国家による文化活動への積極的な関与は天平文化の大きな特徴である。
- 壮麗なる帝都・平城京の存在: 首都・平城京は政治・経済の中心であるとともに、全国から人や物資が集まる文化の中心地でもあった。人口10数万人を擁したとされる国際都市には、壮麗な宮殿や官衙、東大寺、興福寺などの大寺院が建ち並び、活気ある市場(東西市)が開かれ、多様な文化が交流する場となった。この都市空間そのものが天平文化を生み出し享受するための舞台装置だった。
- 安定した東アジア情勢と活発な国際交流: 8世紀前半の東アジアは、唐(玄宗皇帝治世前半、「開元の治」)が圧倒的な国力と文化力を誇り、周辺諸国(新羅、渤海、日本など)との間に比較的安定した国際関係が築かれていた。この国際環境下で、日本は積極的に遣唐使を派遣し続けた。遣唐使船には外交官だけでなく、多くの留学生(吉備真備、阿倍仲麻呂など)や学問僧(玄昉、道慈など)が同乗し、唐の都・長安で最新の文化・制度を学び日本へ持ち帰った。彼らは帰国後、政治・宗教・学術の各分野で指導的役割を果たし、唐文化の移植と日本文化の発展に大きく貢献した。また、新羅や渤海からの使節も頻繁に来訪し、さらにインド(菩提僊那)やベトナム(林邑の仏哲)方面からの渡来僧も訪れるなど、平城京はまさに国際的な文化交流のハブとなっていた。
1.3. 仏教(特に鎮護国家思想)の隆盛とその強烈な影響
天平文化の最も顕著な特色は、仏教、とりわけ仏法の力で国家の安寧と繁栄を守ろうとする鎮護国家思想の強い影響である。
- 聖武天皇・光明皇后の篤い信仰と社会不安: 聖武天皇と光明皇后は個人的にも仏教に深く帰依していたが、相次ぐ政変(長屋王の変、藤原広嗣の乱)、天然痘の大流行(藤原四子の死)、頻発する天災地変を目の当たりにする中で、社会の動揺と人心の不安を鎮め、国家の平安を実現するには仏法の力にすがるしかない、と考えるようになった。
- 国家仏教の推進と巨大プロジェクト: この鎮護国家思想に基づき、国家的な仏教事業が次々と推進された。
- 国分寺・国分尼寺の建立(741年): 全国約60余国に、国家安泰を祈願する**国分僧寺(金光明四天王護国之寺)と滅罪を祈願する国分尼寺(法華滅罪之寺)**建立の詔を発布。仏教の力を国の隅々まで及ぼし、中央集権体制を宗教面からも補強する壮大な計画だった。
- 東大寺盧舎那仏(大仏)の造立(743年発願、752年開眼供養): 国家の総力を結集し、東大寺に巨大な盧舎那仏像(大仏)を造立。華厳経の教主たる盧舎那仏の力で国家と民衆を救済しようとする鎮護国家思想の究極的表現であり、天皇権威と国家威光を示す象徴的モニュメントだった。民衆の自発的協力を呼びかけ、僧・行基を登用し勧進活動を行うなど、国民的プロジェクトの側面も持つ。
- 鑑真の招来と戒律制度の確立(753年来日): 正式な授戒制度確立のため、唐の高僧・鑑真を多大な困難の末に招来。鑑真は東大寺に戒壇院を設立し、仏教界の規律を引き締め、後の日本仏教に大きな影響を与えた。
- 大規模な写経事業: 国家事業として、平城宮内の写経所などで膨大な仏教経典(特に『金光明最勝王経』『法華経』など)が書写された。仏教普及と学問研究の基礎となり、書道や製紙・製墨技術の発展にも寄与した。
- 仏教文化の全面的開花: 国家的な仏教保護政策は、寺院建築、仏像彫刻、仏画、仏具工芸などで壮大で優れた仏教美術を開花させる直接的な原動力となった。僧侶の社会的地位も向上し、玄昉のように政治に関与する者も現れるなど、仏教は天平時代の社会と文化のあらゆる側面に深く浸透した。
1.4. 天平文化の主要な特色:国際性・仏教色・貴族性・写実性
以上の時代背景を踏まえ、天平文化の主要な特色は以下のようになる。
- 豊かな国際性: 遣唐使などにより盛唐文化が積極的に導入され、あらゆる面に影響が見られる。シルクロードを通じ、西アジア(ペルシア)やインド、東ローマ(ビザンツ)などの文化要素も伝来し、文化の多様性を豊かにした(例:正倉院宝物)。
- 濃厚な仏教中心主義: 鎮護国家思想に基づき、仏教が国家保護を受け空前の隆盛を迎え、文化全体(特に美術・建築、学問、文学の一部)に強い影響を与えた。壮大で荘厳な仏教美術が象徴。
- 貴族的性格: 天皇や皇族、有力貴族、大寺院が文化の主要な担い手でありパトロンだった。彼らの財力や権力、洗練された美意識を背景に、豪華で質の高い作品が多く生み出された。
- 写実的な表現: 彫刻(例:興福寺阿修羅像)や絵画(例:薬師寺吉祥天像)において、人間の感情や身体、事物の形態をありのまま捉えようとする、写実的で人間味あふれる表現が追求された。盛唐美術の影響と共に、この時代の人間や世界への肯定的な眼差しを反映しているとも言える。
- 若々しさとおおらかさ: 律令国家形成期にあたり、外来文化を旺盛に吸収しようとするエネルギーや、後の国風文化とは異なる、素朴で力強く、おおらかな表現(例:**『万葉集』**の歌)が見られる。
これらの特色を持つ天平文化は、日本の古代文化が到達した一つの頂点であり、その豊かで多様な遺産は後の日本文化形成と発展に対し、計り知れない影響を与え続ける。
2. 仏教美術の精華:祈りとかたちが織りなす荘厳な世界
天平文化の中核をなし、その国際性豊かで華やかな特色を最もよく示しているのが、国家的な保護のもとで花開いた仏教美術です。本セクションでは、この天平文化の精華とも言える仏教美術に焦点を当て、鎮護国家思想の象徴である東大寺の建立と盧舎那仏(大仏)の造立、藤原氏の氏寺・興福寺や鑑真ゆかりの唐招提寺などに代表される壮大な寺院建築、そして塑像・乾漆像・金銅仏など多様な技法を駆使して生み出された仏像彫刻の傑作について解説します。「祈り」と「かたち」が織りなす荘厳な世界を探ります。
聖武天皇の発願による東大寺大仏造立は、国家の総力を挙げた巨大プロジェクトであり、天平時代の仏教信仰と技術力の頂点を示すものでした。また、東大寺に付属する正倉院の宝物は、当時の工芸技術の高さとシルクロードを通じた広範な文化交流を今に伝える奇跡的なコレクションです。興福寺の阿修羅像に見られる深い精神性、唐招提寺の鑑真和上像の写実性なども、天平彫刻の到達点の高さを物語っています。これらの美術作品は、当時の人々の信仰心、美意識、そして国際的な文化状況を映し出しています。
早慶などの難関大学入試においても、**東大寺(大仏、正倉院)、興福寺(阿修羅像など)、唐招提寺(鑑真和上像、金堂)といった主要寺院とその代表的な建築・彫刻、そして天平彫刻の技法(塑像、乾漆像)**に関する知識は極めて重要です。これらの仏教美術を通して、天平文化の特色や当時の社会・信仰について考察する能力が求められます。
本セクションでは、天平時代の代表的な仏教美術作品とその背景を具体的に見ていきます。古代日本が生み出した壮麗で精神性豊かな美の世界に触れ、天平文化への理解を一層深めていきましょう。
2.1. 国家仏教の象徴:東大寺とその至宝
聖武天皇発願による東大寺は、全国国分寺の総本山(総国分寺)と位置づけられ、律令国家の仏教政策の中心であり、天平美術の粋を集めた巨大な殿堂だった。
- 盧舎那仏(奈良の大仏)造立:国家プロジェクトの結晶:
- 背景と思想: 聖武天皇が**『華厳経』に説かれる宇宙の真理たる盧舎那仏**の巨大像を造立することで、仏の慈悲により国家の災厄を鎮め、全ての人々を救済し、仏法による理想国家(華厳の浄土)を現出しようとした壮大な鎮護国家プロジェクト。詔で国民の協力を呼びかけたことは、国民統合を図る意図も示す。
- 民衆の協力と行基の役割: 大事業には民衆の協力(勧進)が不可欠だった。政府は、民間布教や社会事業で民衆から絶大な支持を得ていた僧・行基とその弟子集団を登用し、勧進活動の中心を担わせた。行基は後に日本最初の大僧正となり、大仏造立への功績は大きかった。
- 技術と規模: 大仏は鋳造という当時の最高水準技術を結集して造られた。巨大な土の原型から外型・中型を取り、隙間に溶銅を下方から数段階に分けて流し込む「下方鋳込」技法を使用。完成時の高さは約16m(座高)、顔長約5m、目長約1mという空前のスケール。表面には陸奥産黄金で金鍍金が施された。専門役所・造東大寺司が設置され、多くの官人、工人(国中連公麻呂ら)、全国から徴発された労働者が動員された。
- 意義と後世: 大仏造立は律令国家の国力と技術力の頂点を示し、仏教による国家統合と天皇権威を誇示する象徴だった。752年の開眼供養会は天平文化のクライマックスを告げる出来事。現在の大仏は後の二度の戦乱で被害を受け、鎌倉・江戸時代に再建されたもので頭部などは後世作だが、台座蓮弁などに当初の面影を留める。
- 壮大な伽藍:大仏殿と今はなき諸堂塔:
- 大仏殿(金堂): 大仏を安置する大仏殿も創建当時は現在(江戸時代再建)のものより巨大で、正面幅11間(約88m)、奥行き7間(約50m)という世界最大の木造建築物だった。
- 伽藍配置: 南から南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が一直線に並び、左右対称に高さ100mに達したと推定される壮大な**七重塔(東西両塔)**がそびえる、極めて壮大で整然としたものだった。多くは後の戦乱や災害で失われ、再建を繰り返している。
- 現存する天平建築の至宝:法華堂と転害門:
- 法華堂(三月堂、国宝): 東大寺に残る数少ない創建当初(8世紀前半)の建築物の一つ(礼堂部分は鎌倉増築)。寄棟造の正堂は天平建築の力強さとおおらかさを伝える。堂内には本尊・不空羂索観音立像(脱活乾漆像、国宝)を中心に、梵天・帝釈天立像(乾漆像、国宝)、四天王立像(乾漆像、国宝)、秘仏・執金剛神立像(塑像、国宝)、そして**日光・月光菩薩立像(塑像、国宝)**が安置され、天平彫刻の最高傑作群として知られる(一部はミュージアム移設)。
- 転害門(国宝): 創建当初の伽藍建築がほぼそのまま残る唯一の門。三間一戸の八脚門形式で、天平建築の簡素ながら力強い様式を伝える。
- 正倉院宝庫:天平文化のタイムカプセル:
- 由来と構造: 東大寺大仏殿北西に位置する、巨大な高床式校倉造の倉庫。元は東大寺倉庫の一つだったが、756年、光明皇后が聖武天皇遺愛品約650点を盧舎那仏に献納(『東大寺献物帳』)したことから、皇室ゆかりの宝物を保管する特別な倉庫(勅封蔵)となった。高床や校倉造構造が内部湿度を調整し、宝物の良好な保存に役立ったと考えられる。
- 宝物の内容:国際色豊かなコレクション: 正倉院には光明皇后献納品を中心に、その後の東大寺儀式で使用された仏具、文書なども合わせ、約9000件の膨大かつ多様な宝物が奇跡的に1250年以上良好な状態で保存されてきた。内容は、唐からの舶載品(螺鈿紫檀五絃琵琶、漆胡瓶、白瑠璃碗、銀薫炉、花氈、錦・綾織物、**銅鏡(平螺鈿背八角鏡など)**など)、西域・ペルシア・インド・東ローマなどの影響を示す文物(西方起源のデザイン)、日本製(和製)の工芸品(伎楽面、和琴、三纈染織品、鳥毛立女屏風、漆器、金工品、ガラス器、木工品、刀剣、文房具など)と多岐にわたる。
- 意義:天平文化と律令国家研究の宝庫: 正倉院宝物は天平文化の国際性、貴族文化の華やかさ、工芸技術の高さを示す世界的な文化遺産。当時の東アジア文化圏全体のレベルの高さと日本の位置を示す。共に保管された正倉院文書(戸籍・計帳断簡、税物付札、写経所記録、官庁帳簿など)は、当時の律令国家の行政・財政・社会の実態、人々の生活、文字文化の普及度などを知るための最も重要な一次史料群である。
2.2. 興福寺:藤原氏の権勢を映す氏寺
藤原鎌足発願、子・不比等らが平城京遷都に伴い現在地に移転・造営したとされる藤原氏の氏寺。奈良時代を通じ、藤原氏の政治的勢力拡大とともに発展し、多くの堂塔が建立され、南都仏教(特に法相宗)の中心寺院の一つとなった。
- 天平彫刻の傑作:阿修羅像と八部衆・十大弟子像:
- 興福寺西金堂(焼失)に安置されていた**乾漆八部衆立像(国宝、現国宝館)**の一つ、阿修羅像は天平彫刻を代表する傑作として名高い。仏教世界の守護神だが、三面六臂の異形ながら繊細で憂愁を秘めた少年のような印象。リアルな人体表現と内面の複雑な感情を描き出すかのような高い精神性は多くの人々を魅了。天平時代の造仏における写実性と精神性の高さを象徴する。
- 他の八部衆像や、同じく西金堂にあった乾漆十大弟子立像(国宝、現国宝館)も、個性的な顔立ちや姿態、リアルな衣文表現に優れ、天平時代の脱活乾漆像技術の頂点を示す作品群。光明皇后が母・橘三千代の一周忌(734年)に発願して造らせたとされる。
- 塑像の優品: 北円堂(鎌倉再建)にあったとされる塑像四天王像(国宝、現国宝館に移設か)など、粘土で造られた塑像の優れた作例も伝わる。塑像は量感を出しやすく力強い表現に適していた。
興福寺仏像群は当時の仏教信仰と共に、最大貴族・藤原氏の権勢と彼らが支えた高度な文化水準を反映している。
2.3. 唐招提寺:鑑真和上の精神を伝える伽藍
度重なる困難を乗り越え来日した唐の高僧・鑑真のため、新田部親王旧宅地を賜り759年に建立された寺院。鑑真はここで戒律(律宗)を講じ、多くの僧侶を育て日本仏教発展に多大な貢献をした。
- 鑑真和上像(国宝、御影堂安置):日本最古の肖像彫刻: 鑑真没後まもなく、弟子たちが師の姿を偲んで制作したとされる脱活乾漆像。目を閉じ静かに座る姿は、渡航の苦難(特に失明)を乗り越えた高僧の、穏やかさの中に秘めた強い意志と深い精神性を驚くほどリアルに伝える。衣服の自然な襞も見事。現存日本最古の肖像彫刻として、また天平時代の写実表現の極致を示す傑作として極めて重要(通常非公開)。
- 金堂(国宝):天平後期の建築様式の粋: 奈良時代(8世紀後半)建立、天平建築を代表する仏堂。正面が一列の太い柱(エンタシスを持つ)だけで構成され内部に柱を立てず広大な空間を確保、屋根が雄大で安定感のある寄棟造などが特徴。おおらかで力強い姿は天平建築の到達点を示す。内部には巨大な本尊・盧舎那仏坐像(脱活乾漆像、国宝)、左右に薬師如来立像と千手観音立像(ともに木心乾漆像、国宝)という高さ3~5m超の三尊像がゆったりと安置され、創建当初の荘厳な空間を今に伝える。千手観音像は実際に千本の手を持つことで有名。
- 講堂(国宝):宮殿建築の遺構: 金堂北に建つ講堂は、平城宮の東朝集殿を移築・改造したものとされ、現存唯一の平城宮宮殿建築遺構としても極めて貴重。入母屋造で簡素ながら宮殿建築の風格を備える。
唐招提寺は、鑑真の偉大な功績と彼が伝えた戒律の精神を伝え、天平時代後期の建築・彫刻様式を代表する文化遺産として重要な位置を占める。
2.4. その他の主要寺院と仏像:多様な造形美
東大寺、興福寺、唐招提寺以外にも、天平時代の優れた仏教美術を伝える寺院や仏像が数多く存在する。
- 薬師寺東塔(国宝):凍れる音楽: 平城京遷都に伴い移建された薬師寺伽藍のうち、創建当初(白鳳期か天平初期か)の姿を唯一伝える三重塔。各層に裳階が付くため六重塔に見える優美さが特徴。リズミカルで軽快、かつ安定感ある姿はフェノロサに「凍れる音楽」と絶賛され、日本建築の最高傑作の一つ。
- 法隆寺伝法堂(国宝):住宅風仏堂: 法隆寺東院伽藍にある伝法堂は、聖武天皇夫人・橘古那可智の邸宅を移築・改造したものと伝わる。板張り床、化粧屋根裏など住宅建築様式を色濃く残し、当時の貴族住居の様子を偲ばせる貴重な遺構。
- 新薬師寺十二神将立像(国宝):塑像の迫力: 光明皇后が聖武天皇病気平癒を祈って建立したとされる新薬師寺本堂(国宝、天平建築)には、本尊薬師如来坐像(国宝、平安初期作)を取り囲むように、塑像の十二神将立像(11体が国宝)が円陣状に林立。薬師如来を守護する神々が武器を手に怒りの表情を露わにし敵を睨む姿は、極めてリアルかつ躍動感に満ちる。筋肉の盛り上がりや甲冑の質感、一体一体異なる個性的な表情など、天平塑像技術の最高傑作の一つとされ、見る者を圧倒する迫力を持つ。
2.5. 彫刻技法:多様な素材と表現の追求
天平時代の仏像彫刻が豊かな表現を生んだ背景には、素材や技法の多様な展開があった。
- 塑像: 木や銅線の心木に藁などを混ぜた粘土(塑土)を盛り付けて形作り、乾燥後彩色。粘土のため比較的自由で微妙なニュアンスを持つ柔らかな造形が可能で、写実的表現に適した。例:東大寺法華堂日光・月光菩薩像、新薬師寺十二神将像。衝撃に弱く保存が難しい。
- 乾漆像:漆と麻布を用いる技法で、天平時代に特に発達。
- 脱活乾漆像: 粘土原型の上に麻布を漆で貼り重ね、乾燥後中の粘土を取り出し(脱活)、内部空洞の像を作る。軽量で大きな像も扱いやすく、細やかな表現が可能。例:興福寺阿修羅像、唐招提寺鑑真和上像。
- 木心乾漆像: 木で大まかな形(木心)を彫り、上に木屎漆(漆に木の粉などを混ぜたもの)を盛り付け細部を成形。脱活乾漆像より丈夫で大型像に適した。例:唐招提寺金堂三尊像。
- 銅像(金銅仏): 銅(青銅)を鋳型に流し込み制作。量産も可能。東大寺大仏のような巨大像もこの技法。表面に金鍍金(金メッキ)を施し荘厳さを演出することが多い(金銅仏)。例:薬師寺金堂薬師三尊像(年代論争あり)。
- 木彫: 木材を直接彫刻する技法。天平時代にも檀像(香木を用いた小像)などがあったが、塑像・乾漆像に比べ大型像は少ない。木彫が主流となるのは平安時代以降。
天平仏師たちはこれらの多様な素材・技法を駆使し、それぞれの特性を活かし、仏や菩薩、守護神、高僧などの姿を、時には理想化された荘厳さで、時には生身の人間に迫るリアリティで、驚くほど豊かな表現力で造形した。
3. 絵画・工芸・書:国際色豊かな宮廷の美と写経文化
3.1. 絵画:現存少ないが多様な展開(仏教絵画、世俗画、壁画)
現存する天平絵画は多くないが、残された作品や文献記録から、仏教絵画を中心に多様なジャンルが制作されていたことがわかる。
- 仏教絵画の優品:薬師寺 吉祥天像: 麻布に描かれた独尊像(国宝)。豊満で柔らかな体つき、優美な顔立ち、華麗な衣装や装身具は盛唐貴婦人を思わせる豊麗な美しさ(「唐美人様」)。細くしなやかで変化に富んだ描線(鉄線描に近い)と鮮やかで濃密な色彩が特徴。福徳や豊穣をもたらす女神への信仰が華麗に表現された。
- 世俗画・装飾画:正倉院 鳥毛立女屏風: 六曲一隻の屏風(国宝)。各扇に樹下に立つ唐風衣装の女性(樹下美人)を描く。元は女性の髪や着衣、背景などに鳥の羽毛が貼り付けられていた(鳥毛)。盛唐絵画、特に人物画や墓室壁画などの影響を色濃く示し、当時の貴族邸宅などを飾った調度品と考えられる。
- 絵巻物の源流:『過去現在絵因果経』: 釈迦の前世(過去)と現世(現在)の生涯物語を、下段経文・上段絵で示す絵巻物。絵と経文が一体で物語を説く形式は後の絵巻物の源流の一つ。現存は平安時代以降の写本が多いが、天平時代(8世紀)制作とされる数巻(上品蓮台寺本、旧益田家本など、国宝)も伝わる。素朴ながら生き生きとした描線と明快な色彩で物語を分かりやすく伝える。
- 失われた壁画: 法隆寺金堂壁画(焼損、白鳳期か)のような壮大な仏教壁画が、東大寺などの大寺院にも描かれていたと考えられるが、現存しない。
3.2. 工芸:正倉院宝物にみる国際性と高度な技術の粋
正倉院宝物は天平工芸の多様性、質の高さ、国際性をタイムカプセルのように伝える。唐からの最高級舶載品と、それを手本に日本の工人が模倣・発展させた優れた日本製工芸品が混在し、当時の技術交流を知る上で貴重。
- 木工・漆工芸:華麗なる装飾技法:
- 螺鈿: 夜光貝などの真珠層を文様の形に切り、木地や漆表面にはめ込む技法。螺鈿紫檀五絃琵琶(国宝)は紫檀製五絃琵琶背面に螺鈿でラクダに乗る人物などを精緻に描き、異国情緒あふれるデザイン。世界唯一の五絃琵琶としても貴重。平螺鈿背八角鏡(国宝)は銅鏡背面に螺鈿や伏彩色された琥珀などで華やかな花鳥文様を施す。
- 蒔絵: 漆で文様を描き、乾かないうちに金銀粉を蒔きつけ定着させる日本独自技法。正倉院には初期蒔絵(末金鏤)を用いた太刀鞘や箱などが残り、平安以降発展する蒔絵の源流が見える。
- 平文(平脱): 金銀薄板を文様の形に切り漆表面に貼り、漆を塗り重ねて文様部を研ぎ出す技法。豪華で華やか。金銀鈿荘唐大刀(国宝)鞘などに使用。
- その他: 色の異なる木材等を組み合わせる木画や象嵌、油で顔料を溶いて描く密陀絵など多様な技法を用いた箱、盤、楽器が多数残る。
- 金工・ガラス工芸:西方の影響と日本の技術:
- ガラス器: 白瑠璃碗(国宝)は円形カット文様(切子)が施され、ササン朝ペルシアやローマの影響を受けた舶載品と考えられる。紺瑠璃坏(国宝)は鮮やかなコバルトブルー。日本製と考えられる緑色の杯なども存在。
- 金属工芸: 金銀鈿荘唐大刀(国宝)は金銀宝石ガラス玉を惜しげもなく用い極めて豪華な装飾。ペルシア様式水差しの原型となった銀製水差しなども存在したと考えられる。黄金や銀を用いた食器、仏具、鏡(海獣葡萄鏡など)も多数伝わる。
- 染織工芸:華麗なる織りと染め:
- 高級織物: 錦、綾、羅など唐伝来の高度な技術で織られた絹織物多数。文様には宝相華、唐草、鳳凰など中国的モチーフに加え、花喰鳥、狩猟文、連珠文、葡萄唐草文など西方起源の異国的モチーフも多く、国際文化交流を反映。官人朝服、貴族衣装、仏教儀式の幡などに使用。
- 三纈: 高度な染色技法である纐纈(絞り染め)、﨟纈(ろうけつ染め)、夾纈(板締め染め)を用いた布製品も多数。夾纈で象文様を染めた屏風などが有名。
これらの正倉院工芸品は素材の貴重さ、技術の精巧さ、国際色豊かなデザインにおいて天平文化の精華を示し、当時の美意識や生活、広範な文化交流を雄弁に物語る。
3.3. 書:唐風書道の影響と国家事業としての写経
奈良時代は遣唐使により唐の洗練された書風が伝えられ、日本の書道が大きく発展した時代でもあった。
- 唐風書道の影響と流行: 王羲之ら名筆家の書風が手本とされ、それを学んだ力強く格調高い唐風の書が流行。端正な楷書、流麗な行書が重んじられた。
- 天皇・皇后の書: 天皇や皇后も自ら筆を執り優れた書を残す。聖武天皇宸翰とされる**「雑集」(正倉院宝物)は王羲之風の流麗な行書。光明皇后筆と伝わる「楽毅論」**(正倉院宝物)は端正で力強い楷書の名品。当時の皇室の高い教養と書技を示す。
- 写経事業の隆盛: 仏教隆盛に伴い、写経が国家事業として、また個人的信仰や功徳のため極めて盛んに行われた。平城宮内の写経所では多くの専門役人(校生、写経生、装潢生など)が組織され、定められた様式(写経体)で正確かつ丁寧に経典を大量に書き写した。良質の麻紙・楮紙や墨が用いられ、時には金泥・銀泥で書かれた豪華な装飾経(例:紫紙金字金光明最勝王経)も制作。この大規模な写経事業は仏教普及と信仰深化、書道技術向上、製紙・製墨技術発展、文字文化定着に非常に大きな役割を果たした。正倉院には写経された経典だけでなく、写経所の運営記録(写経所文書)も多数残り、当時の官庁運営、写経生の勤務状況や給与、物品調達など、律令国家の行政システムや社会経済を知る貴重な史料となっている。
4. 文学の隆盛:『万葉集』にみる和歌の開花と漢詩文の興隆
天平文化は、美術や工芸だけでなく、文学の分野においても大きな実りをもたらしました。律令国家体制の確立に伴い文字(漢字)の使用が広まる中で、日本固有の歌である和歌が集大成され、また知識人の必須教養として漢詩文の創作も盛んになりました。本セクションでは、天平時代の文学に焦点を当て、現存最古の和歌集**『万葉集』、日本最古の漢詩集『懐風藻』、そして後の説話文学へ繋がる口承文芸**の世界について解説します。
この時代を代表する文学遺産**『万葉集』は、天皇から庶民、東国の農民や防人まで、実に多様な人々の歌約4500首を収め、「ますらをぶり」と評される力強く素朴な感情表現や、万葉仮名を用いた日本語表記の工夫など、古代日本人の精神世界と生活感情を豊かに伝えています。一方、官僚・知識人層の間では、唐の詩文に倣った漢詩創作が流行し、その成果は『懐風藻』にまとめられました。さらに、文字記録の背後には豊かな説話や伝承の世界が広がっており、後の『日本霊異記』**などに結実していきます。
早慶などの難関大学入試においても、『万葉集』(特徴、代表的歌人)、『懐風藻』、『日本霊異記』に関する知識は重要です。これらの文学作品を通して、天平文化の多様性、精神性、そして大陸文化受容の実態を理解し、当時の社会や人々の心情を考察する能力が求められます。
本セクションでは、和歌と漢詩文という二つの流れを中心に、天平時代に花開いた文学の世界を探ります。古代の人々が遺した言葉に触れ、その豊かな精神性と文学史上の意義を学んでいきましょう。
4.1. 『万葉集』:古代和歌の集大成、日本人の心の原風景
『万葉集』は7世紀後半から8世紀後半にかけて詠まれた和歌約4500首を収める現存日本最古の和歌集。天平文化の精神を最も豊かに映し出す文学遺産の一つ。
- 編纂者と成立時期: 全20巻。正確な成立時期・編纂者は未確定。勅撰和歌集ではなく、特定の個人または複数により長期に編纂・増補された私撰に近い形で成立したとされる。最終編纂者として最も有力視されるのが、万葉集後半期を代表する歌人・大伴家持。
- 収録歌の作者層の多様性: 最大の特色の一つは作者層の幅広さ。天皇・皇族(雄略天皇、額田王など)、貴族・官人(柿本人麻呂、山部赤人、山上憶良、大伴旅人、大伴家持など著名歌人多数)に加え、一般庶民(「よみ人知らず」含む)の歌、特に東歌(東国民衆の素朴な歌)や防人歌(九州防衛に徴発された兵士や家族の歌)も多数収録。これらの「名もなき人々の歌」は当時の生活感情や社会実態を知る上で貴重で、『万葉集』に多様性と深みを与える。
- 歌の内容と形式(歌体): 内容は雑歌(公的な歌)、相聞(恋愛や家族愛など私的な歌、最多)、挽歌(死を悼む歌)に大別される。形式(歌体)は五七五七七の短歌が約9割を占めるが、長編の長歌、長歌に添える反歌、五七七五七七の旋頭歌など多様。
- 表現と精神性:ますらをぶりと生活感情: 感情をストレートに力強く素朴に表現する傾向が強く、「ますらをぶり」と評される。自然との一体感、共同体との絆、死生観などが飾らない言葉で詠まれる。一方で、山上憶良の**「貧窮問答歌」**のように農民の生活苦をリアルに描く作品や、大伴旅人のように現世の苦悩を酒で忘れようとする人間的な感情を詠む作品もあり、古代人の多様な生活感情や精神世界が生き生きと映し出される。
- 表記(万葉仮名):日本語を書き留める工夫: 当時の日本語(上代日本語)を表記するため、漢字を借りて用いる万葉仮名で書かれる。漢字の音を借りる音仮名と訓を借りる訓仮名、さらに戯書のような用法も見られ、日本語表記の工夫を示す重要事例。当時の日本語発音、語彙、表記意識を知る上で極めて貴重な言語資料。
『万葉集』は古代日本人の精神の躍動、社会の現実、豊かな生活感情を瑞々しい言葉で伝え、日本文学の偉大な源流であり、その価値は時代を超えて輝き続ける。
4.2. 漢詩文の興隆:知識人の教養と『懐風藻』
律令国家成立に伴い、官僚・知識人にとって漢文読解・創作能力は必須教養となった。大学寮教育や遣唐使による唐詩文伝来を背景に、奈良時代には貴族社会を中心に漢詩文創作が盛んに行われた。
- 『懐風藻』:現存最古の漢詩集: 751年成立とされる現存日本最古の漢詩集。編者不明(淡海三船説など)。「懐風」は「古の風を懐う」意。
- 収録内容と作者: 7世紀後半の大津皇子から8世紀半ばの藤原氏貴族(藤原宇合など)、文人官僚(石上乙麻呂、山上憶良など)、僧侶(道慈など)まで64人の作者による120首余の漢詩収録。作者多くは支配者層・知識人層。
- 詩風と内容: 五言詩中心。中国六朝から初唐・盛唐詩の影響を受ける。内容は宴会、行幸、自然、詠史、述懐などを題材とし、格調高く洗練された表現を目指す作品が見られる。当時の知識人が中国古典文化を熱心に学び、自らのものとして表現しようと努力した様子がうかがえる。
- 意義: 天平時代の漢文学水準の高さ、当時の貴族社会の文化生活、美意識、中国文化への憧憬を知る上で貴重な史料。『万葉集』が日本語による多様な階層の歌を収めるのに対し、『懐風藻』は知識人層による漢語詩作の世界を伝える。
- 漢詩文の役割: 単なる文学的営為に留まらず、官僚能力を示す手段、貴族社交や国家儀式(外交文書作成など)でも重要だった。山上憶良のように漢詩文・和歌両方に優れた才能を発揮した人物もいた。
4.3. 説話・伝承の流布と『日本霊異記』への道
文字記録文学発展の一方、奈良時代には仏教説話や各地の民間伝承、神話などが口承で広く流布していた。これらは当時の人々の信仰心、道徳観、死生観、社会認識や願望などを反映し、後の文学作品の豊かな素材ともなった。
平安初期(弘仁年間、810年~824年頃)、奈良・薬師寺僧・景戒編纂の『日本霊異記』(正式名称:『日本国現報善悪霊異記』)は、このような奈良時代から平安初期にかけての仏教説話や民間伝承を日本で初めて集め書物としてまとめたもの。全三巻。**「善行は現世で善報、悪行は現世で悪報」**という仏教思想を、具体的な霊異譚を通して民衆に分かりやすく伝える意図で編纂された。収録説話は聖徳太子や行基、役小角ら著名人物から名もなき農民・僧侶・動物まで様々で、強欲な国司の末路、正直者の成功譚、超自然的な出来事などが当時の口語に近い素朴な漢文(和化漢文)で生き生きと描かれる。仏教文学の重要作品であると同時に、当時の社会様相、民衆の生活感情や信仰、古代日本語様相などを知る上で貴重な歴史・民俗資料でもある。
5. 歴史編纂と地誌:国家意識の形成と地方の実情把握
律令国家の形成は、単に政治や社会の仕組みを変えるだけでなく、国家としてのアイデンティティ、すなわち「日本」という国の成り立ちや領域を、文字によって記録し、内外に示すという新たな段階へと進みました。本セクションでは、この時代の重要な国家的文化事業である歴史書(『古事記』『日本書紀』)の編纂と、地方の実情把握のために命じられた地誌(風土記)の編纂に焦点を当てます。これらの事業は、国家意識の形成と統治基盤の確立という、律令国家にとって不可欠な要素でした。
天武天皇の代に始まったとされる国史編纂事業は、8世紀初頭に**『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)として結実します。前者は物語性に富み、後者は中国正史を意識した編年体で書かれるなど性格は異なりますが、共に天皇支配の正統性を神話と歴史によって語ることを目的としていました。また、713年には諸国に風土記**の編纂が命じられ、中央政府は地方の地理、産物、伝承などの情報を収集しようとしました。現存する風土記は、記紀とは異なる地方の視点や文化を知る貴重な史料となっています。
早慶などの難関大学入試においても、**『古事記』『日本書紀』(記紀)の成立年や性格の違い、そして風土記(現存五風土記など)**に関する知識は基本事項です。これらの文献が、なぜ編纂され、どのような内容を持ち、古代史研究においてどのような史料的価値を持つのかを理解し、当時の国家意識や社会・文化について考察する力が求められます。
本セクションでは、記紀と風土記という、古代日本を知る上で欠かせない二つの重要な文献群を取り上げ、その成立背景と内容、意義について解説します。文字によって国家の過去と現在を記録しようとした律令国家の姿を学び、基本史料への理解を深めていきましょう。
5.1. 『古事記』『日本書紀』の完成(記紀):国家の起源と皇統の正統性を語る
日本の国家と天皇家起源・由来の公式記録への動きは天武天皇時代に本格化。天武天皇は乱れた帝紀と旧辞を整理・統一し正しい歴史を後世に伝えることを命じたとされる(『古事記』序文)。背景には壬申の乱に勝利した自らの皇位継承の正統性確立と、律令国家支配の正当性を神話・歴史で裏付ける強い意志があった。この事業は元明天皇時代に結実し、『古事記』『日本書紀』という性格の異なる二つの歴史書(合わせて記紀と総称)が相次いで完成した。
- 『古事記』:物語としての国のはじまり
- 成立: 712年献上。現存日本最古の歴史書(文学書とも)。
- 編纂者: 天武天皇の命で、記憶力に優れた稗田阿礼が誦習していた帝紀・旧辞を、文官・太安万侶が聞き取り整理して書き記したものと序文にある。
- 構成と内容: 全3巻。上巻は天地開闢から天孫降臨までの神代物語。中巻は初代神武天皇から第15代応神天皇まで。下巻は第16代仁徳天皇から第33代推古天皇(7世紀初頭)まで。
- 特色と性格: 神話・伝承豊富で物語的要素が非常に強い。皇統譜を軸としつつ、支配由来と正統性をドラマティックな神話・英雄譚として語ることに重点。独特の和化漢文体で書かれ、当時の日本語語彙・語法、歌謡(記紀歌謡)を多数含む。主に国内向けに、天皇支配の神聖さと正統性を物語で伝え、国家一体感醸成を図った性格が強い。
- 『日本書紀』:国家の公式な歴史(正史)
- 成立: 720年完成。日本最初の勅撰国史。
- 編纂者: 舎人親王らが中心となり、多くの学者・官人が関与したとされる。
- 構成と内容: 全30巻と系図1巻(系図現存せず)。巻1・2は神代、巻3以降は初代神武天皇から第41代持統天皇(7世紀末)まで。
- 特色と性格: 中国正史の体裁(特に編年体)を強く意識し、純粋漢文・編年体で記述。客観性装飾か異伝尊重か、一出来事に複数伝承(「一書に曰く」)を載せる箇所が多い。神話部分も『古事記』と異なる記述が多い。朝鮮半島諸国や中国との外交関係記述が『古事記』より格段に多い。対外的にも通用する国家の成り立ちと歴史、天皇支配の正統性を国際標準で公式に示す国家正史としての性格が極めて強い。
- 六国史の筆頭: 『日本書紀』は、続く『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の五正史と合わせ六国史と呼ばれ、奈良・平安時代の歴史を知るための最も基本的な文献史料群。
- 記紀編纂の意義: 律令国家が文字記録を通じ、自らの起源を神話に遡って語り、皇統の万世一系と支配正統性を確立し、国民的な歴史意識(ナショナル・アイデンティティの萌芽)を形成しようとした極めて重要な国家的事業だった。両書はその後の日本の歴史観、天皇観、神話観、文学・文化に計り知れない影響を与え続ける。
5.2. 風土記:地方の実情把握と在地文化の記録
中央政府は国家的な歴史編纂と並行し、律令支配を円滑に浸透させ統治に必要な情報を収集するため、諸国国司に対し、国の地理・産物・伝承などを詳細に調査・記録し報告するよう命じた。これが風土記編纂である。
- 編纂命令(713年): 元明天皇が諸国国司に対し、①郡郷名の好字使用、②産物、③土地の肥痩、④山川原野の名号の所由、⑤古老相伝の旧聞異事、の五項目を記録し解文で中央に提出するよう命じる官符を発布。
- 現存風土記とその特色: 多くは失われたが、以下五国の風土記が一部またはほぼ完全に残る。
- 『出雲国風土記』: ほぼ完全な形で現存。733年完成・報告。国引き神話や出雲系神々の詳細な記述、地理、産物、神社、地名由来、交通路、生活などが極めて詳細かつ体系的に記録され、古代出雲地方の社会文化を知る第一級史料。
- 『常陸国風土記』: 一部欠落。ヤマトタケル伝説、土着神々、古代地名・方言、生活習慣記述豊富。
- 『播磨国風土記』: 大部分残存。オオクニヌシ系神話、地名起源説話、産物、遺跡記述多い。
- 『豊後国風土記』: 一部のみ現存。景行天皇伝説、産物、温泉記述など。
- 『肥前国風土記』: 一部のみ現存。景行天皇・神功皇后伝説、地理、産物、土着神々記述など。
- 内容と意義:中央とは異なる地方の視点: 風土記は中央政府にとっては地方統治基礎資料だったが、現代にとっては記紀のような中央視点とは異なる、地方の多様な実情や文化を具体的に知ることができる極めて貴重な史料群。特に記紀にあまり登場しない在地の神々や英雄物語、地名由来説話、当時の生活感情や信仰、古代地名・方言などが豊富に含まれ、古代日本文化の豊かさと地域性を示す。第五項目の「旧聞異事」は後の説話文学の源流の一つとも考えられる。風土記は文献史料と考古資料を結びつけ、律令国家の地方支配実態や中央・地方文化の関係性を考察する上で不可欠。
6. 学問・教育の振興:律令官僚の養成と仏教教学の深化
天平文化の華やかな繁栄は、それを支える学問や教育の振興と深く結びついていました。律令国家体制を円滑に運営するためには、知識と教養を備えた官僚が必要であり、また、国家の精神的支柱となった仏教も、その教義を深く研究する学問的な営みによって支えられていました。本セクションでは、天平時代の学術と教育の側面に焦点を当て、官僚養成機関である大学寮・国学、学問仏教の中心となった南都六宗、そして知識の集積と伝達を担った図書館や写経事業について解説します。
律令国家は、中央に大学寮、地方に国学を設置し、儒教などを中心とする教育を通じて官僚の養成を図りました。一方で、国家的な保護を受けた仏教界では、平城京の大寺院を中心に経典の研究が進み、法相宗・華厳宗・律宗など南都六宗と呼ばれる学派が形成され、仏教教学は飛躍的な深化を遂げました。これらの学術・教育活動は、図書寮による書籍の管理や、国家事業としても盛んに行われた写経によって支えられ、文字文化の普及にも大きく貢献しました。
早慶などの難関大学入試においても、大学寮・国学の機能、南都六宗の名称と中心寺院、そして写経事業の意義など、天平時代の学問・教育に関する知識は重要です。これらの知的活動が、天平文化の形成や律令国家の運営にどのように関わっていたのかを理解し、考察する力が求められます。
本セクションでは、律令官僚の養成システムと、奈良時代の仏教教学の高度な展開、そしてそれを支えた知識インフラについて見ていきます。天平文化の知的な側面を学び、その多面的な豊かさへの理解を深めましょう。
6.1. 大学寮・国学:官吏養成機関の整備
律令国家は官吏養成のための教育機関を整備した。
- 大学寮:中央のエリート養成機関: 中央(京)に設置、主に五位以上貴族子弟、八位以上官人子弟、地方からの優秀な貢進生を受け入れ将来の官僚を養成。教育内容は明経道(儒教)中心だが、紀伝道(漢詩文・歴史)、明法道(法律)、算道(数学・暦学)の四道が主要学科。学生は寄宿舎で学び、試験を経て官吏登用試験(貢挙)合格で官人への道が開かれた。蔭位の制により卒業生が高位に昇進できるわけではなく役割には限界もあったが、大学寮は律令国家に必要な知識・教養(特に儒教と漢文)を教授し、一定数の実務官僚を供給する上で重要だった。
- 国学:地方官吏の養成と限界: 諸国国府に設置、主に郡司子弟などを対象に儒教・法律・書道などを教え、地方行政実務を担う人材(史生など)を養成。優秀者は中央の大学寮へ貢進される道もあった。しかし設置状況や教育内容は国により大きな差があり、全国的に十分機能していたとは言えない。
6.2. 仏教教学の発展:南都六宗による学問仏教の深化
奈良時代は国家仏教隆盛に伴い、仏教教学も飛躍的に進展。平城京の諸大寺では、遣唐使や留学僧がもたらした中国仏教の経論に基づき、専門的な研究を行う学派的集団が形成された。これらを総称して南都六宗と呼ぶ。
- 六宗とその教学:
- 法相宗: 玄奘伝来の唯識思想を研究。道昭、玄昉らが伝える。興福寺、薬師寺などが中心。奈良時代最も勢力が強かった。
- 華厳宗: 『華厳経』に基づき、宇宙の事物が互いに関係し融け合う壮大な世界観(事事無礙)を研究。新羅僧・審祥が良弁に伝えたとされる。東大寺が中心。
- 律宗: 僧侶が守るべき戒律とその精神を研究・実践。道璿、特に鑑真により正式に伝わる。唐招提寺、東大寺戒壇院などが中心。
- 三論宗: 竜樹の『中論』などに基づき、全ての存在は実体なく「空」であるという思想を研究。高句麗僧・慧灌らが伝える。大安寺などが中心。
- 成実宗: 『成実論』に基づき仏教教理(特に存在論)を研究。三論宗に付随して学ばれることが多かった。
- 倶舎宗: 世親の『倶舎論』に基づき存在構成要素(五位七十五法など)を分析・研究。法相宗に付随して学ばれることが多かった。
- 南都六宗の性格と意義: 独立した教団組織というより、各寺院所属の学僧が特定の経論を専門に研究する学派・学問集団としての性格が強い(兼学も)。国家保護の下、中国仏教の高度な哲学体系を摂取・研究し、その成果は天平文化の知的基盤を豊かにした。学僧たちは宮廷での講義や論議(維摩会など)に参加し、国家の宗教政策にも影響を与えた。
6.3. 図書館・書庫と写経事業:知識の集積と伝達
学術研究や教育、仏教信仰振興には、書籍の収集・管理・複製(書写)が不可欠だった。
- 図書寮:国家の図書館・出版局: 中務省所属。国家が必要とする図書の収集・整理・保管・書写・校勘を担当。国立図書館兼出版局のような役割。和紙生産(造紙署)も管轄。
- 寺院の経蔵と正倉院: 各大寺院には経典収蔵の経蔵が設けられた。特に東大寺正倉院には聖武天皇ゆかり品と共に膨大な経典や律令国家運営に関わる文書(正倉院文書)が保管され、当時の知識と記録が集積された。
- 写経事業の重要性: 前述通り、奈良時代には写経が極めて盛んに行われた。印刷技術がない時代、仏教の教えを広め、学術研究基礎資料を提供し、文字文化そのものを普及・定着させる上で決定的に重要だった。写経を通じ、書道、製紙、製墨といった関連技術も大きく発展した。
これらの学術・教育・知識集積活動を通じ、天平文化は単に華やかなだけでなく知的な深みと広がりを獲得し、後の日本文化発展にとってかけがえのない礎となった。