「受験は団体戦」という神話は、地方高校を中心に現在も語り継がれているようだ。近年は、SNSを中心として情報発信が容易になったことから、難関第合格者を中心に「受験は個人戦」という発信が頻繁になされている。そういう意味では、既に結論はでている。
ただ、ここで考えていただきたいのは、主張の主体である。「団体戦」と主張するのは概ね学校の先生であり、「個人戦」と主張するのは概ね生徒である。なるほど、明確に立場の異なる者が対極の主義主張を発信している。このように考えてみると、受験結果の定義が立場によって異なることが容易に想像できよう。
受験における「団体戦」と「個人戦」
団体戦
多少の違いはあれど、団体戦とは、個人戦を団体で総合し団体単位で勝敗を決定する対戦方法。
辞書等に記載されている意味は、概ねこういったものである。となると、当然のことながら、「受験は団体戦」というのは嘘となる。なぜならば、受験の合否は受験者個人に対して行われるものであり、学校単位や学級単位などの集団単位で行われるものではないからだ。
ではなぜ、学校の先生は「受験は団体戦」というのだろうか。それは、学校単位、集団単位で結果を出すからである。学校単位は分かりやすいだろう。学校のホームページにある合格実績である。多くの学校関係者以外は合格実績から学校の評価を行うのではないだろうか。内部の評価体制は噂程度でしかないが、学校単位は校長の、学級単位は担任の、評価になるというものがある。さらには、地元国公立に合格すると加点があるとか、というもの。そう考えると、地元国公立志願者を増やし、志願者同士で勉強を教え合うことで合格率を高める、と手法は正しい。
個人戦
個人戦とは、個人単位で勝敗を決定する対戦方法。
辞書等に記載されている意味は、概ねこういったものである。となると、当然のことながら、「受験は個人戦」となる。なぜならば、受験の合否は受験者個人に対して行われるものでありるからだ。また、これも当然だが「結果は個人に帰する」ということである。志望校に受からなかったとしても、学校や教職員に直接的に影響が出るわけではないし、当然、浪人の費用を負担することはない。納得の行かない受験・受験勉強をした際に、最終責任を取るのは受験生とその家族なのである。
受験について、真面目に考える学生の多くはこの結論に辿り着くだろう。ただ、これは試験のみを対象としているのであって、過程をも対象とするのならば、少し違う。切磋琢磨という言葉があるように、人と競い合ったり協力し合ったりすることで、成長を期待するということはあるだろう。ただし、切磋琢磨する対象は学校に限定する必要はない。なぜなら、多少の選抜試験を突破し、同程度の生徒によって構成されているとされる高校は、二年の時を経て、三年次になる頃には、上と下で大きな差ができているからだ。であるならば、「受験は団体戦」などという外圧に捉われることなく、塾やSNSで気の合う友達を見つけ、自信にあった人たち同士で教えあったり、刺激し合うことで、合格を目指していくことが重要である。塾の志望校別クラスや選抜クラスであれは、それごとにクラスが組まれるので、学校よりは同じ志を持った仲間に出会える可能性が高いからである。そういう意味では、自身の通う学校で、団体戦が成立するのか、ということを一度考えるのも良いかもしれない。
対処法
試されるのは「意志の強さ」
「受験は団体戦」の最も大きな弊害は、「学校や学級のもつ組織的な性格に個人が合わせなければいけないこと」、である。特に高校では、学年が上がり受験を意識するにつれて学校からの指導が増えてくるでしょう。あまり意識しないかもしれないですが、学校組織の力が生徒個人に対して増大していると考えることはできないでしょうか。そして、組織の力が大きくなれば、個人の意思を排除し、組織の意思に従属させようとする。ただし、結果の責任は個人が負う。
この同調圧力は、「団体戦」・「個人戦」の区別だけでなく、様々に存在する無駄なイベントで説明できる。代表的なものは、受験科目以外の授業や目的不明の講話など、である。そして、受験校のレベルの異なる授業なども実際的には無駄である。特に問題なのは教師の自尊心を満たすために、授業に付き合ってあげて不合格すること、は絶対的にマイナスである。しかし、こういう状態を是正しない教師は、自身の指導が生徒のタメになっているかの評価が行われないので、改善されることはない。
こうした「無駄」に対して、自らが強い意志を以って必要な学習をする力、が問われていると考えて良い。クラスの雰囲気が悪くなるからと、「団体戦」のために学習を諦めることのない人が志望校に合格するのである。これも実際、「内職(学校の授業中に、塾のテキストや参考書・問題集等を用いで自学自習に励むこと)」という行動によって確認することができる。これができる人は、自分で必要な学習を判断し、授業との優先順位を考えた上で、何かとマイナス要素のリスクを抱えながら、「内職」を行なっている。教師によっては、自身の授業が無駄だと表明されているのだから、あらゆる手段で妨害し、自由を奪う。自己責任で自由になどさせない。こうした環境下で、「内職」に励む人は、判断力に長けているので、比較的学力の高い傾向にある。
「集団戦」の「集団は塾や予備校、オンラインコミュニティ」でもいい
人と喜びを分かち合うことは重要であると考えている。ただ、「受験は団体戦」の問題として挙げられる、友達は受かったけど自分は落ちた、という状況に対して、それまでと同じ関係を続けられるか、ということである。例えば、同じクラスの友達に勉強を教えていて、志望校に不合格となり、浪人を経て大学に合格した場合、友達でいられるかどうか、という問いである。やはり、教える時間を学習の時間に当てていれば、受かったと考えることはできないだろうか。こうした観点が一つあるように思う。
何も人と勉強することが悪い、といっているわけではない。自身の学習レベルを周りに合わせて下げるのが悪いのである。人に教えることで、自身の理解度を確認する。人の考え方を知り、他人の頭の使い方を知る。こういったことは非常に重要で、実際、東大や京大、医学部に特化した塾でもディスカッション形式の授業は行われており、特別珍しいことではない。特に重要なのは、自分と同じレベルまた自分より高いレベルの人と「話し合う」ような2方向のコミュニケーションが生まれるような、学習を心がけること。少なくとも、一方的に「教える」ような1方向のコミュニケーションによる学習は、自身の学習としては機能しない。
志望校と学校の実績が大きく離れている場合、学校で浮いた存在になることは必至である。しかし、人と勉強できないわけではない。そのために、塾や予備校がある。費用的に難しいならオンライン上でもいい。様々な無料コミュニティが存在しているので、参加すること自体は簡単だろう。そうした、自分に適した環境に身をおくことで、自身に合った学習をすることができる。
まとめ
近年は、YouTubeなどのSNSや映像予備校・オンライン系の予備校、の発展によって、地方でも受験知識を獲得できる機会が増え、受験に適した環境は整いつつある。しかしながら、学校の影響というの絶大で、個人で意欲的に学校から離れて情報を取得しようとする人は少ない。そのため、合格実績に力を入れている高校(多くの場合は私立高校であるが、一部の公立高校も含まれる)を除けば、まともな合格実績を獲得できない状況が現在も続いている。概ね、昭和は公立高校の合格実績が高く、平成は私立高校の合格実績が高く、令和は個別的な学校事情に依存、というのが実情である。
「受験は団体戦」という言葉は、コミュニティがオフラインで完結していた時代には、良くも悪くも成立していたのだろう。そもそも、関わる人や塾が地理的制約を受けるため、自分と同じ方向性を向いている人を探したり、必要な情報を自らが得ようとしても、限界が生じるのである。また、受験の合否も学力に依拠している部分が多く、今よりは勉強をしている学生が多いように感じる。そう考えると、全員が勉強するのだから、志望校のレベルが低い人からも志望校のレベルの高い人が学ぶものもあったかもしれない。しかし、インターネットの発展と受験方式の多様化した現代において、学校側が無責任に「受験は団体戦」と叫んでも、不満がインターネット上で拡散されるだけで、何もいいことはないと考える。これからの時代は、腐った組織と個人の戦い、が様々な学校で行われるのであろう。その動向にはこれからも着目していきたい。